堂郁フライング
スパイス0でお砂糖とか甘くて素敵なものばかりで出来てそうな郁たんはべらぼうに可愛いなぁっていう話。(ホントか?)















女の子は、お砂糖とスパイスと、それから何か素敵なもので出来ている。
そんなことを言っていたのは誰だったか。自分の中にあるのだから、多分童話か何かの一節だろう。
いや、その答えを求めている訳ではないのだけど。
多分、こういう子を「女の子」と言うのだろうな、と郁は目の前の女子隊員を見ながら、そんなことをぼんやりと思った。









「あ、あのっ!堂上二正」
そう、堂上が呼びとめられたのは、図書館周りの巡回が終わり事務所に戻ろうかとするところだった。
「あのっ、お話が・・・お時間いただけますか?」
必死に窺う女性の姿に「ああ」と堂上の隣でその様を見ることとなった郁は思う。
不思議なことに焦りだとか悲しみだとか悔しさとかはなく。ストン、と何かが身体の中から抜けた感覚がした。
視界は、妙にクリアで。
雑念は一切ない。

―――そうか、彼女は。

彼女の言う「話」が何なのか郁にはすぐに理解できた。
「何の用だ」と眉を寄せる朴念仁な上官に彼女は「あ、ここでは」とチラチラと郁に視線を向ける。
時間を貰えるだろうかと、伺いを立てる割にはこちらに否は言わせないというオーラが立ち上っているようだ。


―――………ああ、なんか泣きそうだ。


それでも郁はぐっと奥歯を噛締めそれを堰き止める。
そして、朴念仁な上官に笑って言う。

「巡回、終わったので、あたし、先に事務室戻りますねっ」

「おい!待て!笠原っ!」
そんな上官命令を振り切って、郁は駆けだした。
二人の前で涙を零さなかっただけでも褒めて欲しいくらいだ。


堂上達の前から走り去った郁は言ったように庁舎には入らず、そのまま建物の植え込みの陰にしゃがみ込み顔を覆う。
堰き止めた涙は抑えるものがなくなり嗚咽となって溢れだす。
郁の中にはただ静かな絶望と、諦めがあるだけだ。


初めから、分かっていた。
自分があんな「女の子」の立場にないことくらい。
初めから、叶わぬ恋だと知っていた。
あんな風な「女の子」なら、自分の恋愛模様は連戦連敗にはならなかっただろう。
だけど、そんな「女の子」じゃなかったから、今自分は堂上の傍に居ることが出来るのだと思うと胸が苦しくなる。

今まで当たっては砕けてきた郁の恋愛模様。
だけど初めて、恋心を伝えないまま、思いつづけようと思った恋。
伝えなければ、傍にいられる。
そればかりを思い、郁は自分の堂上の気持ちにブレーキを掛けてきた。
そして、そんな思いに終止符を打つ日がたまたま今日、来たというだけだ。
堂上が女性達の注目を浴びているのは、柴崎に指摘されるまでもない、とっくに知っている。
毎日傍にいるのだ。館内巡回をしている時だって、女性からのそういった類の視線も感じている。
だから、今日のように堂上の周りに女性が訪れるのは、不思議じゃない。たまたま今まで目撃したことがなかっただけで、今までだってあったのかもしれない。


パシンと郁は頬を打つ。


「バカ!泣くな!しっかりしろ!」


こんな情けない顔で堂上の前に出るつもりか。
いつだって、郁が泣いている時、泣きそうになる時、泣きたい時、傍には何故か堂上が居た。
けれど、この涙だけは見せるわけにはいかない。
だって―――あたしが教官に恋心を抱いてるなんて夢にも思っていないはずだ。
大体にして、堂上は郁に女を感じていない。本人を目の前にそう言ったのだ。
そしてそれを覆せるとは、郁は思っていない。
男勝りで、ガサツなあたしが、あんな「女の子」になんてなれるはずがない。
そう、だから、初めからあたしの恋は一方通行の片恋でしかない。
そして夢を見ることすら、今はもう許されない。


ぐっと目元を袖で拭い、大きく息を吸って郁は立ち上がる。
そう、あたしは特殊部隊堂上班の笠原郁図書士長。
堂上篤二等図書正の直属の―――『部下』だ。
だから―――。


特殊部隊事務室に急いで戻るとまだ堂上は戻っていないようで、郁はホッと息を付く。
自席に戻り、パソコンの業務日報フォルダから巡回警備日報を呼びだす。
不審人物および不審物の発見はなく備考欄に追記はないテンプレート通りの報告書だ。
担当者、巡回開始時間及び終了時間、巡回経路を記入して終わりだ。プリントアウトした報告書に判を押し、班長の確認を受ければ本日の業務は終了である。
コピー機が受信したデータを紙面に吐き出したところで堂上が戻ってきた。

「―――お、おかえりなさい堂上教官」
「ああ―――笠原、さっきは」
「大丈夫です。分かってます、から。
 あ、それより報告書、出来てるんで確認お願いします」
「―――分かった」
慌ててコピー機から出てきた報告書を取り、印を付いて差し出す。
郁から報告書を受け取った堂上は上から下に目を通し、確認印を押す。
「―――お疲れさん」
「はい、堂上教官もお疲れさまでした」
ペコリと頭を下げれば、ポンと堂上の手がその頭に乗る。
その感覚に泣きそうになるのを郁はなんとか堪える。

「―――笠原、」
「はい?」
けれど、堂上は「いや、なんでもない」とそれ以上何も言うことはなく「気を付けて帰れよ」と業務の終了を告げた。
郁もまた質問を重ねることはなく「お先に失礼します」と事務的なやり取りで事務所を後にした。


コツ…コツ…といつもよりやや重い足取りで庁舎の玄関へ向かう。
吹き込む初冬の風に郁はフルリと身を震わせる。まだ太陽が出ていると寒さに耐えられるが、日没後はグンと気温が下がる。
そろそろストールかマフラー出さないと、襟元を合わせながらそんなことを思って玄関を出ると横から声が掛った。


「―――笠原さん」
「―――あ」

特殊部隊の入る庁舎の玄関で待っていたのは、肩に掛かる髪は緩やかなウェーブを描いている「女の子」の姿だ。
その姿に郁は胸が締め付けられる思いがする。
きりきりと痛くなって。
だけど、郁はその傷みをひた隠しにして、笑顔を貼り付ける。

「ど、どうかしました?」
郁の言葉に彼女は女性らしさを感じさせるぽってりと厚みのある唇を持ち上げて、笑った。


「あたし、堂上二正とお付き合いすることになりました」


―――なぜ、それをあたしに報告する!
爪が食い込むほど深く強く、拳を握りしめる。
そんなこと、言われなくても―――分かっている。

だって、目の前の彼女は自分とは違ってどこまでも可愛らしい「女の子」だ。
150センチ程しかない小柄な身長は、男性にしては小柄な堂上と並んでも恋人としての理想的な身長差を生むだろう。
それでいてスーツの胸元を押し上げる膨らみは、自分の物と比べ随分と大きい。
動きやすいというだけでの理由でショートカットにし、年中紫外線を浴びて色素が抜けた郁の髪とは違い、彼女の緩やかなウェーブを描く栗色の髪は毛先まで手入れが施されているのが見て分かるほど艶やかだ。
ふっくら大きくプルプルに保たれた唇は、乾燥を防ぐだけのリップクリームだけを塗っている郁とは違い女性らしい唇を演出している。
顔の前で小さく手を合わせている指先に見える爪は淡いピンクに染められた清楚な桜貝ネイルだ。その爪を持つ指だってささくれだった郁の指とはちがって、ほっそりとした白い指で可憐さと華やかさが同居する。
こんないかにも、な「女の子」に告白されて断らない男(ひと)は居ないよね。


「―――そ、そうなんです、ね。でも、なんで、あたしに」
「だって、ほら。笠原さんは、堂上二正と同じ職場で唯一の女子隊員だし。
 いくら、ただの『部下』とは言え、恋人としては、気になるじゃない?」


―――ああ、一丁前に釘を刺されている訳か、あたしは。


そんな必要なんてないのにね、と郁は自嘲する。
それとも、自分の思いはそんなにもバレバレだったのだろうか。
だとしても、やっぱりそんな必要なんて、ない。
なにせ自分は思い人に女だと思われていないのだ。
その思いは、報われるはずがないものだ。


胸ポケットから図書手帳を取り出し、中から一枚の名刺を抜き出す。


「―――これ、使ってください」
「―――なに、これ」
「カミツレ…カモミールティが飲めるハーブカフェです。
 堂上教官が、カモミールティに興味持ってて。店探してくれって言われてて。
 でも、彼女さんがいるのに、一緒に行くわけには、いかないでしょう?だから・・・」


―――『そういえばそろそろお茶探しとけよ』

堂上からそう言われたのは茨城県展から戻ってきてしばらくしてからのことだった。
堂上への恋心を自覚している郁としてはその「約束」にときめかなかったと言えば嘘である。
それがただの興味好奇心から来るものだったとしても、プライベートで堂上と出掛けるなんてとんでもない機会だ。
あまりお洒落過ぎず、かつ食事も取れるような男性が入っても大丈夫そうなお店を見つけて、あとは誘うだけという段だった。
その最後の「誘う」ということが出来ないまま数日が経っての今日だ。
けれど、もう今更郁からこれを堂上に差し出すことは出来ない。
たとえ堂上に何の意味がなくても、『彼女』から見れば面白くないだろう。自分がその立場だったら、たとえ相手がただの『部下』とは言え恋人が他の女性と出掛けるのは辛い。


郁の言葉に「ふぅん」と小さく零した彼女は、小さく笑い「それじゃあありがたく」とその名刺を受取った。


―――カモミールティを案内するあたしの役目は、これでお終い。

彼女の手に渡る名刺に、郁はそっと目を伏せて立ち去ろうとした。


「ねぇ。笠原さん、次の休みっていつ?」
「え、あ、月曜日ですけど」
此処で馬鹿正直に答えてしまうのが郁だ。
「そう。なら堂上二正もお休みよね」
「え、ええ、まぁ」
「じゃあ月曜日、武蔵境の駅前に11時で待ち合わせしましょうって堂上二正に伝えてくれる?」
「―――え?」
「ほら、いきなり女の方からデートに誘うなんて恥ずかしいじゃない。それにまだ、堂上二正相手だと緊張しちゃうし。
 だから、お願い。笠原さんなら喋り慣れてるでしょう?」
「で、でもっ」
「頼んだわよ」
「まっ!」
ポンと郁の肩を叩いて、彼女は颯爽と歩きだす。取り残された郁を振り返ることもない。


「―――簡単に誘えるなら、あたしだってとっくに・・・」
呟いた言葉は冷たい風に攫われて、誰に届くこともなく宙に溶けた。







郁が彼女の言葉を堂上に告げる義理はない。
それでも、当日彼女がずっと堂上を待ち続けるのかと思うと胸が痛む。そうやって人の痛みに同調してしまうのが郁の良いところでもあり、弱いところでもある。
自分で伝えてくださいと、改めて断りを入れられたら良かったのだろうが、生憎顔覚えの悪さには定評のある郁である。
自分とは違う、あんな風な「女の子」然とした隊員は女子寮にはたんと居る。
良くも悪くも、自分の意思とは違うところで名が通っている郁のことを知っている隊員は多くいるが、その逆で郁が顔と名前が一致する隊員はごく限られている。
食堂や風呂場、共有スペースでそれらしい人を何人か見つけた時点で諦めた。流石に片っ端から聞いて回るような真似は出来なかった。
仕方がない、と郁は腹を括る。


「あ、あの、堂上教官」
「どうした」
日報を出して、帰寮する段になり郁は大きく息を吸って堂上に声を掛ける。
明日はもう、公休日だ。これを逃すと、堂上に伝言を伝える機会がなくなるというところまで来た。
「あ、明日、その、用事とか入ってます、か・・・?」
もし、ここで堂上に予定があると言うのなら、明日自分が待ち合わせ場所に行って事情を説明すればいい。待ち人の見分けが付かなくても、もうこの際構わずなりふり構わず片っ端から聞きまわればいい。
そっちの方がよほどマシだと思っていたら、堂上はあっさりと期待を裏切ってくれた。
「特に予定はないが。どうした」
「あ―――・・・その、カミツレの」
その言葉に堂上はうっすらと笑った。
「ああ。ようやく見つけたか」
本当はずっと前から見つけていた。でも言えなくて。
郁は堂上の言葉にただ小さくコクンと頷いた。
「それで、その。明日、案内を―――」
「分かった。待ち合わせは、ロビーか」
「あ、いえ・・・武蔵境の駅前に11時に」
―――彼女が待ってます。
その言葉は口には出せなかった。
出しても、出さなくても結末は変わらない。
明日の11時、武蔵境の駅前で、『彼女』を前に堂上は優しく笑うのだろう。
「探してくれてありがとな」
ポンと頭に手を乗せて、小さく笑って礼を言う「上官」とは違う顔で、きっと、笑うのだろう。
「あ、じゃあ。あたしは、これで。お先に失礼します―――」
居た堪れなくなって、郁は堂上の顔を見ないようにペコリと頭を下げて事務室を出た。


郁専用となっている女子更衣室に駆け込んで胸を押さえてしゃがみ込む。
ヒックヒックと顔を覆って小さくしゃくり上げる。
可愛らしい「女の子」にはなれない。だから、ただの「部下」で居られるだけで充分だと納得したはずだった。
だけど―――


「それでも―――胸が痛いです、堂上教官―――っ!」



その日、自室に戻った郁はカーテンを引いたベッドに引き籠った。
夕飯も食べない郁を心配した柴崎がカーテン越しに何度か声を掛けてきたが、「風邪をひいたみたいだから先に休む」と言って後は寝たフリを決め込んだ。少しだけ、声が上擦り掠れたようになったが、風邪で咽喉を痛めたと勘違いしてくれたらいい。
外で柴崎が溜息を零す雰囲気を感じたが、胸中で「心配掛けてごめん」と謝罪を繰り返しながら郁は布団の中で小さく縮こまって一晩やり過ごした。



そして、堂上班が公休日である月曜日、「食堂からヨーグルト持って来たから、調子がよかったら食べなさい。スポーツドリンクも置いてるから」と声を掛けて柴崎は出勤していった。
柴崎が出て行ってからしばらくして郁はのっそりとベッドから這い出す。
卓上ミラーに映る顔は酷い顔だった。泣いたのがバレバレの腫れぼったい目。
今日一日でなんとかしないといけない。こんな目で明日出勤するわけにはいかない。
何で泣いたかなんて―――
考えるだけでまた溢れだしそうになる涙をなんとか抑えて、冷やしタオルを瞼に当てる。

そう、あたしは特殊部隊堂上班の笠原郁図書士長。
堂上篤二等図書正の直属の―――『部下』だ。
だから―――。

そればかり繰り返し繰り返し思う。
今日一日、部屋から出るつもりはなかった。
出掛けた先で、堂上とその『彼女』を見つけてしまったらと思うと怖かった。
共用ロビーや食堂で談笑する姿を見てしまったら、みっともなく泣いてしまうと思った。
だから、なんとかして今日中に心の整理を付けようと必死に格闘していたら。

机上の携帯が震えた。
無視しようと思ったが、職業柄緊急招集があることを思えばそれも出来ず。
緩慢な動作で手に取った携帯のディスプレイに映る発信者名に、郁は思わず携帯を取り落とした。


―――なっ、なっ、なんで堂上教官〜〜〜っ!!

いや、勿論そこは班長であるのだから、連絡事項があれば堂上から連絡が掛ってくるのはある意味当然ではあるが。
いや、しかし。そこは現在可愛い彼女とデート中の班長様であり。
いや、デート中だろうと何だろうと、仕事熱心で真面目な班長はきっと彼女を差し置いて仕事を取るのだろうけれど。
だからって!だからって!!


「なんで小牧教官じゃないのー!!」


震える携帯を前に郁は頭を抱える。
ここで携帯を取らなかったら、公休日とはいえ職務違反になるだろうか。
いや、仕事をさぼりたいわけじゃないんだ。ただ堂上と言葉を交わすのが気まずいだけだ。
それは堂上の預かり知らぬことで、郁の一方的な感情がそうさせるだけなので、気付けというのも無理な話だとは思うが。
なんで、このタイミングで!と悪態を付くことぐらい許して欲しい。
あわわわわわと口元に手をやりどうしようどうしようと床で震える携帯を眺めていると、ほどなくしてその震動は止まった。
ホッと胸を撫で下ろしたところで、室内電話が鳴り、郁の心臓が跳ねあがる。
そして反射で「はい、笠原です」と受け取って後悔した。
勿論、電話口の相手は寮母であるが、その先には呼び出しの相手がいるわけで。

「堂上君から、今すぐ共用ロビーに降りてくるようにって」

その言葉に郁はガクリと膝を付いた。電話を取った以上居留守を使うわけにもいかない。「5分ぐらいで降ります」と絶え絶えの声で伝言を託し、フラフラの態でなんとか身支度を整える。
まだ少し赤い瞼をなんとかファンデーションで誤魔化して、寝巻代わりのスウェットから庁舎に出ても大丈夫な格好に着替える。
そうして、郁がのっそりと共用ロビーに繋がる階段を下りると、そこには厳しい顔をした堂上が待ち構えていた。
―――か、彼女とのデート中断させられて、き、機嫌悪い、の、かなっ―――?
ビクつく郁を堂上は眇めた瞳で見遣り「外に行くぞ」と顎をしゃくった。



寮の裏手に連れてこられ、ドンと壁に手を付かれる。
「きょ、きょう、かん・・・?」
郁が恐る恐る声を出せば、堂上から激しく不機嫌な低い据わった声が出る。
「武蔵境の駅前に11時つったよな、お前」
「あ、はい。そう、彼女から」
「―――彼女?何のことだ。俺は、お前と約束したはずだぞ」
拳骨とともに怒声を浴びせられるのは慣れている。けれど、こんな風に怒りを必死で堪えている、そんな冷ややかな空気を纏っている堂上と対峙するのは初めてで、郁はビクリと肩を震わせる。
「俺は、お前と、出掛けるつもりでいたんだ。なのに―――なんだアレは」


堂上が駅に付いた時、声を掛けてきたのは以前、郁と居た時に告白をかましてきた女だった。
堂上としてはあの時きっぱりと断りを入れ、そこで関係を断ったつもりでいた。
それにも関わらず、変わらず媚びるような声で「堂上二正」と寄ってきた女に思わず眉を寄せた。
堂上には一点たりとも疾しさはない。
けれど、もしも、この場面を郁に見られでもしたら。そんな懸念が堂上にはある。
此方側の思惑とは別方向の独自の見解でこちらの予測もつかない飛躍した考えに到達する技に関しては、ウルトラC級の離れ業もやってのける郁である。
ようやく掴んだチャンスをこんな処でふいにするわけにはいかない。
その気持ちに蓋をしていた時期は過ぎ、今の堂上自身に迷いはない。
時折見せる表情に、郁の気持ちも自分に向いている、そう思いたいところだが、あの独走甚だしい娘がどんな曲解のもと走りだすのか想像もつかない以上まったくの油断は許されない状況なのだ。
だからこそ、すこしでもその不安の芽は取り除いておきたいのだ。
小牧が「毬江ちゃん以外どうでもいいよ」と言っていたが、確かにそうだと堂上も胸中で同意する。
郁以外の女はどうでもいい。だから、それ以外には切り捨てるために冷たい態度も冷たい言葉もぶつけられる。
それで目の前の女が傷つき、泣いても、郁に走り去られるよりずっといいと思うのだから、自分も大概だと思う。
そう思ったのに。

「良かった。笠原さん、ちゃんと伝えてくれたのね」

その言葉に、堂上の思考が凍った。


「堂上二正がカモミールティに興味があったなんて、意外でした」

可愛らしく微笑む女には不快感しか沸いてこない。
なぜ、その『約束』をこの女が知っている。
女の言葉に、カっと堂上の瞳の奥が赤く燃える。
腕に触れてくる女の手を乱暴に振り払う。

「―――触るな」
低く絞り出した声に、女は僅かに身を強張らせる。それでも逃げ去らないのは自身に自信があるからか。
馬鹿馬鹿しい。
堂上は肚裡で吐き捨てる。
顔を幾分か紅潮させ不安げに堂上を見る表情は、もし相手が他の男であれば罪悪感を感じ保護欲をかき立てられるのだろう。
ヒールの高いブーツを履いてもなお、堂上の顎先ほどしか到達しない小柄な体躯。
気弱そうな雰囲気の中に甘えの垣間見える瞳と唇は、男心を捕まえるには充分な魅力があり、実際にそれを自覚しているのだろう。
けれど、堂上はただ冷たい視線のまま、抑揚のない声で拒絶の言葉を告げるだけだ。

「俺はお前と約束した覚えはない」
「で、でもっ笠原さんが伝えてくれたんでしょう?・・・だから!」
「ああ。俺が約束をしたのは笠原であってお前じゃない」
どうやら此処に郁は来ないらしい。
それだけを理解した堂上は、それだけ分かれば充分だと踵を返す。
それに女は慌てて追いすがる。
「待って!待って下さい堂上二正っ!
 話を・・・堂上二正は、まだ私の事を知らないから。だからっ!もっと私の事を知ってくだされば」
「知ってどうなる。知ったところで俺はお前に一切の興味は抱かない」
あの日から。あの瞬間から。郁を知ってから、堂上の心は郁にしか動かされない。
ぽっと出の女に揺らぐぐらいなら、自分はとっくに別の女を選び、こんなにも苦しい思いをしているはずがない。

「じゃあ、せめてお茶を一緒に!それだけでいいんです!それ以上の事を今すぐ望んでいるわけじゃっ――きゃっ」
腕にしがみ付くのを突き放す。よろける女に手を差し出す代わりに堂上は一瞥をくれる。

冗談じゃない。
今すぐ?
今も後も俺が関係を進めたい女はたった一人だ。

「確かに、俺はカミツレの茶に興味がある。飲みたいとも言った。
 けど、その相手はお前じゃない。お前じゃ―――意味がない」

―――郁でなければ、意味がない。

「―――何度も言わせるな。俺はお前に付き合ってやるような暇はない」


後ろで啜り泣く声が聞こえたが、それすら堂上にはどうでも良かった。
もし、そこに居るのが郁なら、そうした相手を殴り飛ばし、啜り泣く彼女に腕を伸ばして抱きしめたくなる衝動に駆られただろう。
けれど、そこにいるのは郁ではない。堂上が手を伸ばすことに何の意味もない女だ。









「―――なあ、分かるか?居るはずのお前が居なくて、代わりにどうでもいい女が居た時の俺の気持ちが」
「どう、でもいいって・・・でも、あの人は教官の、・・・かのじょ、で」
「誰が言ったそんなこと」
「あの人がっ・・・だって!だってっ、あの日!きょかっ、こく、こくはく、されて、それで」
「勿論即行で断ったが?」
堂上の言葉に郁がヒゥっと小さく息を飲む。
「―――な、…で」
咽喉がひり付いて、上手く声が出ない。けれど、堂上はきちんと聞き分けたようで。
「何で?決まってる。俺にはもうずっと、欲しい女が居るからな。そいつ以外どうでもいい」
その言葉に郁の眦からツっと涙が一筋流れ落ちる。

―――なんだ・・・教官。好きな、ひと、いたんだ。
なんだ、やっぱり―――どちらにせよ、失恋決定だったんじゃない。


「じゃ、じゃあ!その人を誘えばいいじゃないですか!
 あ、お、お店なら、教えますからっ、だからっ!」
「ああ!行くつもりだったさ!そこで気持ちも伝えるつもりだった!
 そしたら当の本人が他の奴寄こすなんていう仕打ちをしでかしてくれて、俺はメチャクチャ凹んだぞ!」
「だから、か、彼女が居るのにっ、あ、あたしが一緒に行ったら迷惑だって、そうおも―――・・・」
そこまで言って、急に思考が固まりボロボロ零れていた涙が止まる。驚いて、何が何だか分からない。

―――え?待って?何?教官は、なんて言った?

茫然と見遣る郁に「だから!」と堂上はヤケクソ気味に言い放つ。

「俺がカミツレの茶を一緒に飲みに行きたいって言った相手はお前だろうが!」
「―――う・・・そ」
だって、それじゃあ。それじゃあ、まるで。


「教官の好きな相手が―――あたし、みたいじゃないですか・・・」
そんな、嘘みたいな、夢みたいな話、あるわけ―――
「俺がお前を好きだって言ったら悪いか!」
そのまま掻き抱かれれて、郁は訳が分からなくなって頭が真っ白になった。


―――なにこれ。なにこれ?


「―――夢?」
「にすんなバカ!」
「だって、だって」

あたしはこんな大女で、可愛くなくて。
あんな、可愛い「女の子」に敵うはず、なくて。
だから、あたしは。

「ただの、部下で」
「もうそんなんで、我慢できるかっ!」
「でもっ、あたしは、あんな可愛い女の子にはなれないっ」
「俺にとっては、そんな風に思っているお前が一番可愛いんだから仕方がないだろう」
「かわっ」
な、何を言い出すんだろうこの人は!

「お前の事だから、こんな風にいきなり言っても分からんだろうから、機を待って、それなりの雰囲気を作って告白しようと思っていたのに」
くそっと堂上は吐き捨てる。
「これじゃ、待ってた俺がバカみたいじゃないか」

肩に手を置き、少しだけ郁を身体から引き離した堂上が真っ直ぐに郁の顔を見つめる。


「俺はお前に、酷い事を散々言ったし、理不尽な扱きもしてきた。
 それについては否定もしないし、言い訳もしない。
 だから、そんな俺がお前に好きだと言っても信じられないかもしれない。
 けど―――お前の事が一番大切で、それこそお前以外どうでもいいと思うほど。
 俺は、お前の事が好きだ。それだけは、間違っても曲解するな」

堂上の告白に、郁はまたポロポロと涙を零した。


「ほん、とに・・・?ほんとに・・・?」
「こんなこと嘘でも言えるか」
優しく腕を引かれて、郁の身体は再び堂上の腕の中に仕舞われる。
今度は、そっと郁も堂上の背に腕を回した。

「あ、あたしが・・・きょう、かんのこと、もし、好きだって、言ったら、信じて、くれますか?
 さんざん、歯向かって、否定して、傷つけた、あたしが」
「もし、なんて言葉は聞いてやらん。ちゃんと言え。そしたら、信じてやる」
その言葉に、郁はコクンと小さく頷いて、顔を上げた。
一度小さく息を吸って、口を開く。
ルージュもグロスも塗っていない、飾りっ気のない唇から、飾りっ気のない素直な言葉を零す。


「―――あたし、笠原郁は、堂上教官のことが、好きです。大好きなんですっ!」

そうしたら、良く出来ました。そう言うようにポンと堂上の掌が頭に乗り、郁はくしゃりと笑みを浮かべ、その拍子にポロリと涙が一筋流れた。



「ああ。俺もだ、俺も―――郁の事が、好きだ」

業務上ではない、その呼び名に、郁は泣きながら嬉しそうに笑った。


それからすぐに降ってきた初めてのキスは、少しだけしょっぱかったけれど、甘く幸せな味がした。












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