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「もしもし」 掛ってきた電話を堂上は苦笑気味に取った。 発信相手は妻の郁。今日は大学時代の友人に呼び出され、軽くランチするだけだと言って出かけていた。 目していた時間はとうに過ぎている。話が盛り上がって抜け出せなくなったか。 どうなるか分からなかったので食事の準備はしていない。迎えに行くついでに夕飯は外で食べてもいいだろう。 そんな風に思っていた堂上は、電話口の声に一瞬思考を止めた。 『堂上篤か?』 「―――誰だ」 聞こえてきたのは男の声だ。堂上の目が眇められる。 『セオリーに従うと、お前の妻は預かった、というところか』 愉快気に揺れる声に、堂上の感情は高まる。 「―――郁をどうした!!」 『ちょっとした交渉材料だ。安心しろ、無事だ。今のところはな』 『篤さんッ!』 「郁ッ!」 遠くから郁の声が聞こえる。 『篤さんごめんなさいっ。でもあたしは無事だから、コイツらの話なんか聞いちゃダメッ!コイツらは―――きゃっ!』 「郁ッ!」 ガタンと物が倒れる音が響く。 「郁ッ!郁ッ!郁ッ!!」 『お宅の奥さんはちょっとお喋りがすぎるな。 あんまり迂闊なことを喋らないよう旦那さんから注意してやった方がいいんじゃないか? じゃなきゃ身を滅ぼしかねない』 「貴様ッ!郁に何をした!!」 『今から言うサイトにアクセスしろ。可愛い奥さんの顔を見ながら話す方がいいだろう? お仲間や警察に駆け込むのも自由だが、その時はそれ相応の対応をさせてもらうからな』 「―――郁ッ!」 指示通りのアドレスにアクセスすると怒り顔で猿轡をはめられ、椅子に縛られている郁の姿があった。 意味のない行動と分かっていても、堂上は思わずパソコンの画面に詰め寄る。 指示を出している男のほかに3人が郁を囲んでいる。 「―――郁を放せっ」 『彼女は交渉材料だ。話が成立するまではこのままだ。 そうそう。話がスムーズに進むよう、こちらはこういったものを用意してるんだが―――』 「―――ッ!」 郁の首筋にナイフの刃が宛がわれているのがズームされる。 ナイフの道筋に沿って、一瞬遅れて赤い筋が浮かぶ。 「やめっ!止めろっ!それ以上郁を傷つけるなっ!!」 『あと、銃な』 郁の両脇に立った男が黒光りする拳銃を構える。 『装填されているのは実弾だ。 ―――本当かどうか確認のための試し撃ちが必要かな』 「よせっ!止めろっ!止めっ、撃つなっ撃つなぁっ!!」 パンと乾いた音が響き、椅子ごと郁の身体が床に倒れる。 「ぁっ…ぁっ…」 カチカチと堂上の歯が打ち鳴る。 歪む郁の顔。響くくぐもった呻き声。脹脛のあたりからパンツの生地に黒い染みが滲み始める。 『思ったより血が吹き出なかったな。これじゃあ、画面の向こうに本物かどうか伝わってないかもしれないな。 よし、もう一度―――』 「やめろ!止めてくれっ!銃が本物だということは分かった!分かったからッ!! 何が望みだ?!金か?!いくら用意すればいいッ?!」 金が必要だというのなら、どんな額でも用意する。親族知人に頭を下げ、どれだけの借金を負おうと。 何を要求されても飲むつもりだ。堂上にとって郁を失う以上のことはない。 『金なんて無粋なものは必要じゃない。必要なのは―――』 男の要求に堂上は一瞬、目を瞑った後、ゆっくりと口を開いた。 郁に恨まれようと、嫌われようと構わない。 郁が助かるのなら、悪魔に魂を売ってもいいと堂上は本気で思った。 画面の中で訴えるように郁が必死に首を振り、何かを伝えようと言葉にならない声を上げ続ける。 この決断は、郁への裏切りでもある。 ―――それでも、俺はお前の命を選ぶよ、郁。 「―――分かった。 お前たちの条件は全て飲む。その代り、きちんと郁の手当てをしてくれ、頼む」 「―――郁ッ!!」 「な…で…」 現れた堂上の姿に郁は息を飲んだ。絶望に濡れた表情を見せる。 それを見ぬふりで、堂上は歩を進め、一気に距離を縮める。 「―――良かった」 椅子に座らされたままの郁に駆け寄った堂上はほっと息を吐く。 「痛く、ないか?大丈夫か?」 ガーゼが貼られた首筋にそっと触れる。 「―――脚、捲るぞ」 膝をついて郁の脚を持ち上げた堂上がそっと裾を捲る。 包帯で止血されている脹脛を見て、安堵しながらも堂上の眉が寄る。 「―――痛かったろ?痛みはないか?薬はちゃんと貰えたか? ああ、今夜は熱が出るかも知れないな」 「なんで・・・っ」 耐え切れず郁はポロリと涙を零した。 その姿に堂上は悲しげに笑い、肩口に埋めるように郁の頭をかき抱いた。 「お前に、恨まれても、嫌われても。 それでも、俺はお前を助けたかった。 お前を悲しませることは分かっていても、お前の命と秤られたら、俺はこの道を選ぶ。 俺が一番護りたいのは、お前だから―――」 郁の前に現れた堂上は、自分たちと対極の立場である良化特務機関の制服を身に纏っていた。 「さあ。約束通り奥さんの無事な姿を確認させてやったから、次はこちらの要求を飲んでもらおうか」 「―――何の情報が欲しいんだ」 「篤さんっ―――!」 諌めるように顔を上げる郁の顔を堂上は強く押し戻す。 「―――いい子だから、静かにしてろ」 堂上の肩に顔を埋めさせられ、郁は唇を噛み締めながら涙を流した。 今、堂上が流している情報は図書隊に有害な、良化隊に有益な情報だ。 それはつまり、―――堂上は図書隊を裏切った。そういうことだ。 「―――よし。なら案内しろ」 堂上は郁の身体を離し立ち上がる。 「篤さんッ!」 呼び縋る郁に篤は寂しげな笑みを浮かべて、ポンと頭を撫でる。 「―――いい子だから。大人しく待ってろ。俺がいない間、暴れたりするなよ、頼むから」 「ダメ!行かないでッ!お願い篤さんッ!」 ギュッと拳を握って堂上は郁に背を向ける。 これから堂上は、郁を護るため。 郁が守ろうとしているものを狩りに行く。 躊躇いがないわけではない。それは今まで自分が守ってきたものでもある。 けれど、迷いはなかった。 堂上にとって、何に換えても護りたいのは郁だけだから―――。 「篤さんッ!篤さんッ!!待って!お願い!! これ以上あたしたちの誇りを穢さないでッ―――!!」 扉の向こうに消える堂上に郁は必死に呼びかける。 「戻ってきて、―――堂上一正っ!!」 閉ざされた扉に郁はただ涙を零すことしかできなかった。 |