駆け込むように入った先で、堂上の視界にまっさきに飛び込んできたのは本を胸に抱き、嬉しそうに笑う郁の姿だった。他に目立った利用者が居なかったからという訳ではない。いつだって、堂上の視線は郁を追う。惹かれるようにその視線の先に郁がいる。それを不思議に思う時期はとうに過ぎた。自分にとって郁はそういう存在なのだと、今の堂上はもう認めている。

 ―――なんで。

 背の高い男を見上げて、はにかんだ表情で頬を染めて笑う郁の姿にぎゅっと堂上の心臓が軋む。

「今日はありがとうございました」
「笠原さんみたいな可愛い子のお願いだったらいつだって」
「やだ。あたしみたいなのに、そんなお世辞いらないですよー」
「お世辞じゃないんだけどな。
 ところで―――笠原さんさ、今日このあと」
「あのっ!あんまりたいしたこと出来ないんですけど・・・お礼にお茶でも奢ります!お時間大丈夫ですか?」
 郁が男の手を取って迫る。そこからの堂上の行動は衝動だった。
 背後から近づき、郁の肩を思い切り引っ張る。


「―――え?」
「―――堂上二正・・・」
「うえぇ?!堂上教官?!え。何で?!嘘!緊急招集かかりました?!すみませんっ!」
 慌てる郁の姿に、そんなに知られたくなかったのかと堂上の心が冷える。そしてそのまま目の前の男を睨む。
「―――悪いが、こいつは返してもらう」
 郁の腕を取り、踵を返す。
「あ、津田三正!お礼はまた後日改めて!!」
 堂上に腕を取られ、引き立てられるように足を進める中、振り返りながらそんな声をかける郁に一層苛立ちが増す。





「教官?」
 建物の裏に連れられ、壁を背に囲われた郁は不思議そうに首を傾げる。
「仕事じゃないんですか?」
「―――そんなものない」
「じゃあ何で?」
「それはこっちの台詞だ!なんで、こんな―――!」
 言いながら胸が潰れる。

 ―――何で。いつから。どうして。

 何がいけなかったのだろう。郁の心が離れていくことに、なぜ気が付けなかったのだろう。
 思っても思っても答えの出ない感情が堂上の中を渦巻く。

 ―――それとも、初めから違っていたのだろうか?

 稼業中も、休みの間も堂上は許される限り郁を見てきた。そして郁から向けられる視線に含まれるものは自分と同じだと思っていたのは自惚れだったのだろうか。そんな思いが彼女の重荷になっていたのだろうか。
 そうだとしたら―――。
 少し距離を取った方がいいのかもしれない。そう思うも、今ここで手を離したら、あっという間に走り去られ、そのまま戻ってこないんじゃないかという恐怖が走ってそれもできない。

「―――なぁ。郁。俺に不満に思うことがあったら言ってくれ。治せるところは何だって治す、だから―――」
 そんな堂上の言葉に、郁は「いきなり何?」ときょとんとした瞳を向ける。
「―――堂上教官に不満なんてないですよ?てかあるわけないじゃないですか。あたしにはもったいないくらい素敵な人なんだし」
「だったら、なんでこんなところにいる」
 問い詰められ、郁は「うっ」と口籠る。
「―――郁」
 言え、と迫る堂上に郁は「だって」と視線をそらせ、おずおずと切り出す。
「ま、前に比べて、少しはマシになったかな、って自分では思ってたんですけど・・・。
 でも、やっぱり、まだまだ、不慣れなこと、多い、し・・・」
「だから?」
「だから、早く慣れようと思って!
 教官だって、こういうのは慣れだ、経験だって、言ってたじゃないですか。
 だから、最初は手塚を相手にしようかと思ってたんですけど・・・」
「―――なんでそこで手塚が出てくる!」
「うぅっ、だって、手塚は同期だし、いきなり知らない人に頼むよりは、まだ、マシかなって・・・。
 でも、よく考えたら、ていうか、考えなくても手塚はあたしのタイプじゃないし。あーいう理詰めは苦手だし。
 だから、柴崎に頼んであたしに合う人紹介してもらったんです」
「おまっ―――男だったら誰でもいいのか!?」
「べっ、別に男の人に限ってません!たまたま今日は男性職員だっただけです!」
 変な風に言わないでください!とプリプリ怒る郁に堂上の威勢が次第に収まる。


「―――ん?」


 こういうことに関してどちらかというと鈍いと言われるし、殊郁のことに関しては狭量で視野が狭くなると自覚している堂上ではあるが、それでも目の前にいる郁よりはずっとマシだと思う。
 どうやら自分たちはお互いズレた場所から議論しているらしい。堂上は今一度郁に聞いた。
「郁。もう一度確認するが。
 お前、ここで『何』してた」
「だから、―――レファレンスの練習です!分かってて聞きます?フツー?!
 もう!自分でもいまさらだって分かってます!
 でもだからってそんなに怒んなくてもいいじゃないですかーっ!!」
 その言葉に堂上は思わず脱力する。両肩に手を置き項垂れ、大きく息を吐く堂上に郁が涙声になる。
「そっ、そんなに呆れなくてもいいじゃないですかーっ!」
「―――いや、そういうわけじゃない。
 まぁ、その、お前にその気がないことはよく分かった」
「なっ―――!ひどい教官!その気がないってあんまりです!
 そ、そりゃ確かにもの覚えは悪いですけど!だからってやる気がないわけじゃないんです!
 だから、それをフォローしようとこうして休日潰して励んでるんじゃないですか!」
「分かった。それについてはよぉっく分かった。お前が彼氏より仕事を取る女だってことはよく分かった」
「べ、別に仕事をとったってわけじゃないです!ただ、せめて、・・・仕事くらいは教官が恥ずかしくない彼女になろうって・・・」
 そこまで言ってハッとしたように郁は手で口を覆うが、時すでに遅し。堂上の眉間には皺が寄り始める。
 殊郁のことに関しては狭量で視野が狭くなると自覚している堂上ではあるが、それと同時に殊郁に関しては目敏くその変化に対しては敏感な男でもある。
「何でいきなりそう思った」
「い、いきなりじゃない、ですよ?あの、ほら、前から柴崎には相手してもらってましたし・・・」
 勿論それは知っている。「あいつの授業料高いんですよ」とぼやく郁の姿を何度も見ている。そんな郁の姿に苦笑し、そして付き合う前はそれを口実に食事に連れ出していたのは堂上だ。そして、今の郁が以前のように凹むようなレファレンスをしていないことも勿論把握している。向上心が高く、仕事熱心なところは認め評価しているところではあるが、おそらくそれだけではないことを堂上は感じ取った。


「―――誰に何言われた」
「なっ、何も!」
 びくりと一瞬肩を強張らせたのを見逃すほど堂上は甘くない。
「―――分かった」
 ホッと息を吐く郁に畳掛ける。
「―――お前に言う気がないのなら、柴崎に確認するまでだ」
「まっ―――!これはあたしの問題です!だから、教官には関係ありません!」
「ほぅ。デート潰しておいて、俺には関係ないと言うか、お前は」
「そ、それと、これとは話が別です。これはプライベートなことなので」
「そこをフォローするだけの資格を有しているというのは俺の思い上がりか?」
「それは―――・・・・・・」
 ただの上官であれば、そこで線引きをされるとそれ以上踏み込むことはできない。けれどそれだけではなくなった堂上にそこを躊躇する枷はない。
 一切引く気のない恋人の様子に、郁はしばらく押し黙った後、堪えかねて小さく口を割った。












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