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季節外れの台風。あるいは、少しだけ早い嵐がまもなく関東に―――関東図書基地へと上陸しようとしていた。 「こりゃ直撃ルートだな」 休憩時間、休養室で弁当を広げながらテレビを見ていた隊員の言葉に、勤務班どこだ、とシフト表が広げられる。 チラっと視線を落とした堂上が、小さく息を吐いたのに気付いた郁が首を傾げる。 「教官?どうかしました」 「台風の上陸予定日はウチは夜勤だ」 それが?と首を傾げる郁にああ、と堂上は頷いた。 「そうか。こんな大型の台風が直撃するのは久しぶりだからな。 お前たちは初めてか」 「台風が来ると何かあるんですか?」 「飛来物やなんかでガラスが割れたりしてないか施設巡回したり、図書館は場合によっては避難所にもなるからな、状況によってはその対応も必要になってくるんだ」 良化隊との戦闘の中心となる図書館は強化ガラスなどで強固な造りとなっているが、一般庁舎に関しては同様の強化対策が取られているわけではない。悲しいかな、図書隊の予算はあまり潤沢ではないのだ。 「庁舎周りに出ることもあるから、当日は多めに着替えを持ってきて来いよ」 「了解しました」 そんなやり取りをした数日後。今期最大と言われる大型の台風は予測された進路と大きく外れることはなく関東へと接近していた。 昨日の天気予報で警戒を呼び掛けていたが、なるほどこれは嵐と呼んだ方がいいだろう。起きた時からすでに土砂降りの雨、さらに風のせいで雨が窓に叩きつけられて少しうるさい。 そしておまけに雷ときた。一瞬閃光が走って、少し遅れて轟音が届く。 「ぅわぁ〜・・・」 ベッドから起き出してカーテンをちらりと開けて見た外の景色に郁は小さく眉を寄せ、溜息を吐いた。 「これは移動だけでびしょ濡れになっちゃうな」 寮と職場は隣接しているが、この横殴りの暴風雨では少しの移動でもずぶ濡れになるだろう。多めに着替えを鞄に詰め込んで出勤する。 「うひゃぁッ!」 玄関を出ようと外に出た途端、強風に煽られる。これは傘は無理だ。瞬時に判断して郁は広げようとしていた傘を閉じ、右手で合羽のフードを抑え、鞄を胸に抱きかかえて庁舎へと一直線へ駆ける。 バシャバシャと泥水が跳ね、足元がグッショリと濡れる気持ち悪さに顔を顰めながら庁舎に入り、更衣室で濡れた身体を拭く。 この天候だと利用者は少ないだろうが、巡回は大変だろうな。とぼんやりと思う。 「―――雨漏りとかしないよねぇ・・・」 「おはようございます!」 郁が事務所のドアを開けると、他の班員は既に出勤を終えていた。 「すごい雨ですね。寮からの移動だけでびしょ濡れになりました」 「ちゃんと着替えたか」 「はい、大丈夫です。着替えも多めに持ってきました」 「ならいい」 大したことではないが、堂上から少しでもそうした声を掛けてもらって郁は気持ちが浮上するのを感じる。 「―――今日のメインは基地内の巡回になりそうだな」 スっと動かされた視線の先。雨粒が滝の様に流れるガラス窓の向こうには、黒く厚い雲が広がっている。 本格的に今夜の天候は荒れ模様になりそうだ。 今日の堂上班のバディは堂上と郁、小牧と手塚で分かれ巡回をすることになった。 前日までに飛来物となりそうなものは粗方撤去したり、固定をしたりしていたが、それでも吹き荒れる強風に運ばれてきたものは多く、通行人の安全を第一にして、大雨の中でごみなどの除去をすることも仕事の一つだ。また普段目隠しとしても働く樹木も枝を折ったりと被害を受けている。 「気をつけろよ」 「はい!!」 倒れそうな木をまっすぐに直し、補強し、大きな折れた枝を取り除いていく。 雨の中の作業は合羽を着こんでいても無意味な程、全身を濡らす。 中秋を過ぎた季節の風は冷たさを含んでいる。雨に濡れた身体に冷たさが響く。 思わず腕をさすり、小さく身を震わせたからか、堂上が郁に声を掛ける。 「笠原。日も暮れた。そろそろ中に戻るぞ!!」 廃棄物を集荷場にまとめれば、嵐を含んだ夜が訪れていた。 庁舎に入り、身体に張り付く合羽を脱ぎ畳んでいると、堂上がギョっとしたような顔を見せた。 「教官?」 「―――さっさと着替えるぞ。いくらお前が体力馬鹿っつってもこの気温じゃ風邪でも引きかねんからな」 「なっ!体力馬鹿って・・・!確かにそうかもしれませんがっ・・・!」 酷い!と憤慨する郁から堂上は視線を外し、足早に歩き始める。 「ちょっ!教官ッ!待って下さいよっ!」 慌てて郁は堂上の後を追う。室内灯は灯っているものの、取り巻く外見は暗澹とした嵐模様で、夕方から一層風も強くなってきて、ガタガタと窓が揺れる音が静かな廊下に響く。ときどき強い風がヒューと吹き込む音も聞こえくる。 なんともおどろおどろしい雰囲気を醸し出していて、郁の苦手な雰囲気を連れてくる。 「ぎゃっ!」 ガタガタと背後の窓が大きく揺れて、思わず郁は前を歩く堂上の背中のシャツを握った。 「おまっ」 「ギャー!すみません!ごめんなさいっ!!」 慌てて郁は手を離し、飛び退った郁だったが、突然暗闇に稲妻の閃光がはしり、雷鳴が轟き、一瞬にして暗闇に飲み込まれた。 「ぎゃーーーーーーーーー!!」 「お、おい、笠原っ!ぅおっ!!」 雷とともにやって来た暗闇に驚いた郁が、キャーキャーと喚きながら堂上に抱きついたのだ。 「落ち着け!笠原!俺の声を聞け! ――大丈夫だから」 ポンポンと背中をさすられる掌の温もりに、ゆっくりと郁の気持ちも落ち着いていく。 「―――落ち着いたか?」 「―――は、い。すみません」 ゆっくりと離れる温もりに、不意に切なさが込み上げてくる。そんなことを思う資格なんてないはずなのに。 涙腺が緩みそうになる郁の掌が温もりに包まれた。 「―――直に自家発電装置が作動する」 「―――はい」 停電してしまい辺りが暗闇に満たされると、息苦しいほどの緊張に見舞われた郁だったが、そこに堂上の存在を思い出し、徐々に緊張が解れていく。 暗いせいでお互いの表情は見えない。 それが徐々に緊張を解き、心地よいと感じられるまでになった。 逆にもう何も怖くないという気さえになってくる。 握られた掌に、郁は掌を重ねた。その瞬間、堂上の指先が僅かに強張った気がしたが、すぐに温かさと柔らかさを戻して郁の掌を包んだ。 それに何かが繋がった気がした。 「―――教官」 チカッと室内灯が点滅し、廊下に明るさが戻る。 「―――さっさと着替えるぞ」 「―――はい」 明るさが戻る中、繋がる郁と堂上の手は離れることはなかった。 冷たい雨風に晒された身体はひんやりとしているのに、身体の奥底は熱を持っている気がする。 手を引かれながら、更衣室の道を辿る郁はぼんやりと思う。 このまま、ずっと更衣室に辿りつかなかったらいいのに。 もちろん、そう広くはない庁舎内の廊下だ。永久に続くものではない。 郁の気持ちとは裏腹に、更衣室にはすぐに辿り着いた。 「―――身体が冷えてる。時間は気にしなくていいから、ちゃんと温まって着替えてこい」 「―――はい」 繋がった手を解くのを躊躇っているのが分かったのか、堂上は苦笑しもう一方の手でくしゃりと郁の頭を撫でた。 「―――教官の手がこのまま温めてくれたらいいのに」 「おまっ!」 「へ?」 焦ったような堂上の言葉に、郁は思考を浚う。そしてボンと赤面する。 「あ、あたし、口に・・・き、着替えてきますッ!!」 慌てて手を離し、ワタワタと更衣室に駆け込む郁の後ろ姿に「勘弁しろ」と堂上は顔を覆い、軽く天を仰ぐ。 それでなくとも、雨に濡れたシャツが張り付き、ほっそりとした身体の線を浮かび上がらせる姿は扇情的だったというのに。 無意識に、無自覚に、漏れる郁の言葉は核弾頭のごとき威力を持って、堂上の心を揺さぶってくる。 意識すまい。そう思えば思うほど、強くその存在が意識される。 じっと右手を見詰める。先ほどまで郁と繋がっていた掌。その温もりが反芻されるようで―――。 「―――アホか俺は」 思い出してどうする! 苦い顔をして、堂上は足を男子更衣室へと向ける。郁だけではなく自身もずぶ濡れだ。 すぐに着替えて、待っていてやらなければ。 そこまで考えて、いやそれはアイツが不安がっていたからで、と往生際の悪い言いわけをしているところに、悲鳴が聞こえた。 思わず反射で、堂上は女子更衣室へと飛び込んだ。 「笠原!どうしたっ!!」 「きょうかん」 「大丈夫か?!何があった?!」 「ぁ、大丈夫です。すみません、窓が・・・それで驚いて」 抱きすくめた郁がゆるりと指さす窓ガラスが割れている。近くには瓦が転がっている。どこかの家の屋根の物がこの強風に飛ばされてきたのだろう。 割れた窓から吹き荒れる嵐の欠片が流れ込んでくる。 「怪我はないか?」 「大丈夫です」 本当ならば、割れた窓ガラスの補修をするべきなのだろう。けれど、それよりも腕の中の温もりの存在を離したくないと思った。思ってしまった。 「―――冷てぇ」 「・・・まだ、シャワー浴びる前だったから」 抱きすくめられたまま、その腕を振りほどかない郁に、堂上の心はますます離れられなくなる。 蓋をして遠ざけて。そう思っていたはずなのに。こんなにも簡単に、煽られる。揺らぐ。 ああ、飛びそうだ、と堂上は思った。 「きょうかん」 揺れ聞こえる呼び声が甘く聞こえる。 それは己の願望がそう聞こえさせるのか―――あるいは。 「―――すき、です」 そんな声が聞こえた瞬間、堂上は噛みつくように郁の唇を奪った。 全てが吹き飛んだ。 今まで押さえ込んでいた感情が、怒涛の様に押し寄せてくる。 荒れ狂う感情に飲まれた時、もしくはただ単に本能的欲求からの逃避に違和感を覚えた時、本能は理性を凌駕する。 ―――そう、俺は初めからこの「女」が欲しかった。 けれど、どこかで堂上は郁を「女」以上の存在に見ていた。言ってしまえば「神」のような存在だった。 自分の指標となるべき存在。己が核を作った存在。 だから穢せないと思った。触れてはいけないと思った。だから箱を作った。それで良かった。 それなのに、現実はこんなにも彼女をリアルに感じる。郁は偶像ではない。 「笠原郁」は一人の人間で。女で。ありのままの感情をぶつけてくる。 もう、その感情を跳ねのけることは出来なかった。 俺もだと、そう言うように堂上は何度も何度も郁に口づけた。 雄弁な言葉はなくとも、それが堂上の答えだった。 郁はそのどの一つも拒否することはなく、堂上の首に腕を回して受け入れた。 「―――俺の手で温めていいんだよな」 言葉の意味が分からないほど郁も子供ではない。 微かに縦に動かされた首。 すべてを吹き飛ばすほどの嵐は、郁と堂上の二人の間を隔てていた壁すらも吹き飛ばした。 |