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寮の玄関を出たところで突風が吹き抜けて、郁ははためく上着を押さえながら思わず目をつぶった。 風が収まり瞳を開けると、散ってしまったキンモクセイの花びらが風の名残に乗ってひらひらと舞い踊り、郁の視界を通り過ぎる。 折角きれいな花なのに勿体無いと郁は残念に思ったが、光に照らされて舞う姿もとてもきれいだ。 吹く風にはほのかに甘いキンモクセイの香りが乗っている。それでいてさわやかな香りが。その花の色にふさわしい、太陽のような香り――。 その光景に見入っているとふいに手を伸ばされて、郁はどきりと我に返る。 見れば隣にいた堂上が小さな山吹色の花を一つ、その無骨な指に手にそっと摘まんでいた。 「髪に花びらがついてるぞ」 穏やかに微笑んだ堂上は再び郁へと手を伸ばす。 近づく気配に、郁はそわそわと頬を瞬時にして赤らめた。 堂上が特別何かを意識しているのではないと理解してはいるのだが。 いかんせん恋愛偏差値が平均以下の郁である。おまけに郁にとっての堂上とは3年間厳しい上官だった男だ。 そんな堂上と恋人になっておよそ3月。プライヴェート、恋人としての顔は二人きりの病室で、何度も見た。けれど、そう簡単に慣れるものではない。 入院中はほとんど毎日の様に病室に通った。その度に優しく微笑まれ、甘く触れられ。ベッドの上に腰掛け、抱き寄せられ、キスをされ。 それでも。 堂上から与えられる一つ一つの好意に満ちた行為を平静と受け入れられるまでには至っていない。 「え、と。ま、まだ付いてます?ど、どのへんに?!」 自分で取りますと慌てて郁も手を伸ばすと、そのまま残る堂上の手に触れてしまい、ますますどきりとした。 これしきのことで動揺するなんて自意識過剰のようで恥ずかしいが、その指の温もりや優しさを知ってしまった身にはなかなかに素知らぬふりをするのは辛い。 そんな郁の気持ちを恐らく気付いてもいない堂上は郁の手を取って導いた。ギャっと悲鳴をあげなかっただけでも進歩だろう。そう思ってほしい。 バクバクと打ち鳴る鼓動をなんとか押さえ込み、郁は懸命に平静を装って口を開く。 「さっきの風でたくさん舞っちゃったみたいだったから。まだついてますか?」 郁は指先に触れた花びらを摘み取って眺めた後、離れる気配のない堂上を見て、戸惑ったような笑みを浮かべる。 「きょうかん」 「ちょっとじっとしてろ」 「え?あ、はい」 たかだか花びらを取るのに堂上はやけに真剣な顔つきで、どうしたのかと少し不思議に思う。 花びらだけでなく何かあまり嬉しくないものがついているのだろうか。 とはいえ虫とかそういう類なら郁は別に平気だと、郁が口を開く前に郁の髪に手を触れたままの堂上が再び微笑んだ。 いつもの優しくて見ているだけでほっと心が温かくなる郁の大好きな笑顔だ。 自然と見詰め合っている形になるが、郁は視線を逸らせなかった。 言葉を発するのを忘れて、郁も自然と頬を緩めたが、やがてはっとした。 その状態でしばし続いた沈黙は当然不快なものではなかったけれども、段々と気恥ずかしくなってくる。 「えっと、教官?あの、その、どうかしました?」 誤魔化すように郁は堂上に問いかけた。まさかそこで超ド級の爆弾を投下されるとも思わず、油断した。 「―――ああ、すまん。あんまり可愛かったから」 つい、見惚れていた。 そんな言葉に、郁は「はい?」と思わずポカンとした顔を晒す。 ジワジワとその言葉が沁み渡り、郁がぎょっと目を見開くと、堂上も気付いたのか照れたように慌てて顔を背けてツンと軽く郁の頭を叩いた。 しかし、恥ずかしいのは言われた郁とて同じである。 心臓に悪いと郁はどぎまぎと胸を押さえた。 好きだとか、愛してるとか。堂上はそんな直接的な愛の告白をする男ではない。そもそも郁の告白に対する返事もキスという行動で返したくらいだ。 堂上の異性に対する言葉の扱いはけしてスマートではなく、どちらかというと口下手な方だ。 そのくせ郁に対して「可愛い」という言葉は簡単に突いて出てくるのだから勘弁してほしい。 女の子らしくないと言われることに慣れていて、自分でもそう思っているのに。ましてやそういう目で見られているわけがないと思っていた相手に言われる破壊力といったら相当だ。 好きな人にそう言われて嬉しくないわけはない。けれどそれ以上に堂上からそう言われるとくすぐったい恥ずかしさが嬉しさを上回って困ってしまう。 見ているだけでもドキドキしてしまうのに。そんな甘く優しい言葉を掛けられて落ち着けるわけがない。 堂上教官は自分のかっこよさとか言葉の威力をもう少し自覚した方が良い、と郁は思う。いつか自分は堂上の言葉に殺されてしまうんじゃないだろうか。 コホン、と堂上が一つ咳払いをする。 「―――行くか」 「はい」 堂上の左手が郁の右手を掴み、引き寄せるようにして距離を縮めた。 「教官っ?!」 まだ、寮の、図書隊の敷地内でまさか堂上がそんな行動に出るとは思わず郁はうろたえた。人前でいちゃついたりなんてする人には見えないのに! 「―――いやか?」 返された声はどこか拗ねたように聞こえて、郁はブンブンと首を振って、きゅっとその厚い掌を握り返した。 「嫌なわけありません!あたし、教官と手、繋ぐの好きです!」 「んな大きな声で宣言すんな。恥ずかしい」 先に恥ずかしいことしてきたのはどっちだ!そう思いながらも、郁はその手を離せない。 スルリと指の間に絡まって来た指。恋人繋ぎだ、と郁は赤くした顔を伏せる。 堂上と手を繋いで出掛けるのは初めてではない。交際を始める前に「偽装」と称して繋いだこともある。 指と指を絡めた繋ぎも初めてではない。病室にいる間はずっとそうだった気がする。それほど触れて繋がっていた。 それでも、本当の恋人同士でデートするのは初めてで。その事実だけでアタフタとしてしまう郁にはなかなかに刺激が強い。 これは任務でもなんでもなく、堂上が、そして郁が、お互いにそうしたいと思った結果だ。 「―――せっかくのデートだってのに、手繋がんとかありえんだろう」 堂上は開き直る。いよいよ開き直ってしまった。そのほうがずっと心地良いのだがら堂上は困った。いや、困ることはない、と訂正する。 初心のひたむきさを思い出し噛み締めただけで、気持ちはとても華やいで高揚しているのだから、自分は今きっとそうとう色ボケている。それもいいだろう、と思うくらいだから相当だ。 今更一度繋いだ手を恥ずかしがって離すなんて、それこそどうかしている。 「随分と遅くなったが、まずは映画から再開だな」 「はい」 二人の間でしっかり繋いだ手が、歩くたびにゆったり揺れる。 郁は今にも歌い出しそうな気持ちで言った。 「教官。教官」 堂上を振り返って笑いかけると、堂上はまぶしそうに目を細めた。 「ん?」 「大好きです!」 唐突な言葉に堂上は一瞬面を食らうが、それでも浮かれていたのであっさり、オレも、と答えた。 |