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シュシュシュシュシュシュと蒸気が漏れる圧力鍋からは煮詰まる赤ワインのいい匂いが漂う。 今日の夕飯のメインは牛すね肉の赤ワイン煮。 郁としては「それってレストランのメニューじゃないの？」と思うようなメニューであっても、あっという間に郁の料理の腕を抜き去った堂上はレシピがあれば基本的に何でも作る。 レシピがあって作れないものはないという堂上の思考回路はレシピがあっても作れないものが多い郁にはよく分からないが、郁は食べられるのならどちらでもいい。 店で食べるより家で食べる方がわざわざ外に出なくて良いという理由により、どちらかといえば家での食事に軍配があがるといったところだ。 何より、堂上は自信満々に言い切るだけの腕を今では持っているので出される料理に文句の付け所はない。 今日の料理だって完璧だ。牛肉は昨日の夜からローリエやローズマリー、クローブなどという香草と一緒に漬け込んでいたし。深みが増すとかなんとか言って、セロリや玉葱など香味野菜を煮込んでソースにしていた。（後で聞いたが、これはあくまで肉を煮るため時のソースであり、仕上げのソースは肉を煮込んだもので更に作るという。）郁が分からない部分にまで堂上はとことん凝る。というか凝った料理が大好きなのかもしれない。 ローリエが月桂樹と同じものだということで、月桂冠を指差して「あれって食べられるんですよ」とニッコリ顔で報告した郁とは料理に対する感性が違うのだろう。 そもそも郁は香り付けと言われたらニンニク、ショウガぐらいしか思いつかない。というか、美味しいご飯は大好きだが、自分が作るとなると有っても無くても気にしない。堂上からしたら「味がまるで変わってくるだろ！」というような、下味段階での塩コショウですら「料理の途中で投入しても同じじゃないですか」とすら思っている。同じものを同じ量だけ使えば結果として同じものが出来上がるとすら思っているのが郁だ。料理に対する感性というよりも関心の問題かも知れないと堂上は思う。 これがかつてペンネとマカロニの違いに首を傾げていた男と「全然違いますよー」などと言っていた女の姿なのだから世界は不思議だ。 もっとも、食事に対する関心はやはり郁の方が高く、職業柄一般に比すれば食べる方ではあるがどちらかというと飲みに比重を置いている堂上と違ってとにかく食べる。ガツガツ食べる。 一応味は分かっているようだが、郁の「美味しい」のハードルがとてつもなく低いことだけは確かだと思う。食堂のプリンもコンビニのプリンも洋菓子店のプリンも堂上お手製のプリンも同じように顔をとろけさせて食べている。 まぁ郁が美食家であろうとそうでなかろうと堂上が手を抜くことなどないのだが。 毎日毎日、盛り付けまで此処は老舗料亭か、どこの高級フレンチレストランだ、というような料理を仕上げてくる堂上に郁はいつも心の中でそっと思う。 （一家に一台専用シェフ） 堂上が知れば絶句しそうな考えではあるが、郁としては（訂正するなら、一台ではなく一人か）という些細な問題でしかない。 声に出して言わないのは、何も堂上を思いやってのことではない。単に思いつつも直ぐに意識が目の前の美味しそうな匂いで「食べて食べて」と催促する料理に向けられて意識の外に追いやられるからに他ならない。 堂上の「愛妻餌付け大作戦」は大局で見れば成功なのかもしれないが、堂上の意図した結果と合致しているのかは定かではない。 「何をしてるんだ」 キッチンでの作業は一先ず終わったのだろう。エプロンを外しながら出てきた堂上が声を掛けてきたので、リビングのソファーに悠々座っていた郁は振り返り両手を見せた。 「綾取りです」 キッチンで堂上が忙しく動いている間、特にすることもなく暇を持て余していた郁は牛肉を縛るために堂上が用意したタコ糸を少々失敬して暇つぶしに使っていた。 案外覚えてるものですね、とす、す、すと指を動かしながらはしご、東京タワー、ほうき、ゴムヒモ、とんぼなど形を作っていく。 「取りますか？」と両手を差し出してくる郁に「いや、」と言って堂上は断る。 「俺は俺で使うとする」 そう言ってテーブルの上に転がるタコ糸の玉を手に取りするするすると解いていく。 「長すぎませんか、それ」 綾取りをするにはいささか長い糸を切った堂上がそのままやって来てにやりと笑った。 「え？」と言う間もなく差し出されていた郁の手首にグルグルと糸を巻きつけていく。 「ちょ！何してるんですか！！」 「折角なんで、俺も有効活用してみようと思ってな」 「使い方違う！間違ってます！」 「お前だって綾取りに使ってるじゃないか」 「ちょ、ぎゃ」 さっさと手首を縛り上げてしまった堂上に郁は色気のない叫び声を上げる。が、馴れているのか堂上は一向に気にせず圧し掛かる。 「メインの仕込みは終わったんでな、そろそろデザートの仕込みに入ろうか」 ニタリと笑う堂上に「ぎゃー！」という郁の叫びはあっけなく封じ込められた。 |