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心の奥底に大切に仕舞っていた宝石箱の蓋は壊れてしまった。 それを直し、補強することはもうしない。 だからと言って、中の宝石を野ざらしにもしない。 宝石箱はいらない。 直接この手で包み込む。 ―――そう決めた。 ようやく、その宝石に手を伸ばす覚悟ができたところだと言うのに―――。 「―――笠原。どこか調子でも悪いのか?」 いつもより機敏さの欠ける様子が気になってそう声をかける。 女性特有のあの日ではなかったはずだ、と頭の中で笠原のことに関するバインダを開く。 女性の周期、なんて艶めかしい情報も今は一切の疚しさもなく手繰る。 大学校を含む学生時代からそれは知識として知っていたし、母親が看護士であるうえ、歳の近い妹がいればその実情を知っている。何より職業柄そのことを頭に入れて置かないといけないことがある。 男性隊員に比べ少ないとは言え、防衛方に就く女性隊員は居る。初めは気恥ずかしげにそれを口に女性が多いが、次第に必要なことだと業務連絡として報告してくるようになる。 笠原も同じように、―――というわけではなく、初めは苦々しい表情で渋々と告げてきたが―――それを隠すことはない。 初めの頃は相手が俺だったから、という理由であり、元々アスリートとしての経験があるためか、指導員に対して自分の体調を申告すること自体には抵抗がなかったようだ。 だから、初めて笠原の口からそれを聞いた時、殊更「女性」を意識したのはあくまでも俺の方だったと思う。 正直、少々面食らい一時思考が停止したものだ。 ―――だって、なぁ。あの時の少女の生理周期を、あんな形で知るような事態になるとか誰が思うか。 そこまで思い、「だから今それを思い出すな!」と慌てて思考の外に追いやる。 幸いにして、この時間は事務室待機だ。だからこそ、多少体調が優れなくともそれを押し通そうとしているのかもしれない。笠原はそういう真面目なところがある。 だから、「具合が悪いなら休んできたらどうだ」と、そう進言したら、何故か笠原は真っ赤な顔で否定した。 「だっ、大丈夫です!体調が悪いとか、そんなことはぜんっぜん!」 「いや、でも、お前、顔が真っ赤じゃないか」 熱があるんじゃないのかと眉を寄せれば、何故か進藤一正に笑われた。 「おいおい。あんまウチの初心な娘っ子をイジメてやるなよ、どーじょー」 イジメって、なんだ。俺は笠原を心配して――― そう言おうとしたところで、笑いを噛み殺した小牧が「察してやりなよ」と耳打ちしてきた。 「―――笠原さん、昨日一昨日初めての外泊したばっかなんだから」 「―――なっ」 思わず、小牧の顔をマジマジと見つめる。 ―――外泊って、なんだ。 大学校時代から寮生活をしていて、その制度を知らないわけではない。 大学時代そういう意味で、外泊を出したこともある。 ―――いや、待て!そう意味ってなんだ、そう意味って!! 同窓会だとかそういう飲み会の都合で、だろ?! そう思い、笠原を振り返れば、真っ赤な顔を俯かせた彼女の左手の薬指にほっそりとしたシルバーリングが嵌められているのが目に飛び込んできた。 ―――ちょっと待て!なんだそれ!お前、今までそんなもん付けてたか?! アクセサリーを付けるなとは言わない。 華美すぎず、業務に支障が出ない範囲であれば目くじらを立てることもない。 が、左薬指の指環って、お前、意味分かって付けてんのか?! 混乱する頭で「ちょっと来い!」と思わず、笠原を引っ張って事務所を出る。 「教官?」 突然引っ張り出された笠原は困惑顔だ。 それでも、俺の混乱よりはマシだろう。 ようやく恋愛感情を認めた女が、左薬指なんていう曰くありげな場所に指環を付けている。 それで落ち着いていられる男がどこにいる。 「お前、それどうした」 「え?あっ―――」 理解した笠原がまた顔を赤らめる。赤らめながら、愛おしげにリングをなぞる。 「あ、あたしは、必要ないって、言ったんですけど。戦闘職種の大女だし。 でも、・・・俺の気持ちの問題だって」 ―――『俺』って誰だ?! いや、それはどうでも―――良くはないが、それよりも。 「だって、お前、俺のこと―――」 だって。お前。俺のこと―――意識してたんじゃないのか? なんで、そんな、いきなり。 「教官のこと?」 きょとん、と首を傾げた笠原は不思議そうに言った。 「堂上教官はただの『上官』でしょう?」 目まぐるしく世界が変わる。 腕をとった笠原はブレザー姿で、まだ幼さが残る、そう初めて出逢った当初の姿をしていた。 高校生の笠原が「あっあの!」と驚いたような声を上げる。 「ごめんなさい!あの、あたし、急いでるのでっ!」 ガバっと頭を下げられる勢いに、思わず「すまん」と掴んでいた腕を離してしまう。 スルリと腕を抜いた笠原は振り返ることなく一目散に駆けていく。 「王子さまぁ〜!待っててくださぁい!!」 そんな後ろ姿を茫然と見つめる。 「―――王子様って・・・なんで今更」 「そんな風に言わないでください!」 振り返れば涙目の笠原が訴えてきた。 「あたしの王子様を否定しないでください! なんで!どうして!堂上教官はっ―――!」 「―――なんでって」 隠しているのに「言わなくても分かれ」なんて言うことは通用しないと分かっている。 分かっていて、それでもこの期に及んでそれを言い出せないのは自分のエゴだ。 目の前の笠原は、涙を湛えて正面から訴える。 「いいじゃないですか!王子様は堂上教官が気に入らないタイプの人なのかもしれないけど。 でも、あたしは、そんなあの人の事が好きなんです! それとも教官は「上官命令」でも出して、あたしにあの人を追うなとか好きになるなとか言うんですか?!」 「笠原、それは、違う。そうじゃ、ない。ただ、俺は―――」 「じゃあいいじゃないですか!あたしが誰に憧れようと、誰を好きになろうと、あたしの勝手じゃないですか! だって、堂上教官は王子さまなんかじゃないじゃない!だったら、教官には全然関係ない、そうでしょう?!」 「あたしは、あの時本屋さんに居たのが堂上教官だったら図書隊員になりたいとは思いませんでした!」 「あたしは、そんな堂上教官みたいな人に憧れられないし、好きになんてなれません―――!」 指先をすり抜ける笠原は涙を湛えて駆けだしていく。 言われた言葉に、ジクリと胸が疼く。 一度言われた言葉。 だからと言って、耐性ができるようなものでもない。 彼女に「自分」を否定されることは、何よりも辛い。 「あーあ、ほら言ったじゃない」 振り返れば、呆れたように笑う同期の姿。 「―――・・・小牧」 「素直にならないと、いつか後悔するよって。 何そのスゲー傷ついたっていう顔」 こういうのも「嘘から出た実」って言うのかな?もしくは狼少年?と首を傾げて笑う。 「言っておくけど、先に『王子様』を否定したのは堂上だからね」 「だが、あれは―――」 この年になって「王子様」なんていう美談に持ち上げられることの恥ずかしさや―――怖れからだ。 あの時の「三正」はもういないということは、何よりも本人である自分が分かっている。 不要だと切り捨てた部分を追いかけてきた笠原。それを失くした俺が「王子様」の正体だと知った時に彼女から失望の視線を向けられるのが怖かった。 だから、俺以外の「王子様」を創り上げた。バレてはいけない。あの時の「王子様」はもうすでに居ないのだと。 俺が「殺し」てしまったのだと。それだけは彼女に知られるわけにはいかない。 「―――知ってるだろ」 「うん。俺はね。でも、笠原さんは知らないよ。 だから、堂上以外の『王子様』を追いかけてるし、お前はただの『上官』になった。 でも、それってお前が自分でそうしたんだよ、それはちゃんと分かってる? 何も知らない笠原さんに、先に自分は「ただの上官」だという意識を押しつけたのはお前なんだよ」 「そうかもしれないが。だが、あいつは、卒業したんだろ、その王子様やらから」 「だから?」 「―――だから・・・」 「だから、何?笠原さんが王子様を卒業したから何?それと堂上との関係に何か関係あるの?ないよね。 だって、堂上と笠原さんはただの上官と下官でしかないんでしょ?笠原さんが王子様から卒業することで、お前との関係は何も変わらないよね。 それとも何?自分を選んだから、笠原さんは王子様を卒業した、なんて思ってるの?」 「―――」 「堂上は何かを伝えるわけでもなく、ずっと逃げてきただけなのに、それは傲慢ってもんでしょ」 「―――っ」 小牧の言葉は正論だ。 切り捨てた過去から逃げ、それに憧れる笠原から逃げ。 自分が、彼女から失望の視線を向けられるのが怖いからと誤魔化して。 そのくせ、あの時の凛とした背中に認めて欲しいとだけ我侭に思う。 そして彼女の傍に居るために「上官」であることを利用した。 自分の気持ちすら誤魔化して、一番簡単な逃げ道を作った。 「いいじゃない。ちゃんとお前が望んだとおり笠原さんはお前の事「上官」だって認めてくれたんだろ?」 「それは―――」 「建前(嘘)に覆われた本音(真実)が正しく伝わらなかったとしても、それは正しく伝えようとしなかったお前の責任。 彼女が『王子様』以外の他の男を好きになってたとしても、「ただの上官」には口出しできる権限なんてないんだよ。 だから言ったろ。もっと早く自分の気持ちに素直になってれば良かったんだって」 「分かってる!だからっ!」 だから、俺は、ちゃんとそのことを笠原に伝えようと――― ―――『相談すべき内容だったら堂上教官に真っ先に相談します!』 そう言った笠原が、目の前で胸の前で緩く指を組む形で手を合わせ―――シルバーリングが輝く左薬指を見せながら―――相談を持ちかける。 「あ、あの、教官。次のサイクルのシフトについてなんですけど・・・この日と、この日、お休み貰えませんか?あ、無理だったら午前勤務でも、いいんですけど・・・」 「―――何か用事か」 「あっ・・・はい」 はにかむように笑う。 「式場の下見に行こうって、彼と話をしてて」 幸せそうにリングに触れながら笑う姿に息が詰まる。 「―――っ!!」 一気に世界から色が消える。 世界に独り取り残される。 「結婚決まったんだ、おめでとう」 「あ、ありがとうございます」 「式には呼んでくれるよね」 「はい!勿論です!っていってもまだ半年くらいは先の話なんですけどね」 「―――・・・物好きな奴もいたもんだ」 「ケンカ売ってんのか手塚!!」 「よくこんな女嫁に貰おうとか思えるよな」 「うっさいっての!業務後に道場で決闘だからね! あ、教官。堂上教官も式には是非出席して下さいね!」 「そりゃ、堂上が出なかったら誰が出るのって話だよね。 直属の上司なんだから披露宴ではスピーチの一つでもしてやらないとね、“班長”?」 惚れた女と、知らない男の幸せの門出を祝う言葉。 そんなこと――― 「―――できるわけないだろうが!!」 とんでもない未来予想図に飛び起き、頭を抱える。 緊張や興奮で寝られないというならまだしも―――いや、それはそれで俺はいくつのガキかという話だが。 「何も、今、そんなもん見る必要ないだろうが・・・!!」 堪らず項垂れる。 チラリと見たヘッドボードに置いた時計が示すのは日付が変わってまだ数時間という夜中も夜中だ。 そんな今日は―――1月15日だ。 ようやくこぎつけた、笠原との「デート」―――だと思うくらいは許して欲しい。誰にだ。誰かにだ!―――約束のカミツレを飲みに行く日だ。 とは言え、約束は11時に武蔵境駅だ。仮眠どころかもう一眠りできる時間はある。どうするか、と一瞬思いすぐに頭を振る。 あんなモノを見た後で、まともに寝られるはずもない。 ベッドから抜け出し、デスクライトを灯す。 机上のノートパソコンの電源を入れ、起動の間に引き出しからブルーの小瓶を取り出す。 ボトルの中身がチャプンと音を立てる。笠原から貰ったカミツレのオイルだ。 電気ポットからマグカップにお湯を注ぎ、その中にカミツレのオイルを数滴垂らす。 立ち上る湯気に柔らかな香りが乗る。 その匂いにゆっくりと心が落ち着いて行く。 どうせろくに寝れやしないのだ。 それならば、「デートプラン」を確かなものにする方がマシとしたもんだろう。 待ち合わせの時間からして、おそらく昼食込みのプランを考えているのだろう。 まさか、本当に茶の案内だけじゃ、ないよな? 「教官、ここです」 「教官、これです」 「じゃ、あたしこのあと柴崎とランチの予定があるので!」 ―――それはない。それはない! 流石にあいつが、こちらの予想の斜め上をいく思考の持ち主だとしても、それは、ない!・・・と思いたい。 己の想像に、再度項垂れそうになるが、なんとか立て直す。 脈は、あるはず、なんだ。 一番手堅い突破口として、約束とも言えない約束を掘り返した。 「後はお茶だな。東京戻ったら探しとけよ」 カミツレの咲く温室で、前置きもなくそう言ったら、笠原は 「―――あの約束、まだ生きてたんだ。 覚えてるの、あたしだけかと思ってた・・・」 ポツリとそう零した後、慌てて「りょ、了解しました」と背を向けていたので分からないが、おそらく敬礼付きでそう返してきた。 その声を背にしながら、意識してなんとか硬い表情を作った。 笠原も、覚えていた。あんな、約束と言うには覚束ない、世間ではただの社交辞令として流されそうな会話を。 あんな会話に、笠原は、少しの期待を抱いていたのだと自惚れてもいいだろうか。 零した他愛ない言葉を気に留めもらえる程度には、彼女もまた―――。そう思えた。 「そろそろお茶探しとけよ」 そして、あの、県展から戻ってからしばらくして、焦れたように先に声を掛けたのは俺の方だった。 茨城でそれを口にした時、笠原は驚いてはいたが、嫌がっている様子はなかった。 再会初期なら、眉を寄せ「・・・上官命令なら」と渋々頷いただろう。 もっとも、あの当時にそんな会話が出来たわけもないだろうが。 それから、少しずつあいつは「俺」を見てくれるようになって、「上官」として信頼を寄せてくれるようになった。 そして、今―――俺に対して、時々、垣間見せる「オンナノコ」の表情は、己の願望がそう見せる錯覚だとは思いたくはない。 俺の問いに笠原は「あ、はい。ちゃんと、いくつか、候補は見つけてます」と頬を少し赤く染めながら俯き加減に言った。 「でも、ちょっとまだ、どのお店にするかは決まってなくて・・・ちゃんとしたお店を決めてから教官に言った方がいいかな、と思って」 「いや、それならいいんだ。じゃあ、先に日程だけ決めておくか?」 出来るだけ早く、とは思ったが12月に入ればクリスマスイベントの準備や年末年始に向けて事務処理が多くなり忙しくなるのは目に見えている。 ただ単に茶を飲むだけならほんの少しの時間があれば良い。けれど、それは口実に過ぎない俺からすれば、業務の片手間に済ませるのは少々都合が悪い。 せっかくなので、ゆっくりと楽しみたいということで、業務が落ち着きを見せ始める年明け、1月の半ばの公休に、ということで約束の日を定めた。 手帳に予定を書き込みながら、おそらくは独り言なのだろう、ポツリと「・・・楽しみ」だと笠原が呟いた。 閉じた手帳をキュっと胸元で大事そうに包む姿に「部下」の姿は見出せなくて、ただ可愛い女の子だった。 笠原が俺の事どう思っているか、なんて本人が居ないところでどれだけ考えても自分の都合のいい答えばかりで、正しい答えが出るわけもなく、考えても詮のないことではあるのだが、そういう些細な言動を思い返して、大丈夫だと自身に言い聞かせるあたり、まだまだ俺も青い。 けれど、こんなふうに絶対にと退けない感情を持つこと自体初めてなのだから、みっともないくらい必死になって、何が悪い。泥臭くたって構うものか。綺麗に取り繕ったところで、欲しいものは手に入らない。目を逸らしている間に、横から掻っ攫われるとか御免だ。 今ここで、彼女を掴まえ損ねたら、一生後悔するに決まっている。 ―――あんな、左薬指に俺以外からの誓いをはめられてたまるか! 起動させたパソコンをインターネットに繋ぐ。 きっと笠原は、その後のことなんて考えていない。 考えていたら、いたでそれはそれで構わないが、保険はかけておくとしたもんだろう。 少なくとも俺の方は、茶を飲んでそれでおしまいにするつもりはないのだから。 「―――ありきたりだが、映画にでも誘うか」 行き先が分からないので、映画館が近いかどうかは分からないが、何も遠路遥々片田舎の店など用意していまい。 この近辺であれば場所に関しては潰しはきく。 あとは、見たいジャンルが放映されているか、だが。 封切りされているラインナップを確認すれば、ロングランされているテレビドラマタイトルを始め、少女コミック原作の純愛もの、ドキュメンタリーもの、サスペンスもの、アクションものにアニメと一通りのジャンルが揃っているから、まあ大丈夫だろう。 それから買い物なりして少し時間を潰すとして。礼だのなんだの言って笠原に何かプレゼント出来るような流れになればベストだが、買い物に関しては最悪妹をダシに使えばいい。普段散々アレには振り回されているのだ。こんなところで利用したところで罰は当たらないだろう。 それで夕飯までは持ち込めるはずだ。 武蔵境を中心に雰囲気の良さそうな店をいくつかピックアップする。 和食に中華、イタリアン。フレンチは流石にやり過ぎか?いや、ドレスコードがないようなカジュアルフレンチは候補に入れておいて構わないだろう。選択肢は多いにこしたことはない。 当たりを付けた店の情報を携帯に転送する。 夕飯を食べ、それから――― ―――『どんな光景も最後まで一緒に見ます』 「あんな凶悪な告白かましておいて、今更ガチで『ただの上官としか思ってません』とかは勘弁してくれよ、マジで」 それ以前に。 夢の中の小牧の言葉のように ―――もっと早く自分の気持ちに素直になってれば良かった。 そう思うような事態になるとは、この時の俺は想定すらしていなかった。 |