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充足感のある気だるさに包まれながら、微睡みの世界を揺蕩っていると、舌っ足らずな声で郁が言葉を漏らす。 「もーすぐ、さんねんだね」 「何がだ?」 柔らかな手付きで髪を撫でられ、郁はふにゃりと顔を綻ばせてゆるりと返す。 「けっこんしてー」 その言葉に堂上はああ、と頷いた。 まだ、と言うべきか、もう、と言うべきか堂上には分からない。郁が毎日隣にいることが当たり前になっていて、一人の生活にはもう戻れそうにない。 「当日は無理だが、休みに美味いもんでも食いに行こうな」 「うん・・・」 生憎と結婚記念日当日は仕事なので、ゆっくりと外食というわけにはいかず、そう言ったのだが何やら返る言葉に覇気がない。そこに文句を持つ妻ではないと思うが。 「どうかしたか?」 「けんたいき、こわいな、って」 「倦怠期?」 「さんねんめ、あぶないんだって・・・」 「あほう。んな心配するな」 コツンと額を合わせれば、郁は「だって」と自信なさげに上目遣いに見てくる。横になり胸に抱けば身長差は関係なくなる。その特別な逆転が堂上には嬉しかったりする。 「少なくとも俺がお前に飽きるってことはないぞ」 「ほんと?」 「嘘言ってどうする」 嬉しそうに笑う郁の顔にキスを降らせれば、郁はさらに目を細めて嬉しそうに笑う。 「だったら、いーなー」 「お前の方こそどうなんだよ」 「あたしは、あつしさんだけだもん」 「そうか」 「そーだよ・・・なんどでもあつしさんにこい、するよ」 「そうだな、俺も・・・生まれ変わったり、記憶がなくなっても、隣にいるのはお前がいいな」 「うまれかわっても?きおくそーしつになっても?」 「ああ」 「へへー。あたしもー」 「だから、変なこと考えていらん心配するな」 「うん」 「それよりちゃんと今度の休み、何食いたいか考えとけよ」 「はーい。おやすみなさい」 ふわりと笑い、すぐに寝息を立て始めた郁に苦笑して、その暖かく柔らかな、世界で一番愛しいぬくもりを抱き直して堂上もまた心地よい眠りに就いた。 ―――出逢えばきっと、何度でもキミに恋をする。 *** *** ***
目が覚めると、隣に上半身裸の男が寝ていました。 「―――え?」 自身の置かれた状況に郁はサァーと血の気が引く音を聞いた気がした。 え?ヤっちゃった?遂にヤらかした、あたし?! 昨晩飲んだ記憶はないが、しかしその記憶があてになるかといえばそうではない。自分が酒を飲んでスコーンと寝落ちするのは周りから散々言われて知っているからだ。そしてその前後の記憶があやふやなのはザラだ。 恐る恐る視線を自分に向け、郁は蒼白になった。 キャミソールにショーツという下着姿だった。 これは、完全に――― 「きゃあああああ!!」 辿りついた結論に、郁はたまらず悲鳴を上げた。その声に男が飛び起きた。 ガチリと目が合い、互いに固まる。 「だ、誰だっ?!」 「それはこっちのセリフ!!」 反射で郁は男から距離を取った。 ジリっと互いに重心を落とす。緊迫した雰囲気が流れる。 郁の目の前にいる男の肉付きはよく、盛り上がった胸筋や割れた腹筋が実践的に鍛えられたものであることを教える。 郁とて、戦闘訓練を受けたプロではあるが―――隙を見せたら、負ける。そう思わせるプレッシャーが男にはあった。相当の手練れだ。 どうする? 無い頭を巡らせていると、先に男が緊張を解いた。 フゥと静かな空間に息が吐き出される。 「―――落ち着け。こっちからは何もしない」 「はあぁ?!」 その言い草にカチンときた。 「人を連れ込んどいて、よく何もしないとか言えたものね!」 「つれ・・・待て、ここはお前の家じゃないのか?」 「え?ここ、あなたの家じゃないの?」 再び二人は顔を見合わせる。 ―――どこよ、ここ?! 目が覚めると、知らない場所に連れて来られていました。 「・・・何、これ。隊長のクマドッキリよりひどい」 「熊?隊長?・・・もしかして、玄田隊長のことか?」 「そう、だけど?あなた、もしかして、図書隊の人?」 「ああ。だが、なんでお前が知っているんだ?」 「なんでって、ウチの隊長だし」 「いや、隊長は有名だからな。 そうじゃなくて、熊ドッキリは口外するなと言い含められているから何故知っているのかと。 誰から聞いたんだ?」 「誰からも何も、入隊時やられたから」 知ってて当然と言う郁に、男は目を見張った。 「お前、特殊部隊、の人間なのか?」 「悪かったわね、見えなくて!」 「俺も―――」 ――――特殊部隊の人間だ。 そう言う男を郁はマジマジと見た。 「嘘っ!あたし、あなたのことなんて知らないわよ?!」 いくら物覚えが悪いとはいえ、配属されてもう何年だ。流石に特殊部隊の面々の顔は覚えている。 けれど、郁の記憶の中に目の前の男の記憶はない。 男の方も訝しげに言葉を発する。 「―――お前、どこの班だ?」 「あたしのところは、小牧教官と、手塚と、」 そこまで言って、郁はハタと止まった。 班長の名前と顔が出てこないのだ。そんなはずは―――。え?どうして? そんな郁に、男は呆然とした声を出した。 「小牧と手塚は、俺の班員だ」 「え?」 呆然と見る郁に男は難しい顔を見せた。 どうやら自分たちは互いに関する記憶をゴッソリと失っているらしい。 それが二人が出した結論だった。 そうなると、途端に郁の中に不安が渦巻く。 その不安定さが、どうしようもない不安を呼ぶ。 二人の記憶を照らし合わせると、男は自分の班の班長らしい。 けれど、それ以外に自分達がどんな関係にあったのかまるで分からない。 どうしよう、と立ち尽くす郁に、男は気まずげに、コホンと空咳をした。 「とりあえず、服、着ないか?」 「へ?」 ポカンとした郁は、ユルリ、と自分の姿を思い出した。 肩や足を剥き出しにした肌着姿で、男の正面に立っていた。 「きゃあああああ!!」 再び、郁の劈くような悲鳴が響いた。 *** *** ***
不思議なことに、寝室のクローゼットの中身は二人のサイズにピッタリの服が仕舞ってあった。 中には自分が持たないようなスカートやワンピースもあり、少しだけ心惹かれながらも、郁はゆったりとしたカーキ色のコットンワンピースにレギンスを拝借した。 男はシャツとスラックスを片手に早々に寝室を出て行った。郁の着替えに配慮してくれたのだろう。 落ち着いた大人の対応だと思った。 ゆっくりと寝室の扉を開け、郁は恐る恐る廊下に出る。見ず知らずの場所に一人でいるのは心細い。おまけに記憶が欠落している状態では余計に、だ。 キョロキョロとあたりを見渡して、幽かな物音のする部屋へと進む。 キィと小さく音を鳴らしながら、木製の扉を押し開けると、そこはリビングのようだった。 二、三人掛けのソファーに、床に敷かれたラグマットの上に置かれたローテーブル。その向こうにはテレビが置いてある。 この部屋の住人はここでどんな時間を過ごしたのだろう。幸せな時間を過ごしたのだろうか。―――きっとそうだ。 何故だかわからないが、郁はそう思った。 ソファーの反対側にはダイニングテーブルがあり、キッチンが広がる。 そのキッチンで男が何やら作業していた。 「あの・・・」 おずおずと声を掛ける郁に、ブルーのシャツを着た男は振り返って「茶、淹れてる」と答えた。 「使うな、とは言われてないからな」 誰の物とも分からない部屋で、案外と豪胆な男らしい。 「温かいもんでも飲めば、少しは落ち着くだろう。 ―――まともに淹れたことないから、味の保証は出来んが」 「ありがとうございます」 郁と男はダイニングテーブルに向かい合って座る。 目の前に差し出されたマグカップからは柔らかな湯気とともに、爽やかな匂いが立ち上る。 その匂いに、郁は覚えがあった。 「カモミールティー?」 「よく分からんが、コーヒーや普通の茶が見当たらんくてな」 「あたしの好きなハーブティーです。 カモミールって、気持ちを落ち着ける効果があるハーブなんですよ」 「そうなのか。偶然だが、それは良かった。 緑茶みたいな色をしてるんだな」 「そうですね。味もすっきりしてるので初めての人でも飲みやすいと思いますよ」 ゆっくりとマグカップを両手で持ち上げ、郁は顔を綻ばせた。 「いい匂い」 ふわり、と溢れる笑みに、男の目が釘付けになる。 そのまま郁は男に向かって、笑った。 「すごく、美味しいです」 「そ、そうか」 男は慌てて視線を落とし、自分もマグカップを持ち上げ、口を付けた。 「―――飲みやすいな」 男の言葉に、郁はどうしてだか嬉しくなって、またふわり、と笑った。 *** *** ***
「初めまして、でいいんですかね」 「とりあえずは、な」 「あたしは、笠原郁、三等図書正です」 「俺は堂上篤、一等図書正だ」 それに、ああ、と郁は頷いた。 「道理で」 「何がだ」 「いえ、初めて見た時、堂上、さん、隙がないなーと思って」 自分よりも2階級上ならばそれも納得だ。年齢もそう高くなさそうなのに、班長も努めていると言うことは優秀な隊員なのだろう。 名前を知ったことで、少しだけ安堵する。 けれど、やっぱり記憶は戻らない。ただ、名前を呼んだ時、わずかな違和感を覚えた。その原因は分からない。 何かが掴めそうなのに、モヤモヤとした感情がもどかしい。 「笠原、さんは、」 そう、名を呼ばれた時、ツキンとした痛みが郁の胸に走った。 「どうした」 「ご、ごめんなさい。なんだか、すごく悲しくなって」 どうしたと言うのだろうか。ただわけもなく、心が叫んだ。 「―――そんな風に呼ばれるのは、イヤ」 言って、ハッとした。 「ごめんなさい!こんなこと、言われても、困ります、よね・・・」 記憶がないのだから、「今」の自分と彼の間には何もないのと同じはずなのに。 どうして、こんなに苦しいのだろう。 立ち上がった堂上がポン、と郁の頭に手を置いた。 その瞬間、カモミールティーよりもずっと温かな感情が駆ける。 懐かしい、と。嬉しい、と思った。 「す、すまん!」 驚いた顔をして、慌てて手を離そうとする堂上の手を郁は慌てて掴んだ。 「や、やめないでくださいっ!あたし、堂上、さんに触られたいです」 「それ、やめろ・・・」 「え?」 「―――お前に、“堂上さん”って、呼ばれるのは・・・つまらん。 理由は、分からんが、とくにかく、それ、やめろ」 不貞たような声に、郁は目を丸くした。 お互いに同じ感情を抱いていたらしい。 納得のいく呼び名を確認していったところ、郁は堂上のことを「篤さん」と呼び、堂上には「郁」と呼ばれることに落ち着いた。その呼び名は、ストンと胸の内に納まった。 少しずつ、パズルのピースが嵌っていくようだ。 「―――篤、さん」 確かめるように名前を呼ぶ。 溢れ落ちる音に郁はまたポロリと涙した。 「なんで、」 忘れてしまったのだろう。 目の前の人が、自分にとって大切な人だと「判った」のに、まだ記憶は戻らない。 ポッカリと空いた穴が一層、強調されるようだ。 「泣くな」 ふわり、と郁の唇に柔らかく暖かなものが触れた。 気がつけば目の前の顔がはっきりとしないほど近くにあった。 キスをされたと郁が理解できたのは、堂上の顔が離れてからだ。 「お前に泣かれると、堪らなくなる」 言うと堂上は再び顔を近づけた。 郁は目を閉じ、それを受け入れた。 “出逢った”ばかりで、名前しか分からない男とのキス。 けれど、そこに不快感はなかった。 「―――好き」 心が、身体が求めるままに、郁と堂上は互いを求めあった。 *** *** ***
目が覚めると、そこには愛しい人の姿があった。 それは当たり前の光景のはずなのに、得難い幸福の様だと郁は思った。 「―――郁」 そっと、節くれだった太い無骨な指が、けれど、郁を誰よりも慈しんでくれる指がそっと目元を拭った。 「おはよう、篤さん」 「なんで、泣いてる?怖い夢でも見たか?」 「そうかも、しれない。 でも、幸せな夢だったかもしれない」 「なんだそれ」 苦笑して、僅かに身体を起こした堂上がそっと郁の身体を引き寄せた。 そっと身体を擦り寄せて、郁は堂上の胸に顔を寄せた。 「―――篤さんが、居た気がするから、やっぱり幸せな夢だったと、思う」 この“温もり”を感じた気がする。 「俺も―――お前が居た気がするな」 「篤さんも、あやふやじゃない」 「―――夢だからな。そんなもんだろ」 「そうだね」 でもね、と郁は堂上の耳に口元を近づけて囁いた。 「またあたしは篤さんに恋した感じがするよ」 |