その事件は正化34年、1月15日から始まったものだと思われていた。
しかし、実際にはその8年前、正化26年から始まっていたことを知る者は少ない。





ヴァレンタインまであと1ヶ月を切ったその日。
世間がピンク色に浮足立つ頃。
関東図書基地独身女子寮の中にも一人、ふわふわのピンクオーラを放つ女がいた。
名を笠原郁と言う。
全国初にして唯一の女性特殊部隊員というなかなかに仰々しい肩書を持つ彼女もまた、恋する乙女の一人だった。




―――浮かれてる場合じゃないんだけど。
緩みそうになる顔を郁は必死に元に戻す。
その日、世間では大事件が起きていた。



―――敦賀原子力発電所襲撃事件。



放射能漏れの心配はないと報道されている。
しかし、日本でテロなど起きないと思っていた国民に与えた衝撃はかなりのものだった。
勿論郁だって、寝起き早々に見たそのニュースに唖然としたものだ。
しかし。ああ、ごめんなさい。と郁は心の中で手を合わせる。
世間的な大事件ももちろん気になるが、それ以上に郁の心を占めるのは今日の個人的イベントだ。
そわそわとしている郁の姿に、食い入るようにテレビ画面を見詰めていた、情報マニアの郁の同室者、柴崎もクスリと笑う。ああもう、可愛いわね、という微笑ましさからだ。



「良かったわねぇ〜。堂上教官とでぇと、出来て」
「なっ・・・!」
浮かれ気分の所に投げかけられた言葉に郁は盛大に慌てた。
「デートじゃないし!ただ、カミツレのお茶飲みに行くだけだし!」



―――堂上教官とデートとか、そんなわけないじゃん!!



叫ぶようにして、部屋を出た郁はバタバタと廊下を駆けた。
今日の集合は11時に、武蔵境の駅前だ。
時間に余裕を持てるように起床していたはずなのに。
―――原発事故めぇっ・・・!
思わず内心で愚痴る郁だ。あんなおっきな事件がなければ、柴崎とのやり取りもなくもっと時間に余裕があったはずなのに!



―――久々のデートなのに遅刻とか有り得ないっ・・・!!






ローヒールのショートブーツで寮から駅の間を自慢の脚力で駆け抜けたが、郁が駅に着いたのは生憎と待ち合わせからは5分が過ぎた頃だった。




「ごめんなさい篤さんッ!!」
最後の気力と言わんばかりに階段を駆け上った郁は、券売機前で待つ堂上の前で両膝に手を付いてぜはぜはと息を吐いた。
酸素足りないっ、と荒い息を吐く郁に、コツン、と額に柔らかな拳骨が降る。
「まったく。そんな格好で全力疾走する奴があるか。脚捻ったりしたらどうする」
「ごめんなさい」
「この時期は、汗もかいたら風邪ひく原因になるだろ?
 5分10分くらいの遅刻は織り込み済みだから、慌てて来なくていいぞ」
「ぅ、はい・・・あの、でも、早く会いたくて、そゆのもあって」
気が逸りました、と前傾姿勢のままオズオズと見上げ、伺うように言う郁に、堂上が優しく笑う。
ほら、と差し出される手に郁もほっと笑んでその手を取った。
「なんか飲むか?」
「大丈夫です」
「そうか。今日はどこに案内してくれるんだ?」
「立川のお店です」
「ん。分かった」
堂上が二人分の切符を購入し、一部を郁に渡す。




「今日の格好も可愛いな」
「あ、良かった。
 篤さんも、・・・篤さんはいつもカッコイイですよ?」
「―――そりゃよかった。
 お前もいつも可愛いぞ」
「ちょ、やめてっ恥ずかしいっ!」
「先に攻撃しかけてきたのはお前だろうが」
「仕掛けてない!仕掛けてないよ!」



駅前で、バカップルの見本を繰り広げる郁と堂上は、職場である関東図書基地内では、犬猿の仲から関係を変え、今では飼い主とワンコ。そんな風に見られる上官と部下の関係ではあるが、実は既に交際8年目に突入している恋人同士である。
その出逢いの特殊性を考え、職場ではその関係を秘匿し、少しずつ関係性を変え、3年をかけて自然に距離まで縮めてきた。
堂上としては、もうそろそろ交際を公言してもいい頃合いではないかと思い始めている。
交際の事実がバレているかバレていないかは別として、少なくとも特殊部隊員及び柴崎には互いの気持ちはバレているのだ。
今日二人で出掛けることは、小牧と柴崎に知れている。つまり隊内には知られているものだと思っていいだろう。
今晩にでも、付き合っていることを伝えてもいいかもしれない。
ふわりと隣で笑う郁に笑みを返しながら堂上は算段を付ける。
正直、上官として牽制することに限界を感じ始めていた。
職場での堂上との距離が縮まるにつれて、郁の気も緩むせいか柔らかな女性の表情を基地内でも見せるようになった郁は、囮捜査の格好とも相俟って男子寮で「笠原って実は・・・」と話題に上がることも増えてきたのだ。そんな声を耳にする度、何度「郁は俺の女だ、手を出すな!」と言いたくなったことか。
郁本人がそうした輩のアプローチに気付かないという鈍感具合だというのも堂上を一層やきもきさせている。




「篤さん?どうしました?」
「あ、いや、飯はどうするんだ?時間的に飯が先だろ。昼飯が立川なのか?」
「ううん。ランチメニューもあるお店だから、ご飯もそこにしようと思ってるんだけど」
いい?と小首を傾げる郁に、堂上は「今日の昼は郁に任せると言っただろう」と笑って返す。
「カミツレのお茶」の案内の為に郁があたりを付けていたのは、立川の駅ビルにあるハーブを売りにしたカフェだ。そこならば、食事もできて「目的」も達成できるし、その後の動きも融通がきくだろうと考えたからだ。なかなかに、いいチョイスじゃないだろうか、と郁は内心で満足げに頷く。
勿論内心で、というのは郁の個人的な見解である。思考がダダ漏れだとよく言われる郁はこの時も例にもれずの駄々漏れを披露し、実際に満足げな笑みを浮かべて頷き、堂上を微笑ませることとなった。



シフト勤務は暦通りの休みではなく、多くの人間と休みの都合を付け辛いことからそれを嘆く者も少なくないが、堂上と郁に関して言えば、同じ班に所属しているため一番休みを合わせたい相手とは苦もなく休みが合い、そこに不都合は感じない。むしろ平日に休みがあたる方が、人混みを避けられるということもあり都合がいいとも思うほどだ。
この日も、平日の正午の少し前という条件が重なり、訪れたカフェはまだ人も疎らであり窓際の角席という特等席を案内されるという特典を得た。
メニューを広げ、どうせなら違う種類を頼み分け合おうということになり、堂上がボリュームのあるチキンのハーブソテーを、郁が白身魚の香草パン粉焼きを注文することにし、それぞれにケーキセットとカモミールティーを付けることにした。






運ばれた料理を互いに分け合いながら食べ終えたところで、カミツレの花が入ったガラスポットと共にケーキセットが運ばれてきた。
トレイに乗ったポットを手に取り、軽く揺すってお茶の濃度を均一にした後カップに注ぎ入れる。
カップを持ち上げて匂いを嗅いだ堂上が「結構、軽い感じの匂いだな」と言った。
カミツレのアロマオイルは以前に郁が渡しているので、その匂いと比較しての感想だろう。
「オイルは濃縮されたものだから、お茶とはやっぱりちょっと違いますね。飲めそうですか?」
「ああ。クセのない匂いだから、飲みやすそうだ」
「味も気に入るといいんだけど」
ゆっくりとカップを傾ける堂上を注視する郁に、そう見詰めてくれるな、と堂上は内心で苦笑を零す。
「どう?どう?」
身を乗り出さんばかりの勢いで感想を聞く郁を、ちょっと待て、と軽くいなして堂上は味の余韻を愉しむ。
「―――うん。飲みやすいな。ハーブティーっていうと、ちょっとクセが強いイメージがあったが、さっぱりして、匂いもきつくないし」
「ほんと〜?よかったぁ。やっぱりハーブティーって篤さんが言うようにクセがあるし、苦手な人は苦手だもんね。篤さんが気に入ってくれて嬉しい」
「約束してから、結構時間が開いて悪かったな」
「ううん。あれからすぐ香坂大地の件とか、県展も入っちゃったし、忙しかったから仕方ないですよ」
「ああ。―――それでな、郁」
真摯な様子の堂上に、郁も思わず身を正す。
「―――そろそろ、俺たちの関係公表しないか?」
「―――え?」
「お前ももう今年で入隊4年目になるし、お前自身の業績も評価されるようになってるから、上官と付き合ってることで評価者の見方が極端に変わることはないだろう。
 ―――まぁ多少のやっかみは買う可能性がないとは言い切れんが、そこはそんなこと言う奴はその程度のもんしか持ってないと割り切るしかないな。そう言う奴はいつまで経っても言ってくるからキリがない。
 どうせ、小牧や柴崎には今日の件はバレてんだ。近々そういう噂が立つ可能性もあるしな。
 公表しておけば今後、デートの度に互いに外出に理由付けを考える必要もなくなるだろ。そしたら、多少忙しくても会える時間を作るのは難しくなくなる」
どうだ、と尋ねられれば、郁には頷く以外の選択肢はない。
「篤さんと、もっと一緒に居られるようになるの、嬉しい、です。
 あ、えっと・・・」
「ん?何だ?」
「お仕事の後とかも、デート、できる?」
「ああ。今まで出来なかった分、いっぱいしような」
「へへ。嬉しい」
カップを両手で持ってはにかむ郁の姿に堂上はくらくらとしそうになる可愛さを覚える。
やはりここはもう一段階、と堂上は畳みかける。



カサリ、と堂上は二つ折りした紙を取り出す。
「―――え?」
パチクリと郁は目の前で広げられた紙面を見下ろす。
「俺は小牧には、お前とは結婚を前提に付き合っていると伝える。
 実際の俺たちの付き合いはもう8年目で、俺としてはそろそろ結婚を、と考えているんだが」
郁の目の前に広げられたのは婚姻届。既に堂上の記載は済んでいる。
「あの・・・えと・・・」
目の前にある現実に、郁は思考が付いていかない。




「―――俺と結婚するのは、嫌か」
「ちがっ・・・そうじゃない。でも、待って・・・」
郁と堂上が付き合い始めて8年目に入るのは間違いない。
けれど、今までその付き合いを公にしてきたことはなく。知っているのは、笠原と堂上の家族くらいのものだ。
今の二人は世間的に見てみれば、上司と部下。ただの上司と部下よりは親しい、それぐらいの認識は持たれているかもしれない。
けれど、いきなり結婚するような仲ではないはずだ。
郁とて堂上と結婚をしたくないというわけではない。けれど、まだ。郁の中でその意識は強くない。
ようやくいまから、隠す必要のない普通の「恋人」になれるのだという気持ちの方が強くある。
付き合っている期間は8年と長いが、デートの回数はさほど多くはない。
付き合い始めたのは郁が大学に入ってからで、シフト制勤務の堂上と大学生、それもスポーツ推薦で入り部活が忙しい上に、図書隊への入隊を目指し司書講座を受講していた郁では休みが合うことは少なく、郁の授業が少ない日で堂上に時間がある時や、大学の長期休み期間で郁の部活が半日しかない時くらいにしか会うことはできなかった。郁が図書隊に入隊してからも、付き合いを隠している手前、そう頻繁に逢うことは叶わなかった。
それが、ようやく誰に憚ることもなく恋人同士らしいことをできると思ったところへの求婚。
気持ちと現実がまだ追いつかない。




「今、ここでサインしろって言ってるんじゃない。ただ、そういうつもりで俺はいるんだということは覚えていてくれるか」
「ぁ・・・」
僅かに腰を上げ、腕を伸ばし、郁の頭をポンと撫でた堂上は笑った。けれど、それはどこか寂しそうに見えて、郁の瞳が揺らいだ。
何か、言わなければ。けれど、何をどう言えばいいの?
ただ、小さく口を開けただけの郁よりも先に堂上が言葉を紡いだ。
「―――続きを書くのはお前の中で気持ちの整理が付いてからでいい。持っててくれ」
「ぁ」
困惑し、くしゃりと泣きそうに歪む郁に、堂上は小さく笑む。
「急がなくていい。待ってるから。
 ―――いきなり、こんなこと言って、混乱させてごめんな。
 ただ、俺の気持ちを伝えたかっただけなんだ」
ふるり、と郁は首を振る。それしかできない。言葉にならない。
ポンポンと堂上の掌が軽く郁の頭上で跳ねる。





「まずは、いっぱい恋人らしいことしてから、な」
「―――ごめんなさい」
「郁が謝る必要なんてない。
 ほら、顔上げろ。そんなんじゃせっかくのデートが台無しだろ。
 お前は、久しぶりのデートをこのまま潰す気か?」
「―――いや・・・」
「だったら顔上げて笑ってろ。
 もう、今日はこの話はここまでだ。
 ほら、この後どうする?映画でも見に行くか」
「―――うん」
ゆるりと顔を持ち上げて、郁はなんとか笑みを見せて頷く。それに堂上は安堵したように笑った。





「ほら、これはどうだ。郁の好きそうなアクションぽくないか?
 カット見る感じ、爆破シーンとか派手そうだぞ」
ほら、と見せられる検索結果に、郁はぷくりと頬を膨らませる。
―――好きだけど!好きだけど!もっとこう、女の子らしい、選択はないの?!
そうは思いつつも、8年の付き合いともなればそうした趣味も把握されているのは仕方がない。
「どうした?気に入らないか?」
「―――ドンピシャすぎて、かえってムカつきます」
むくれる郁に堂上が笑う。
「どうする?今からなら2時の回があるが、予約するか?それともどっか回って最後にするか?」
「先、にしようかな」
「分かった」
堂上が予約を入れようと携帯に指を滑らせたところで、郁と堂上、二人の携帯が同時に鳴った。
掛けてきたのは、柴崎と小牧。内容は同じもので、緊急事態だからとにかく早く基地へ帰還しろということだった。
顔を見合わせ、小さく頷き合う。甘い顔はそこにはない。








基地周辺の雰囲気は張りつめていた。少なくとも、郁たちにはピリピリと肌を指すような感覚を感じていた。
「―――篤さん」
「大丈夫だ。奴らに気付いてないよう振る舞ってろ」
安心させるように、堂上は郁の手を握った指先に力を入れ、そのままコートのポケットへ突っ込んだ。
「このまま基地に戻るぞ。普通にしてたら俺達が図書隊員だってことはバレやしない」
「うん」



関東図書基地の周りには、良化特務機関の人間がうろついていた。それもかなり上位の隊員だ。
携帯電話口では話せない緊急事態が起きているのは確実だとそれだけで知れた。
駆けそうになる脚を堪え、あくまでもデート中の恋人のように談笑しながら二人は基地へと戻った。





「堂上、笠原戻りました」
「遅くなってすみません・・・!」
ガラリと事務室の扉を開け、挨拶をした二人に集まった視線が固まる。
「ええっと・・・親睦が深まったみたいでよかったね?」
気遣いが見える言葉を選ぶ小牧の隣で、柴崎は楽しげな表情で口笛をヒュっと鳴らして囃し立てた。
気付いて、郁はバッと手を離した。
「あ、これはっ、外に良化隊がいたから、カモフラージュの為に!ね、教官?!」
「―――ああ、そういうことだ」
若干苦った顔をしながら、堂上は頷く。お前っ!と思わないでもないが、緊急招集が掛っている時に交際宣言が出来るわけもないと、小さく息を吐いた。
この事案が落ち着くまでは棚上げだな。
―――その結果、長期間のお預けを強いられることになるとは流石の堂上にも予測は出来なかった。




関東図書隊にもたらされた緊急事態。
それは敦賀原子力発電所襲撃事件を起こしたテロリストがテキストにした可能性のある「原発危機」の著者、当麻蔵人の保護だった。
敦賀原子力発電所襲撃事件を無差別テロと認定した政府は、異例の速さで対テロ特措法を採択した。そしてそれに伴い、良化特務機関の権限も拡大されることとなった。
つまり、テロを引き起こしかねない危険な書物を書く著者そのものの身柄を拘束し、執筆の自由を奪うことが可能となったのだ。そして、それを皮切りに、作者狩りが始まることは目に見えていた。
それはもう一個人の問題ではない。
当麻を奪われることは、実質的な図書隊の負けに繋がる。作者がいなくなるということは、守るべき本が生まれなくなるということだ。それは図書隊の存在意義が揺らぎかねない事態だった。







新法の違法性を訴える準備が整うまで、当麻の護衛は堂上班を中心にシフトを組まれることとなった。
当初は関東図書基地内にてその身柄を保護していたが、そろそろ隠し通すのも無理かと思い始めた頃に未来企画の横入りもあり最終的には基地顧問の稲嶺宅にてその身柄を移すことなった。
基地と当麻宅の警護体勢も引き続き維持しながら、稲嶺宅での護衛は堂上班が担当し、堂上と郁、小牧と手塚の二組に分かれ、日替わりで警護を行うこととなった。
しばらくは穏やかな隠遁生活が続いた。けれど、相手も馬鹿ではない。その手はじわじわと稲嶺宅へも伸びていた。
そして、深夜の襲撃。
稲嶺家付の家政婦の機転のおかげで、事前の情報を得ていたためなんとか難を逃れ、当麻の身柄は再び関東図書基地へと移された。
玄田の知己でもある折口の協力を得て、このことはマスメディア全体で報道されることとなった。
またそれに付随し、マスコミが図書基地周辺の取材を行うことになり、良化隊の露骨な張り込みの抑制に繋がった。
当麻の保護が秘匿情報ではなくなったことから、特殊部隊のシフトも通常のローテーションへと戻った。
ただし、引き続き非常事態状態であることには変わりはないことから、外出時には外出先を申告することとなっている。
毬江と会うために申告をする小牧の姿に郁はほぅっと息を吐いた。
こんな状況だから堂上とはデートは出来ていない。まだ交際を公表していないので、二人一緒の外出先を書けるわけもない。当麻の事件が片付くまではお預けだ。
「―――笠原」
「はい!今すぐ!!」
堂上に声をかけられ、郁は止まっていた日報にガリガリと手を動かす。
「すみません!遅くなりました」
「ん」
手渡されたものを堂上は入念にチェックを行い、押印する。
「上がっていいぞ」
「はい」
「―――しばらくはお預けだな」
苦笑混じりにポンと頭に手を乗せられて、郁は一瞬動きを止めて、笑んだ。
「終わったらいっぱいデートしましょうね?」
「ああ」
堂上も同じ気持ちで居てくれることが郁には何よりも嬉しかった。










裁判の行方は芳しくない。もともと原告不利と言われる行政裁判だ。
最高裁でもし表現の自由が守れないような判決が出れば―――。



「いっそ、どこかの国に亡命してしまえば」



そんなミラクルヒットな郁の発案が、最悪の場合の対策として採択された。








そして運命の最高裁判決の日。その日はその夏最大の台風が関東に上陸するのと同日だった。
嵐を予感させるような天候の中出た判決は―――事実上の敗訴だった。
特殊部隊隊員が法廷から出る当麻と弁護団達を囲みながら、玄関へと出るとすぐに報道陣に囲まれる。
記者たちの質問攻めの声やカメラのシャッター音をも飲み込もうとする雨音の中を割割く「当麻先生こちらへ!」という隊員の声と共に、車寄せに止められた図書隊所有の装甲仕様のバスの後部ドアが開き、報道陣の意識はそちらへと向けられる。「当麻先生」呼ばれた人物は―――偽装だ。
視線の輪から離れた弁護団の一集団の中にスーツを着込んだ堂上班と当麻本人がいた。気付かれないように、騒ぎの中心から外れていた一行は急いで駐車場に待機している車へと向かう。
豪雨の中、オランダ大使館へと向かう。
しかし、そこは既に良化特務機関のバリケードが敷かれてあった。
「何で!?」
悲鳴の様な郁の声が上がる。
バリケードを跳ね飛ばして、新たな候補へと進路を変える。
オランダ大使館前の封鎖状況から、ここからは時間との勝負だ。
次に目指すのはアメリカ大使館。厳重な警備態勢が敷かれているが、当麻の亡命に関しては既に打診が行われているため、正門にさえ辿りつけば後は通過できるはずだ。正門近くになれば警備も厳しく、良化隊も事前に大がかりな妨害準備は出来ないと踏んだからだ。
次の信号で大使館に入れる、そこまで進んだところで、大使館前に突っ込むワゴン車があった。事故を装った良化隊の車両だ。続けて二台目が止まる。もう、初老の当麻を連れて突破するのは難しいタイミングだ。そして車を切り返し次に向かう余裕はない。ここで車を乗り捨てることを決めた。
緒形、小牧、手塚、そして堂上、郁、当麻の二組に別れ、別ルートで移動をする。
緒形の方では小牧を当麻に見立て、堂上の方は当麻を郁、女性隊員に見立て豪雨の中駆けだした。
身長の対比からか、良化隊は囮の緒形組を本物と見誤ったようで、堂上達を追って来たものは少なかった。途中で追跡者を待ち伏せし、手早く沈めてから地下鉄へと乗り込む。




「これからどうしますか?」
地下鉄の路線を見ながら尋ねる郁に、堂上も難しい顔で考え込む。時間が経てば経つほど良化隊の包囲網は厚くなるだろう。隊の救援なしに基地へ戻ることはおそらく不可能だ。
どうしたものか、そんな中、当麻がおずおずと切り出した。
「半蔵門で降りたらイギリス大使館がすぐなんですが・・・・・・」
当麻の中に、他国への亡命という作戦に対する未練があった。このまま図書基地へ帰還すれば、そうなるともう、大使館へ駆け込むことはできなくなるだろう。当麻に亡命計画があることは良化隊の確信するところとなったのだ。明日以降は警戒が厳しく近づくことが出来なくなるのは明白だった。
今まで意見らしい意見をしてこなかった当麻の言葉は重く響いた。しかし、救援もない状況では危険も増す。
悩む堂上の手を郁が握る。驚きの表情を浮かべる堂上を郁は真剣な顔で見る。
「―――行くだけ、行ってみましょうよ。もしかしたら、まだ手薄かもしれないじゃないですか。
 様子を見るだけ見て、突破できるかどうか、そこで考えるのは、できませんか?」
「―――そうだな」
堂上は頷き返し、一瞬、郁の握る手を強く握り返した。その手はすぐに離され、その顔に迷いはなかった。
「せっかく精鋭が囮になってくれてるんだ。無策で逃げ帰るのもつまらないしな」









「あたしが斥候になって様子を見てきます。教官はこのまま当麻先生を護衛していてください」
イギリス大使館の裏側から、アプローチ方法を考えていた堂上に郁が提案する。その提案に堂上は渋い顔を見せた。郁一人を出すのが心配だったからだ。しかし、「部下」の顔をした郁に諭され、結局は渋い顔でその案を堂上は了承した。
正門前で立ち止まらないよう。周囲に映る物が見えるよう速度を落として。
郁は堂上に念押された言葉を胸に、大使館前から一つ離れた石畳を歩く。大使館前の遊歩道は街路樹の植えられた土の歩道となっているため、今や泥水に浸されている。石畳も冠水状態にあるが、それでも泥の道を歩くよりはマシだ。普通の人間なら、まず石畳を選ぶはずだ。少しの不自然も相手に与えてはならない。距離は少し出来てしまうが、郁もまた石畳の道を選び、歩幅を小さくゆっくりと歩く。
大使館の正面付近には黒いレインコートを着た人間が数名うろついていた。良化隊員だ。停めてある車は一台。それだけ分かれば十分だろう。
郁は逸りそうになる脚を抑え、ゆっくりと大使館の裏側へと進む。
途中、風に煽られたコンビニ傘の骨が折れてしまい思わず悲鳴を上げたことで、良化隊の視線が向けられた時はヒヤリとしたが、声を掛けられることもなく胸を撫で下ろした。
不審がられることなく、無視された。
―――そう思った。
堂上と合流し、状況を報告し移動を開始した時に、まさか声を掛けられるとは思わなかった。
傘を壊した一般女性を心配した良化隊員が有難迷惑にも追ってきたのだ。
そして、バレた。
なんとか撒きながら逃走を図るが、状況は圧倒的に不利だった。地下鉄の駅に潜ろうにも、どのルートにも黒いレインコートの人影がいる。
人影を避けながら移動すれば、いつのまにか駅とは反対方向に追い込まれていた。
こうなれば、車かと車道に乗り出しタクシーを捕まえようとしていた時、パァンという破裂音が雨音を引き裂いた。
「堂上教官!!」
郁が振り返るのと、堂上が倒れ込むのはほぼ同時だった。駆け寄り、立ち上がろうとする堂上を支える。堂上の右足の大腿部からは夥しい流血があった。
堂上は呻きながら、斜めがけしていたビジネスバックからSIG−P220を取り出し、威嚇に撃つ。堂上を撃った黒いレインコートは退避の為か曲がり角へ隠れた。
「笠原、ここは俺が引きつける。お前は当麻先生を連れて、市ヶ谷駅へ向かえ」
「何を言っているんですか堂上さん。そんな状況で、この雨の中どれだけ足止めするつもりですか」
堂上の傷はおそらく動脈を損傷している。流れる血の量は多く、このまま止血もなく雨に晒されるのなら、間違いなく重体になる。下手をすれば失血死の恐れだってある。
「大丈夫です。行け、笠原!」
「嫌です!」
これは当麻の意向でもあるのだと、郁は上官命令に反抗し、解いたネクタイで簡易ながら止血を行い、堂上の身体を支えて地下鉄に入った。
そこからは何かプランがあるらしい当麻に従い、新宿へと向かった。辿り着いたのは全国チェーンの大型書店だった。そこの店長が当麻が懇意にしている人物であったらしく、一時の避難場所にバックヤードを提供して貰えることとなった。







「当麻先生には、この先のプランがおありですか?」
「―――大阪に向かおうかと思います」
大阪は総領事館が集中している場所だ。総領事館には大使館に準ずる権限があり、駆け込み先が総領事館に変わろうとも、この亡命計画と同じだけの結果は得られる。
当麻本人は明日、台風の通過を待ち交通機関を使用し単独で移動するつもりだったようだが、それは堂上が止めた。明日になれば新幹線や飛行機などの主要な交通機関は抑えられてしまうだろう。
堂上は郁に、一人で、当麻を連れて車で大阪へ向かうように指示した。




半べその状況で指示に頷く郁に堂上が苦笑する。
「泣くな、笑えよ。ここからお前一人で護衛するんだ、しっかりしろ」
そう言って、ワイシャツの胸ポケットに挿してある二正の階級章を外し、郁を呼んだ。
「こっち寄れ。お前、カミツレ欲しがってたろ。上官からの餞別だ。
 貸してやるから、無事に任務を終えて返しに来い」
そして名前を呼ばれる。
「郁」
ほんとはもっとちゃんとしたとこで渡したかったんだが、と一言、言い置いて堂上は図書隊の証票を開く。そしてカヴァーの内側から取り出したものを郁の手を取って嵌めた。
「こ、れ・・・」
「お守り代わりに持っとけ。
 虫除け用に買ったもんだけどな。
 恋人として渡せるもんは、これくらいしかなくてな。
 ちゃんとしたやつは、後でまた用意するから」



―――ちゃんと俺んとこ帰ってこい。




その言葉に郁のリミッターは振り切れた。
堂上の襟首を掴み上げ、唇を押しあてた。冷たくなった堂上の唇に少しでも熱を与えられるように、長く。
冷え切っていた唇に熱が乗る頃、郁は唇を離して叫んだ。



「堂上教官こそ―――あたし、帰ってきたらカミツレ返しに行きますから。
 帰ってきたら、婚姻届に名前書きますから!
 だから、絶対元気になってください!元気にならなかったら許さない!
 あたしは、篤さん以外と結婚する気なんてないんですからね!!」




それから、郁は振り返ることなく当麻を連れてバックヤードを後にした。
肩を張って出ていく郁の後ろ姿を霞む視界で見送りながら、堂上は苦笑する。



「―――んなこと言われたら、死ぬに死に切れんに決まってるだろう」
そんなことを呟きながら堂上の意識はブラックアウトした。











なんとか事故もなく大阪に辿り着いた郁と当麻は関西図書基地の支援を受け、無事に作戦を完了した。
大阪まで東京まで新幹線で2時間半。
早く早くと郁は折角のグリーン車も味わうことなく早々に立ち上がり、乗降口から流れる景色を見る。
ぎゅっとカミツレの付いた襟を握る左手の薬指には白金のリングに小さな石が付いたファッションリング。右手を重ねて郁はただただ早く着けと念じる。
今すぐ逢いたい。
たが、2時間半の移動時間を我慢しても、郁はその日の内に堂上の元に駆けつけることは出来なかった。
最後まで当麻に付き添った郁は、なすべき報告やその他の雑事が多く、3日ほど身動きが取れなかった。
そしてそれから解放された瞬間、郁は自室の机から封筒に入れていた婚姻届を取り出し、堂上の病院へと急いだ。
病院に入ると駆け出す一歩手前の訓練速度で廊下を歩く。入院患者や見舞客だろう通りすがりの人間にギョっとした顔で振り向かれたりしたが、郁には見えなかったし、気付かなかった。
ただ一直線に、愛する人のいる病室を目指す。
そして、勢いよくスライド式のドアを開けて飛び込んだ。





「笠原、ただいま戻りました!
 だから、あたしと結婚して下さい、篤さん!!」




ギプスで固定された右足を吊られながら、上体を起こしていた堂上が笑って、飛び込んできた身体を抱きしめた。



















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