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夕日が作る自分の影を眺めながら、郁はひとり海岸沿いの堤防の上を歩く。 (きれい・・・) 真っ赤な夕日が空と海を朱色に染めながら沈んでいくのを眺めながらそっと思い描く。 赤い道の上を歩く日のこと。 その道を歩く自分のこと。 折る指が両手の指で足りるほどまできた未来のことを。 今でもまだなんだか夢を見ているようだ。 空にかざした左手を見ながら思う。 左手の薬指にはめられたエンゲージリングが陽の光を受けてキラリと反射する。 初めて、二人で、カミツレのお茶を飲んだあの場所で。 「提案」という形でのプロポーズを受け取ったその日にオーダーしたものだ。 ◆◆◆
「あ、あの、教官!」 「教官?」 ギロリと睨まれ、ヒャっと肩を竦めた後、郁は顔を真っ赤にして「あ、あつ、しさん」とどもりながらほんの十数分前に初めて呼んだ呼称で堂上を呼ぶ。 「あ、あの、此処」 「百貨店ならそれなりの宝飾店が入ってるだろ」 駅のコンコースから手を引かれてやってきたのは、駅近くにある百貨店の一つだった。 百貨店で買い物をする機会は郁にはそれほどなく、立ち寄ったとしても雑貨店やデパ地下くらいだが、いわゆるブランドショップが立ち並ぶフロアがあることは勿論知っている。敷居が高く縁もゆかりもなかったので今まで立ち寄ったことはないけれど。 「あ、あの、ほんとに、行くんですか」 ―――指環の下見。 言葉にするのさえも恥ずかしくて、後半の言葉は声にならずに掻き消えたけれど、堂上にはそれも聞こえていたようで「当たり前だろう」とあっさり返された。 「お前を待つことは問題ないが、躊躇は相当な損害が出ることが分かったからな。 今ここで躊躇したら、いつ次の機会が来るか分らん。時間が経って変な遠慮がでると困るしな。 何より、指環の一つも用意しないままじゃ体裁も整わんだろうが。 この機を逃してここまで来て更に一月待つことになったら堪らん」 「で、でも」 「何も今すぐ籍入れに行こうと言ってるわけじゃないんだ。俺はそれでも構わんが」 「待って!流石に、そ、それはあたしの心臓壊れます」 「だからまず指環の“下見”だと言ってるだろう」 軽く微笑まれて、あぅっと郁は顔を真っ赤にさせた後は大人しく堂上に引かれるまま店内に入って行った。 そして普段は立ち入らない、あるいは素通りしてしまうような煌びやかなフロアに郁はガチリと固まる。 ―――あ、あたしには、やっぱり、敷居が高すぎます、教官!! 郁だってけっして多くはないが、まったくアクセサリーを持っていないわけではない。けれど、それらのほとんどは雑貨屋で扱われているようなもので、学生でも入れるような店のものだ。 だけどここはそんな軽くウィンドーショッピングをするような雰囲気の店ではない。何の心の準備のないまま立ち入っていい場所ではない。 慌てて前を歩く堂上に声を掛ける。 「きょ、」 「きょ?」 真っ直ぐ見つめ返され、郁は上げた顔をまた下げる。耳まで真っ赤にして。 そんな姿を堂上は可愛いなと思いながら見つめる。初心すぎる年下の彼女、改め婚約者は些細なことにも大げさに反応するが、その姿がまたいちいち可愛くて堪らない。そう思いながら待てる余裕が今の堂上にはある。 急かすことなく、じっと郁の言葉を待ってやる。ただ待ってはやるが容赦はしない。 しばしの空白の後、俯いたままの郁の口からゆっくりと言葉が紡がれる。 「あつ、し、さん」 まだ恥じらいが勝って消え入りそうな声で呼ばれるが、そんなところも含めて可愛くて愛しくて仕方がない。堂上の顔に自然と柔らかい笑みが浮かぶ。 ポンと頭に手を乗せてやれば、ゆるゆると郁の顔が上がる。安心させるようにポンともう一度軽く叩く。 「慣れないのは分かるが、頑張って店の中では名前で呼べ」 相手も接客のプロだ。内心でどう思ってもそれを顔に出したりしないだろうが、それでもやはり「教官」という敬称は婚約者が呼ぶには一般的ではないだろう。 ようやくなんの衒いもなく呼べるようになったと、付き合うようになってからすぐに当たり前のように名前呼びをしていた自分とは違い、ずっと「教官」呼びでいた郁にいきなり名前で呼べというのは酷だとは少し思うが、おそらくこうでもしないと郁は意識をしなかっただろう。 名前で呼ばれたいという思いはずっとあったが、それ以上にキスだのセックスだのという即物的な肉体的欲求を優先し、まぁいずれ、おいおい、と後回しにして気にした様子も見せなかった堂上にも責任の一端はあるのだろうが、それはそれだ。今までいろいろ待ってやった礼にしておけと勝手に郁の了承もなく心の中で結論付ける。 ―――いつもお前の不意打ちの可愛さに振り回されてるんだ、たまには俺が我儘を言ってもいいだろうが。 全く持って勝手な言い分ではある。実際には、堂上も割と郁に対しては己の本音を晒したワガママな振舞いをしているのだが、そこは敢えて気づいていないフリをする。 「いらっしゃいませ」 落ち着いた声に出迎えられる。 「本日はどのようなものをお探しでしょうか」 しずしずと前に出て尋ねる様は、やはり普段行くショップ店員とは雰囲気からして違う。 店の雰囲気に気圧されている郁に内心で苦笑しながら、堂上が落ち着いた声で答える。 「婚約指環を」 そう告げると、店員は柔らかな笑みを浮かべ「おめでとうございます」と丁寧に頭を下げた。 「ありがとうございます」と礼を返す堂上に、郁も慌ててペコリと頭を下げる。 どんな状況でも、相手への礼儀を忘れない郁はやはり根幹では育ちの良さを感じさせる。いい意味でもあの母親の影響を受けている証拠だ。 「では、こちらへどうぞ」 柔らかな物腰の店員に先導され店内を進んでいると、緊張感より好奇心が頭を出してきた郁がキョロキョロと通路脇のショーケースを見渡す。 「あ」と足を止めた郁に、必然的に繋いでいた手が引かれる形になり堂上が振り返る。 「どうした?」 「あ」 どうしようと、考える素振りを見せた郁だったが、向けられる堂上の表情が優しく柔らかいもので、郁の言葉を待っている様子だったので「これ」と気になった商品を指さす。 「カミツレに似てるなって」 「―――ああ、そう言われるとそうだな」 どれだ、と堂上がショーケースを覗き込むと、そこには透明な黄色の宝石の周りにダイヤモンドと思われる透明な石が配された指環が飾られていた。その配色はたしかにカミツレを思わせるもので、カミツレに思い入れのある郁が気になったのも仕方がないと言えた。 じっとそれを見ていた郁が、顔を上げまっすぐに堂上の顔を見て言った。 「あたし、これがいいです」 滅多にオネダリというものをしたことがない郁のはっきりとした意思表示。 普段であれば、おそらく郁が気にした視線を向けていることに気づいた段階で、堂上の手は財布に伸びていただろう。 掛ける金が愛情を図るものだとは思ってはいないが、可愛い彼女は自然と甘やかしたくなり、欲しいものはなんだって買い与えたくなる。 けれど、今日はそんなオネダリに素直に頷くことは出来なかった。 今しているのは無目的なウィンドーショッピングではなく、婚約指環探しだ。 そんな中で郁が選んだ指環は。 「いや、でも、お前それは」 ―――どう見てもファッションリングだろう。 勿論、ファッションリングでも婚約指環足りえる商品も多くあるだろうが、今目の前にあるのは一カ月分の家賃どころか一回のデートの代金でもおつりが出そうなカジュアルなものだ。 「んー。でもあたし気になりませんよ?」 「お前が気にしなくても俺が気にする」 なにせ「婚約指環」だ。郁本人が言ったように「大きな買い物」だ。男から女へ贈る物としては一番高価なものと言ってもいいのではないだろうか。これから先、掛る費用は二人で、あるいは両家での負担になる。 堂上から郁へ、生涯を誓う相手に添えるものなのだから、手軽に済ませようという気はない。 金が愛情の全てとは言わない。どんな金額を積まれても、堂上に郁の隣を他の誰かに譲る気はない。そして郁がそれを求める女でないことも嫌というほど知っている。 だが、ここ一番の男の甲斐性の見せどころだ。 贈り手の堂上を初め、周りに宝石の目利きが出来る人間が多くいるとは思わないが、そんな中で厄介なことに身近な同期の小牧なんかはこの手の話は無駄に詳しいだろうし、同じく部下である手塚は育ちの良さから無自覚ながら物の良し悪しは分かるだろう。そして何より、その辺りの目利きがズバ抜けている柴崎はあろうことか郁の同室で親友だ。すぐに指環の価値を見抜き、その上ドンピシャな値段を言い当てあっと言う間に特殊部隊の面々に知れ渡るだろうことは容易に想像できる。 ここは堂上の立場としても多少の見栄は張らせてもらわないと困るのだ。 「―――欲しいんなら、それも買ってやるから」 「え、そんないっぱいは要らないですよ」 「けどな、両家の顔合わせだけじゃなく、公的な場にもつけていくことを考えたらそれなりのグレイドのものを用意しないと決まりも悪いだろうが」 「でも、一目惚れしちゃったし」 諦めきれない郁の様子に、後ろで少し困ったような笑みを浮かべているプロにも助言を請う。 「どうなんですか、実際。これを婚約指環というのは」 「ええ、そうですね。あまり、いらっしゃらないかと」 あまり、というか多分絶対だ。聞くまでもない。 婚約指環を買いに求めて、カジュアルファッションリングのコーナーで足を止めるものはそうそういないだろう。 「石もトパーズとジルコニアですし」 「ジルコニア?」 「ええ。透明でダイヤモンドに近い高い屈折率を有することから模造ダイヤとも呼ばれています」 模造、というくらいなのでその価値はさほど高くはないのだろう。どうりで、と納得できる金額だ。 そしてやっぱり「模造品」を婚約指環として贈るのはますます気が退ける。 「―――郁」 名を呼べば、「そうですね」と幾分シュンとした郁が頷く。 それを見たからか、「それでしたら」と後ろに控えていた店員が一つの提言をした。 「この形を基に、オーダーメイドされてはいかがでしょうか」 「ええ!」 「バカ!叫ぶな」 「や、でも、オーダーって。た、高くないですか?」 どうしたって、既成品と違い、オーダーメイドの商品は高いというイメージがある。それでなくとも婚約指環は高い買い物というイメージがある郁だ。 いいです!いいです!ショーケースの中から(あまり値の張らないものを)選びます! そんなことを言いかねない郁の手を一段強く握り込み堂上が制する。 「見積もりだけでもお願いできますか」 「ええ。構いませんとも。一生ものの買い物ですから、お客様双方が納得されることが一番ですからね」 郁なんかよりも、よっぽど意思の疎通ができる店員だ。 「お掛け下さい」と案内されたテーブル席で、郁が見入っていた指環とともに幾つかの指輪やネックレスがトレイに乗せられ目の前に置かれる。 「ご予算の方はお決まりでしょうか」 「そうですね。三十万前後と考えていますが」 堂上としては郁が望むのなら、それ以上上乗せしても構わないと思ってはいるが。 その答えに、店員はにこりと笑う。 「それでしたら、ほとんどのご要望にはお答えできるかと」 既成品と違いオーダーメイドになればこだわるとどこまでもその値段は跳ね上がるが、それまでの郁の様子から店員もそれは判断できたのだろう。 「ではまず、リングの素材はプラチナに変えた方がよろしいでしょうね」 「これとは違うんですか」 「ええ。こちらの素材はホワイトゴールドを使用しています。 見た目にはプラチナと似ていますが、金に白い金属を混ぜて作った金製品に表面保護のためにロジウムというプラチナと同じ白金族元素のコーティングが施されています。 日々の生活の中で、指環の表面には傷がつき、どうしてもコーティングは剥がれてしまいますので、年月を経たら、購入時と色が変わってしまいます。 その点プラチナは、いつまでも白い輝きが変わらないということで、やはり婚約指環や結婚指環はプラチナリングを選ばれるお客様が多いですね」 「そうですか、ではそれでお願いします」 「かしこまりました」 話を聞き、店員は一つ一つ注文票に書きこんでいく。店員との会話の中心はもはや堂上だ。 「この部分の石はダイヤに変更は出来ますか」 「ええ勿論ですとも。小粒でもファイアの美しいメレダイヤモンドを使えば輝きが違ってきますしね。 ご予算に余裕がありましたら、こちらの商品のようにリングにミル打ちを施されてみてはいかがでしょう。 ジュエリーの縁の部分をくっきりと見せる効果が得られますし、ジュエリーそのものの傷が目立ちにくくなるというメリットもあります」 「どうだ、郁」 「ふへっ!」 目の前に並ぶ宝飾品や店員の淀みない説明にほぼ無意識でコクコク頷いていたところに、いきなり名前を呼ばれて慌てる。 「ふへ、じゃない。聞いてたかお前」 「き、聞いてました!けど、なんかこうフワフワして実感がわかないというか」 しっかりしてくれ、と苦笑する堂上の顔はどこまでも優しい。 「俺としては付けてもいいと思うんだが」 「えっと」 あつしさんが、選んでくれたのなら、なんだって嬉しい、です。 そんなことを顔を真っ赤にさせながら言う郁は相変わらず破壊力満点の可愛さで、店内ではなければ余すことなく抱きしめたいくらいだ。 前に座る店員もそんな郁を微笑ましく見つめる。 コホン、と堂上は軽く咳払いして、なんとか平静を装う。 「えっと。ではそれに関しては予算に応じて、ということでお願いできますか」 「かしこまりました。中央の石はどういたしましょう」 「黄色の石というのはどういったものがあるんでしょうか」 「イエローカラ―の石ですと、こちらのようにトパーズかイエローサファイア、ベリル、トルマリン、シトリン、あとはイエローダイヤモンドあたりでしょうか」 商品にないものは宝石図鑑を指され説明される。 「イエローダイヤモンドだと価値は」 やはり婚約指環と言えばメインはダイヤモンドというイメージがあり、周りにも配しているのだからどうせなら中央の石もダイヤモンドで揃えてやりたいと堂上は思う。 聞けば店員は心得たように一つ頷く。 「そうですね。やはりダイヤモンドは一般的に無色透明のものほど価値が高く、カラ―ダイヤモンドは価値が落ちるとされていますが、このようにカナリー・イエローと呼ばれる綺麗な黄色であれば価値は高くなりますね。 質のいい石を選べばダイヤモンド特有の輝きにイエローの色味が加わり、非常に美しい石になります」 サンプルにと用意されたリングにあるイエローダイヤモンドは少しオレンジがはいっているためか太陽のような輝きを放っている。 優しいけれど、濃くて美しいカラーは、いつも太陽のような輝きを身にまとった美しく凛とした郁にこそふさわしいと堂上は思った。 「同じような石を用意してもらうことはできますか」 「はい。ご用意させていだたきます」 ◆◆◆
そうして出来た、宝石で出来た花は今、郁の左薬指で太陽のような輝きを放っている。 (きれい・・・) もう一度そんなことを郁は思う。 やっぱりまだどこかフワフワと落ち着かない。夢見心地だ。 けれど現実は結婚へ、まだかまだかと急かすように突き進んでいる。 今日だって、式場担当者と司会者との最終打ち合わせをし、最終の衣装合わせと当日のリハーサルを行ってきたばかりだ。 目が眩むほど真っ白で、誰もが目を奪われるほど美しい衣装の中から、郁の為に選ばれたドレス。 衣装選びに付き添っていた堂上も、柴崎も太鼓判を押してくれたそれは、郁もまた気に入り、初めて着た時は心躍った。 この純白のウェディングドレスを着て、深紅のヴァージンロードを歩く。 その先に待つのは堂上だ。 神々しく優しい光が降り注ぐ中で、微笑みながら郁を待っている。 夢にまで見た。いや、夢ですら思い描くことが出来なかった奇跡だ。 ―――もし初めて叶う恋がこの人だったらいいのに。 そう思った相手とまさか、結婚するような関係になるなんて想像だにしなかった。 考える間もなく、それまでの過程はあっという間だった。 あの日だって、仲直りできればいいな、くらいの軽い気持ちだったのに。 嬉しい。 嬉しかった。 その気持ちに偽りはない。 郁だって、突き詰めればその思いに行きつく。 一緒に居たい。ずっと一緒に居たい。 だから、堂上の「提案」は嬉しかったし、即答した。 けれど。 翳したままの左手がキラリと輝く。 眩しくて、目が痛い。 ふわふわとした夢心地のまま現実にぶち当たる。 純白に満ち純粋な色をしたまばゆく輝く未来。 果たして自分に似合うのだろうかと、ふと過ぎる。 脱ぎ終わって、丁寧に掛けられた純白のドレスを見て急に怖くなった。 居た堪れなくなって、思わず駆けだした。 スタッフと言葉を交わしていた堂上の目をかいくぐって。 式会場を抜け出した。 どうしよう。 怖い。 怖い。 自信がない。 いつか、「こんなはずじゃなかった」と堂上に幻滅される日が来るのではないだろうか。 純白に満ち純粋な色をしたまばゆく輝く未来よりも、そう言われる未来の方がはっきりと思い描かれる。 思わず顔を覆う。 「もう・・・やだ」 言って、しゃがみ込もうとした瞬間。 「―――郁っ!」 鋭い声とともに、名が呼ばれ、肩が引かれる。 「あつし、さ・・・」 振り返った先には、怒ったような、焦ったような、泣きそうな、切羽詰まった表情をした堂上がいた。 「嫌、って何がだ!俺との結婚が嫌になったか?なあ!何があった!いきなり居なくなるな!」 「あつしさ、」 「頼むから!」 「居なくなるな!俺の前から、勝手に居なくなるな!!」 思い切り抱きしめられる。力の加減が出来ないのか、骨が軋むほど強く。 どうして。 どうして、こんなにも堂上に余裕がないのか理解できない郁はただ混乱のまま堂上の咆哮を聞くことしか出来ない。 「逃げるな、俺から!お前に逃げられるのが一番辛い!お前に逃げられたらどうしたらいいか分からなくなる!」 どうして、ともう一度郁は繰り返し思う。 どうして。 「あつしさん」 違う。 違うの。 郁は顔を覆い、頭を振る。 違う。 貴方から逃げたかったわけじゃない。 ただ。 「こわいの」 「何がだ」 「こわい」 もう一度頭を振って言う。 ゆっくりと堂上の腕から力が抜け、少しだけ身体が離れる。 その感覚に、郁の顔を覆う掌に力が籠る。 郁とは違う、厚く、大きな掌が優しく郁の掌を包みゆっくりと顔から外していく。 郁の目の前に真摯な色を湛えた、黒曜石のような堂上の瞳が現れる。 「嫌か?俺と結婚するのは。怖いか?」 その言葉に上手く言葉を返せない二度三度郁は頭を振る。 嫌じゃない。 嫌なわけない。 だから怖い。 「しあ、しあわせすぎて」 ―――これまでのことが全部。全部、自分に都合が良すぎて。長い長い夢みたいで。 いつか目が覚めたら、そこに指環もドレスもなくて。 堂上は「教官」のままで。 名前を呼ばれることも、優しく微笑まれることもなく。 「この指環も、ドレスも。もっともっと似合う人が、あ、あつしさんの隣には居るんじゃないかって!」 怖い。 そんな「現実」が怖い。 ぎゅっと目を瞑って、ポロポロと涙を零す郁に「バカ!」と堂上の怒鳴り声が降る。 けれど、それはどこか優しく。 もう一度郁は堂上の腕に掻き抱かれる。 「お前以上にこの指環も!あのドレスも!似合う女なんかいるか!」 「誰がどう見たって!誰にどう言われようと!俺にとって世界で一番綺麗だと思う花嫁はお前しかいない!!」 いい加減分れ。分かってくれと堂上は言う。 苦しそうな声で。 懇願するかのような声で。 「それを言うなら、俺の方が絶対に怖い思いをしている。 いつかお前が俺から離れて居なくなるんじゃないかって、そんな不安ばっかりだ」 堂上にとって郁はもうずっと長い間、大切で大切で、それこそ一生。自分の中の宝箱に閉じ込めて置きたいと思うほどの存在だ。 魅力的な輝きを放つ彼女をいつか誰かに盗られるんじゃないかという不安はいつも付き纏う。 何度、郁の意向を聞かずさっさと籍を入れたいと思ったことか。 結婚すれば完全に自分のもとに縛れるとは思わないけれど、それでも法的に結ばれたらとそう何度も思った。 身長も低く、仏頂面で、要らんことだけ言って、女が喜びそうな甘く優しい言葉も言えない。 ただ、年上という、ただ上官というだけで、たまたま郁の目の前に現れ、追いかけたいと思わせた背中を見せた自分よりも。 彼女の見目に合った、ずっとスマートで優しい男が、いつか彼女を掻っ攫っていくのではないかと不安になる。 いつかそんな男がいいと、彼女が自分の元から離れていくのではないかと思って、自分以外の男が憎くなる。 徐々に彼女の魅力が公になるにつれて、そういう男が彼女を狙っているのだと感じるようになってからは余計に。 自分にとって彼女が「最後の女」であると思っていても、彼女にとって自分はただの「最初の男」で終わってしまう可能性もあるのだという危惧は一層加速した。 郁が堂上を堂上として恋た期間よりも、堂上が郁を想っていた期間の方がずっと長い。 長い間仕舞い込んでいた想いは、自覚してからは一層とどまることを知らず、常に不安定だ。 「言っとくが、お前との恋愛ごとに関して、俺はどこまでも弱気だぞ」 逃げ出すように駆けだした郁の後ろ姿に肝が冷えた。 「もう・・・やだ」 そう零された言葉に、怖れていた現実を突き付けられたかと思い、冗談抜きで心臓が止まるかと思った。 ―――逃がせない! そう思った後の行動は反射だった。 掴んで。閉じ込めて。何処にも行かないように。 「お前が思ってることを俺も思っていないと思うな」 虚を突かれたような表情を浮かべる郁に、堂上が不意に笑み、ポンといつものように頭に手を乗せる。 「悪かった」 「え?」 「俺が焦って、先走りし過ぎたせいで、お前が不安を考える余裕を与えられなかった」 「ちが」 「違わんだろ。心の準備が整わないまま、気がついたら結婚する段階まで来て、不安になったんだろ」 「―――あたしは」 「うん」 聞き返す堂上の声も表情も優しい。 そのことに郁はどうしようもなく泣きそうになる。 胸が詰まる。 幸せで。 「あたしは、」 「あつしさんと、結婚、したい、です」 「ああ。俺もお前と結婚したい」 「でも、自信が、ないんです」 「指環も、ドレスも、全部似合ってる。 俺が保証する。信じろ」 「信じてます」 「自分のことは、信じられなくても。 あつしさんの、ことなら、信じられます」 「そんな篤さんと一緒に居られたら、あたしはきっと世界で一番しあわせになれる自信がある」 頭に乗せられた掌が後頭部に回り、そのまま堂上の胸板に抱き寄せられる。 そのまま胸にすがるような形で両指を堂上のシャツに掛けた郁が「でも」と続ける。 「篤さんを幸せにする自信は、全然、ないのっ!」 何も出来ない。何もしてやれない。 自分は。 甘やかされて。迷惑をかけるばかりで。 何も。何も返せない。 いつも守ってもらってばかりで。与えてもらうばかりで。 自分だけ幸せになって、堂上には何も返せない。 苦労ばっかりかける自分より、彼と寄り添って歩くにふさわしい人がきっと他にもいる。 彼を助け、支え合える立派な人が。 きっと、その方が堂上にとっては幸せだと思うのに。 「あたしじゃ、篤さんを幸せに―――っ」 噛みつかれる様なキスをされた。 「んっ―――ふぁっ」 そして蕩けるような長くて優しいキス。 堪らず、カクン と郁の膝から力が抜ける。 「だから、何度言えば分かる」 「お前が思ってることを俺も思っていないと思うな」 「俺だって、お前を世界で一番幸せにしてやれる自信なんてない。 自信があったら、こんなに不安になんて思うか!」 けど! 「俺はお前が隣に居て、そして俺に笑ってくれると言うんなら、俺は世界で一番幸せな男になれる!だから俺はお前と結婚したいと思ったんだ!」 「俺を幸せにしたいって言うんなら、ごちゃごちゃ考えずに、俺の隣で笑ってろ! それぐらい、どんなバカなお前でも出来るだろ!!」 とんでもない、台詞だったが郁は大人しく、コクンと一つ頷いた。 「篤さんが、居てくれるんなら、あたしは幸せで、ずっと笑ってられます」 「じゃあ、ずっとそばに居ろ」 手を取り、輝ける太陽に祈りを捧げるように口づける。 「それで、二人で幸せになればいいだろ」 「はい」 堂上は笑い、零れる郁の涙を掬い取り、そのままもう一度唇を重ねた。 あなたなしの幸せなどこの世のどこにもありはしない。 だから、ふたりで。 幸せになりましょう? |