|
「何時まで、知らないフリをする?」 足音が、ゆっくりと近付いてくる。真っ直ぐに見つめてくる顔は表情を欠いていて、けれどだからその真摯さを強調していた。 何と答えようかと視線を泳がせ思案して、けれど見た目の落ち着きとは逆に酷く混乱した頭はロクな結論を導き出してはくれない。吐き出そうとした息を呑み込むと、冴えた瞳が細められる。 だって。 だって本当に知らなかったの。 口に出そうとした言葉を見透かされた気がして、怯えたように肩を竦ませる。とにかく今直ぐにこの場所から逃げ出してしまいたいけれど、それは多分きっと、目の前の彼が許してくれないだろう。 見た目以上に頑固で案外融通が利かない彼は、自分が納得が行く理論を展開させなければ解放する事は無い。戸惑いと情けなさで彼の顔を縋るように見つめても、決してその表情は揺り動かされる事は無く。 「いい加減答えを訊かせろよ、笠原」 そう小さく呟いた言葉が何時もの覇気も力も無い事に、必死になって答えを模索していた郁は、気付く事は無かった。 「私、ホントに知らないフリしてたワケじゃなくて」 僅かに驚きに目を見開いたその顔に、開口一番にそう告げた。 あの時、戸惑いだけが勝ってどうしても言えなかった言葉を、今ならばちゃんと告げる事が出来る。出来なければ困る。 その冴えた瞳が細められて、伏せられた。そんな何処か憂いを帯びた表情が似合うとふと思って、郁は笑う。 「ごめんなさい」 「それは、何に対しての返事だ?」 今まで押し黙っていたその口が開かれ、微かに戸惑って顔を上げた。 酷く切実な響きを持った、少し切なげな声は身体の何処かをきつく締め付ける。 真っ直ぐに射抜くように見てくる、その表情は言葉を告げられた日と変わらないけれど、あの時よりも少し辛そうだと、そう思った。 「なにに、って」 「今まで気付かなかった事に対してか? それとも、・・・応えられないって意味なのか」 ああ、と。痛みを堪えるような声に漸く気付いて、日本語の曖昧さに郁は仕方が無さそうに表情を歪めた。そう言えばそんな処が難しいよねと、軽く息を吐き出す。 どう告げたら良いのだろう。 逢いに来るまでの間ずっと、電車に揺られながら答えを模索していた。結論だけは先に出ていたけれど、それに納得し理解する迄に少々時間が掛かって、告げるべき言葉を用意していなかった。 隠す事も臆する事も無く真っ直ぐに見つめてくる視線は、何を告げられたとしても受け入れるという覚悟が見え隠れしていて、こんな時ばかりは少々居心地が悪い。 好きだ、と気付けば案外あっさりしたモノだ。今まで空いていた場所にすとん、と綺麗に収まる。 彼もこんな風に思ったりしたのだろうか。そして気持ちを押し隠すのは、どれだけ辛い事だったのだろうか。 ―― 幸いな事に自分は、きっとその切なさを知らずに済む。 「きょうかん」 あのね。 揺れる瞳に、ふわりと笑む。 「あたしは、教官のことが、堂上教官のことが好き、です」 きっと、あなたと同じ意味で。 後に続く言葉は結局呑み込んでしまったから、果たして彼がどう捉えたか。 驚きに見開かれていた目は次第に揺れ、その顔が急に紅く染まる。 彼は知っていた筈だ。自分の気持ちすら。 それでもそんな風に素直に反応する彼の表情は可愛いと思う。答えに詰まり口元を手で覆いながら、郁から視線を逸らしてただ困ったように柳眉を歪める。 「・・・なんでそんなに照れるんですか」 恥ずかしいのは寧ろこちらだというのに。 夕暮れの光景の中でも誤魔化せない程紅くなった彼の顔を見つめて、不思議そうに目を瞬かせると、複雑そうな視線が郁を捉えて射抜く。 「・・・五月蠅い。俺はお前の返事が、YesかNoのどっちかしか無いと思ってたんだよ・・・」 ストレートに告げられるなんて思わなかったんだ、と拗ねたように呟いた言葉に、驚いて大きく目を見開いた郁は次の瞬間軽く吹き出した。 バツが悪そうに逸らされる視線が、何処とも知れない場所を泳いでいる。 ああこの人は案外と可愛いらしい人なのだなぁと、しみじみ思ってしまったのだ。 だから、この行動は衝動的なのだ。 そう言い訳を付けて、郁は思い切り、その腕の中に飛び込んだ。 どうしてこんなに、愛しいと思うのだろうか。 そんな考えを巡らせるのは後からで良い。 僅かぎこちなく、けれどしっかりと背中に回されたしなやかな腕の強さに、郁はその胸の中で満足そうに笑ってみせた。 |