泣き出しそうな空。
わたしだけに聞こえる雨の音。



ああ確かに泣いていたのだ。





Dear Ms. the princess who is a crybaby.




柴崎はふと顔を上げた。



どこからかぽたりと落ちる水音が聞こえた気がしたのだ。



柴崎は立ち止まり周りを見渡した。閉館後の図書館棟の廊下は人の気配もなく静かだ。
でも、確かに何かが聞こえた。



「雨・・・?」


一瞬だけ聞こえた何となく聞き覚えのある水の音。
窓の外をみると曇ってはいるものの、まだ降ってはいなかった。
天気予報では午後の降水確率は30%と言っていたが、流れ込んでくる空気が水分を含んでいるような気がしたから、もうすぐ降るのかもしれないと柴崎は思った。



目を向けると中庭の緑が風に揺らされてざわざわとしている。


・・・聞き間違いかしら。



でも、ひどく鮮明な音だったと思った。
柴崎は立ち止まったまま耳をすました。
もう音はしなかったが似たような感覚には覚えがあった。



そして思った。



違う。これきっと現実の音じゃない。
だからと言って幻聴、というものでもない。と思う。
脳裏に響くように鮮明に残る跳ねる水音。




外をもう一度眺めてみても、やはり雨は降っていない。
雲がかかった空は少しグレーがかっている。
もう一度のぞきこんだ窓ガラスに写った自分の顔はなんだか酷く歪んで見えた。



それにしても、さっきのは何だろう。



冷たい雨の気配だった。
しとしとと降る時雨のような。




そんなイメージが頭をよぎる。



悲しい気配が満ちている。





人には元々個人差はあれ、虫の知らせと言うような第六感というものが備わっているという。
特に女性は比較的その力が強いといわれるが。
馬鹿馬鹿しいと柴崎は軽く頭を振る。
シャーマニズム的な力ではなく現実的な情報を武器にしている自分には縁のない話だ。
だったら、予知夢の一つでも見てもっと上手く転がしてるわよ。
まぁESPがあれば便利だとは思うけどね。



窓から弱い光が差し込んでくるのをぼんやりと見つめながら、
これが、笠原ならもっと何か分るのだろうか。
ヤツの場合は第六感と言うか、野生の勘っていう方が正しい気がするけど。
そんなことを考えながらゆっくりと歩き出し、人気の無い廊下を歩く。



武蔵野第一図書館の玄関前には利用者に開放されている前庭が広がるが、敷地は図書基地を併設しているためそれ以外にも眼隠しや監視避けも兼ねて多くの樹木が植わっている。図書館と基地庁舎の間においても緑の濃い中庭が一望できる。
なんとなく、そんな緑が広がる外を見ながら歩いていく。
すると緑の中を動く影が目に入ってきた。



―――あれは。堂上教官?


木陰の間を真っ直ぐに進んでいく見知った上官の姿に。珍しいな。と柴崎は思った。
上からだとその表情は覗えないが、なんとなく焦燥が感じられる。
普段、冷静沈着に構えている人が。
いや、あの人がなりふり構わず必死になるのはそう珍しい事でもないか。
そしてその原因は大抵一つしかないことも柴崎は知っている。
何となく柴崎の視線は堂上の姿を追う。
そしてギクリと動きを止める。
堂上が向う先。追った先にはに今まで気がつかなかった人影がある。




「―――笠原」



迷いのない堂上の脚ははどんどんと郁に近づいていく。
柴崎は複雑な心境になりながらそれを見ていた。



郁は樹木の後ろにある生垣の隅で、庁舎側に背を向け、長い脚を窮屈そうに畳み、膝頭に顔を埋めて俯いていた。
木漏れ日を受けて輝く琥珀色の髪が今は垂れ下がり一層の蔭を作る。
それはどこか萎れた花のような寂しい姿だった。





・・・雨




柴崎の脳裏に浮かんだのは先ほどの雨の音だった。
ぽたぽたとまるで制服まで濡れて水滴が滴るのが見えるような気がした。


どうして?
雨は降っていないのに同じような気配がするの?
柴崎は窓に擦寄り、眼下の光景を息を潜めるように見つめた。



さっき一瞬、聞こえた雨音が再び柴崎の耳に聞こえていた。
いつものように落ち着いた歩みとは違う、焦ったような雰囲気の堂上。
利用者から目の保養になると褒められる美しい花々に目を向けることも無く一直線に近づいた堂上は、ゆっくりと郁の前に跪いた。



・・・え?



堂上は外界を阻むように埋められた郁の顔を両手で包むように掴んだ。
そして、膝に身を乗り出すようにして顔を覗き込む。


堂上は何も言っていない様だった。
ただ顔を覗き込んで落ち着かせるように顔を頭を指をなでるのだ。








笠原、と口の中で呟いた柴崎は窓に手のひらをつけた。






窓の外は随分日が落ちている。
周りがもうすぐ暗闇に染まる中庭の一角に跪いた堂上は別人のように見えた。
誰にも見られていないと思っていることが素直な姿を見せるきっかけとなったのだろう。
伸ばした腕は避けられることもなく届いていて。
そのまま、郁をゆっくりと引き寄せた。



そして堂上はそっと片手はずし手を伸ばした。
大切なものに触れるかのような優しい手付きで頬を拭う。


ああ。笠原はないていたのだ。
俯いたままポロポロと涙を落としていたのだ。



食い入るように見つめる柴崎の耳に止まらない雨の音が呼吸するように大きく小さく聞こえる。



柴崎は動けないまま、堂上が涙を何度も何度も飽きることなく指で拭うのを見ていた。
すべてが自然で当たり前のことに見えた。



柴崎は思わず詰めていた息を吐き出した。
窓ガラスに当てていた手のひらはすっかり冷たくなっている。
少ししか時間は経っていなはずなのに、長い時間見つめていたように頭がくらりとした。
柴崎は目を閉じて額を冷たい窓ガラスに押し当てた。



ガラスはひんやりとしていて心地よかった。




柴崎はその冷たさに助けられるようにふたりのことを考えた。




郁は堂上の手をそっと外してハンカチを目元に押し当てていた。
手を離された堂上はゆっくりと立ち上がり隣に座る。
堂上は切ないほど郁を優しい表情で見つめていた。




そうして。
郁は微笑んでいた。




柴崎はいつの間に耳元で響いていた雨音が消えているのに気がついた。
郁の顔には小さな笑顔があった。




ああ。
柴崎は思った。



あの音は。
雨の落ちる音ではなく。
郁が涙を流す音だったのだ。




出来すぎているけど、柴崎にはそうとしか思えなかった。








誰にも聞こえない水音。
柴崎が聞いた水音。




ああ。
あたしは、思ったよりも笠原のことが好きなのかもしれない。
決して人には聞こえない涙を流す音が伝わるほど。

そして、それは的確に堂上にも伝わったのだろう。
ずっと響いていた雨音が堂上が現れた途端、消えうせるなんて。
どれほど出来過ぎた話だろう。



それを羨ましいと思う反面、悔しいと思う自分に柴崎は苦笑し。
ゆっくりと窓ガラスから身体を離す。






「さてさて。どこのおバカさんが、あたしの笠原を泣かせたのかしらねぇ」











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