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「終わりましたねー」 「引越し先が近いと楽だなやっぱり」 「ですね」 紅茶の入ったお揃いのマグカップを両手に持って郁はにこりと笑う。 郁と堂上の夫妻は本日付けで独身寮から官舎へと引っ越して来た。今日から夫婦二人での暮らしが始まるのだ。 柔らかく温かな日差しが入り込む部屋は、優しい光に満ちている。 事務手続きの都合から、入居自体は前任者の転出から三日以降となっているが、手続きをすれば鍵を借り受けて入室することは可能であるので、入居先の部屋が空いてからは時間を見つけては細々としたものは搬入していた。衣服は最低限の物を寮に残して段ボールに詰め、食器などの細々とした物も先に準備しており、引っ越し当日は家具や家電の大物を運び入れるだけで荷物の搬入は終わりだ。 掃除も前任者が転出の際に磨きあげるようにして出ていくこともあり、簡単に拭きあげてしまえばさほど広くない官舎の掃除はすぐに終わる。この辺りは、入隊時に厳しく仕込まれているということもあるのだろう。 そうであったから午前中に荷入れは終わり、その際に出たゴミや埃を掃除して、段ボール詰めにしたものをそれぞれ所定の場所に収めれば夕方には住まいとしてほぼ完成された部屋が出来た。 実際に生活をしていけば不足もまだまだあるのだろうが、それを埋めていく作業も楽しみだ。 「やけに嬉しそうだな」 尋ねる堂上の声も柔らかく溶ける。 「なんか、あたし、ほんとに篤さんと結婚したんだなーって、それでほんとにこれから一緒に生活できるんだなーって思ったら嬉しくもなりますよ」 はにかみ笑う郁の可愛さに―――あんまり初日から飛ばしてくれるな!と堂上は思わず腹に力を込める 。残念ながら明日は公休日ではない。普通に勤務日だ。 夫婦なのだし、今日から一緒に生活するのだし、誰に憚ることのない状況に手を出したい気満々ではあるが、だからといって見境なく手を出していいわけでもない。 これはこれで生殺しだな。―――って初日からがっついてどうする。 誤魔化すように堂上はからかうような視線で郁を見る。 「なんだ、お前今まで独身気分だったのか?」 「ち、違います!」 マグカップを置いて慌てて両手を振る郁。その左薬指には堂上と揃いのプラチナのリングが輝いている。キラリと微かな光を放つその存在に堂上はまた小さく微笑む。郁と夫婦であるという証。それは堂上の胸に温かな感情を宿す。 官舎の入居手続きには婚姻の事実が必要であるため、挙式は日を改めて執り行うことにして、一先ず年明けには入籍を済ませていた二人だ。というのも、新年度の異動時期に合わせて確実に官舎に移る為には、少なくともふた月ほど前に入居希望申請を出さなければならなかったためだ。 夫婦ともに特殊部隊の隊員であり、さらに夫は班長という立場上、優先的に官舎が与えられるだろう堂上夫妻だが、あくまでもそれは官舎に空室がある場合だ。官舎は立地や家賃などの理由から世帯持ちの隊員、特に外部との接触が少ない防衛部においては部内、隊内結婚をする者も多いこともあり入居を希望する者も多く常に満室状態だ。異動のない先住者を追い出して入居、ということは出来ず、官舎の入れ替えは異動時期の4月と10月に限定されていると言っていい。そのため転入者の入居が確定する3月より前に入居申請をする必要があったのだ。 12月に「提案」というプロポーズを受け、そのひと月ほど後に郁の苗字が堂上姓に変わるという、交際開始に至るまでのジレジレ期間を取り返すようなある意味スピード勝負のスピード婚だった。「10月まで待てなかったのかよ」という隊内からの突っ込みに「当たり前でしょう!」と返せるほどに堂上は開き直っていた。 そして一月の中旬、市役所に婚姻届を提出した時から、郁の薬指には婚約指輪ではなく結婚指輪が光っている。それは堂上も同じで、二人とも訓練日以外には揃いの指輪を左薬指にはめている。 慣習的なもので今なお郁は隊内では「笠原」と呼ばれているが、入籍後にすぐに総務に届け出をしているため組織表上も郁が「笠原」から「堂上」郁となって久しい。 公的にも対外的にも郁と堂上が「夫婦」になりもうふた月以上となる。 「指輪とか、苗字も変わって、あたしは篤さんの奥さんになれたんだなーって、その時も思ったんですけど。 今までは寮だったから、これから一緒に暮らすっていうのが、なんかまだ想像っていうか夢みたいな話で、あたし篤さんと結婚したんだよね?って指環見て確認してたりしたんです。 でも、さっき洗面台で手を洗ってる時に、歯ブラシが二つ並んでるの見て、ああ、本当に結婚したんだって。これから一緒の部屋で生活するんだって思ったら、なんかそれがすごく嬉しくて」 「―――あんま可愛いこと言うな、あほう」 「アホってなんですか、アホって!」 ―――なんでそこに食いつくか。 堂上は思わず苦笑する。 「愛情表現だ」 「そんな捻れた愛情よりストレートな愛情を下さい!」 ―――いいのか?俺がストレートな愛情ぶつけたら困るのはお前の方だぞ。 とは思っても言えない堂上だ。言うのは構わないが、そこで「受けて立ちます!」などと気概たっぷりに応えられたら折角の自制が台無しだ。 腕を伸ばしてくしゃりと郁の頭を撫でる。 「―――これからよろしく、奥さん」 そう言って微笑む堂上に郁は一瞬にして頬を染めて、「よ、よろしくお願い、します……」とモゴモゴと返す。 その様がまた可愛くて愛しくて堂上の顔にまた深い笑みが刻まれる。 *** *** ***
「そろそろ飯、考えんとな。まあ連チャンにはなるが出前か、外食だな」 昨日は引っ越し前祝いとして堂上班をメインにした特殊部隊での食事会だったのだ。 「そ、そうですね」 堂上の言葉に郁はシュンとした顔を返す。 「どうした?」 「ごめんなさい。ご飯、作れなくて」 「ばか」 苦笑して、堂上は郁の額に軽いデコピンを食らわせる。 「それはお互い様だ」 「でも」 「俺達は共働きなんだから、お前ばかりに家事をさせるつもりはないと言っただろ。 それに今日はどちらにせよ、材料もないから無理だろうが。 お前、寮にいる間に家庭部で花嫁修行してたんだろ。明日以降楽しみにしてるからな」 「いや、でも、まだ、人様に出せるほどの、ものじゃない、し」 「柴崎やらには食わせたんだろ」 「まあ、先生だし」 「―――他人の柴崎がお前の手料理食えるのに、夫の俺が食えんとかありえんだろ」 「はい?」 ポツリ、と口の中で零した堂上の呟きは幸いにしてと言うべきか郁には聞こえなかったようで、「何ですか」と首を傾げる郁に「―――なんでもないっ」と堂上は無理矢理に打ち切る。 ―――羨ましかった。だなんて、そんな。 言えるか! 都合のつく限り、郁は寮内サークルの家庭部に顔を出し、柴崎や家庭部の面々による料理教室を受けていた。 今日は何を作ったのだという郁からの報告もあったが、何より堂上を悔しがらせたのは柴崎からの、まるで惚気と言わんばかりの感想メールだ。 その味を柴崎はけしてベタ褒めするわけではない。今日の煮物は醤油辛かっただの、火の通りがバラバラだの、けなすところはしっかりけなす。 しかしそんなことは堂上にしてみればどうでもいい。 一生懸命作る郁の姿が何よりのご馳走だからだ。それが生ではなく写メでしか見れないとか何なのだ。 しかもけなすだけけなしておいて、シュンとしょげた顔をするは存分に慰めておきましたのでご心配なく。しょぼくれる笠原も可愛いですよね、とか。 キッチンに立つ笠原は今日の笠原も可愛い新米奥さんでしたよ、なんて言う文もご丁寧に添えられており、言われずとも分かってるわ!!と何度歯噛みしたことか。 「―――初日だから、篤さんとウチご飯したかったな」 ポツリとした言葉は、本人はあくまでも内心で呟いた言葉だろう。 そんな郁が可愛くて「せっかくだから作るか?」と堂上は思わず漏らす。 「え?」 「簡単なもの―――焼肉、は、初日から匂いが付くのもあれだしな、……お好み焼きくらいならいけるか。ソースは皿に取った後にかければ匂いが充満することもないだろうし。少し多めに作れば明日の朝にも回せるしな」 「え?ほんとに作るんですか?!」 「嫌なのか?」 堂上の問いに郁はブンブンと首を振る。 「あの、でも、お好み焼き、作ったことないですよ、あたし」 「別に難しいことはないぞ。粉はミックス粉買えばいいし、あとは卵とキャベツに、豚肉、シーフードくらいか」 「篤さん作ったことあるんですか?」 「ああ。親父が関西出身だからな。家では結構焼いてた」 思わず、郁がむくれる。そして零れる「…女子力」という呟き。その呟きを拾った堂上が吹き出す。 「お好み焼きに女子力もなんもないだろう」 「そうかも、しれないけどぉ」 どうせならあたしが作ってあげたかったのに、とぶつくさ言う郁に「初めてだからこその共同作業だろ」と笑って言えば、ボンとその顔が染まる。まったく一つ一つの反応が可愛すぎて対処に困る。 堂上は一つコホンと小さく空咳をし、手を差し出す。 「ほら、買い物行くなら早く行くぞ」 差し出された手に、郁は顔を染めたまま手を重ね、コクンと頷く。 そのいつまでも経っても初心な反応を返す郁が堂上は可愛らしくて仕方がない。 *** *** ***
手を繋いで最寄りのスーパーへ行く。 手を繋ぐ。それは自然と身に付いた習慣だ。いつから、ということはない。 腕を組んだり肩や腰を抱いたりしながら歩くというのは、どうしてだか羞恥が走るらしく堂上はしないし、郁もそれを寂しいとは思わない。 ただ、歩く時は手を繋ぐ。それが二人にとっては当たり前の姿となっている。 繋いだ手が二人の間でゆらゆらと揺れる。 くだらない言葉を交わしながら、ゆっくりと歩いていく。 手を繋いでいたら、離れる事は無い。 だからなのかな、と郁は思う。 ようやく、並ぶことができた。勿論、仕事面ではまだまだだけれど。プライヴェートではこうして隣に並べるようになった。寄りかかるわけではなく、お互いに自分の足で立って。 後ろ姿を見るのも好きだけど、遠ざかるのを見るのは好きじゃない。 どうせなら、いや、どうしても、一緒の風景が見たいと思った。 横を見れば大好きな人が居て。 繋がっている手は幸せで。 一緒に見る風景は、何ものにも変えがたいぐらいに美しい。 きゅっと指先の力が強まったのを感じ、堂上が郁を見た。 「どうした?」 「なんでもないです。ただ、綺麗だなって」 薄桃色の桜が咲き乱れる並木道。ザっと吹く風に、薄桃のカーテンが目の前に広がる。桜も盛りを過ぎて少しの風にも花びらを散らすようになった。空や風まで淡い桜色に染まったような光景は確かに美しい。 そうだな、と頷き返す堂上に、郁は笑って頷き返す。そこで、「お前の方が」とか「隣にお前がいるから」なんて言葉が出ないところも堂上らしい。 「こうやって、ずっと同じ光景が見られたらいいですね」 「ああ、そうだな」 繋いだ手を緩く持ち上げて微笑み合う。 「あたし、こうやって篤さんと手を繋いで歩くの好きです」 「―――いきなり、どうした」 「ふと、そう思ったんです。こうやって手を繋いでたら、離れる事は無いんだなって」 「―――まぁ、そうしてるしな」 繋ぎとめたい。だから、手を繋ぐ。ああ、確かに、と堂上は思う。そうしたいと自分から思ったのは郁が初めてかもしれない。 今まで隣にいることを許した女は何人かいたけれど。こんな風に手を繋ぐことはなかったように思う。そこにある腕に恋人であった女が勝手に腕を絡めて来たり、そうやって隣にいた気がする。 自分からその恋人の手を取ったことは。 求められるだけではなく、求めたいと思ったのは、郁だけだ。 手を繋ぐという行為は、お互いに「好き」だという明確な意思表示の表れかもしれない。単純に手を取る、握るとういうのは、一方の意思だけで成り立つけれど、相手が握ってきた手を、握り返す。それはつまり、「自分の意思」だ。強く握り返さなくても、たとえ少しの力で握り返したとしても。そこから伝わるのは好意だ。 繋いだ手から、紡がれるのは「好き」だという気持ち。 それを口に出すことは苦手だから、こうして手を繋ぐことでその気持ちを伝えようとしているのかもしれない。 なんとなく堂上はそう思った。 強く握り返された指に、郁は嬉しそうに笑う。 この光景を幸せと呼ばずなんと呼ぼう。 ただ道を歩く。けれどそれが二人であればそれだけで幸せな贅沢なひと時だと思う。 ありふれた日々を特別な日々に感じることが出来る。 そうした存在に出逢い、そして求め求められること以上に幸せなことはないだろう。 *** *** ***
「キャベツは重いのがよくて、レタスは軽いのがいいんですってー」 赴いたスーパーの青果コーナーで、キャベツを手にしながらニコニコと仕入れた知識を披露する郁を、堂上はウンウンとにこやかに頷いて相槌を打つ。募る感情はただ愛おしいという気持ちばかりだ。今ではもうその感情に蓋をしていたことすら信じられない。 「えっと、次はお肉とシーフード?」 「あ、ちょっと待て。山芋も入れてたな、そういや。………すりおろし器、買ってたか?」 「買ってない、と思う。篤さんに買った記憶なかったら、多分ないですよ」 「あー、じゃあそれも買わないとな」 「ていうか、調理用品あんまり確認しないまま来ちゃいましたね」 思わず、堂上と郁は顔を見合わせる。 「包丁、は流石にあるな」 「うん。それは間違いなくある。家庭部のみんなからセットの貰ったし、シンクの扉のとこに収納したから」 「ボウルはシンクの上の棚にステンレスのがあったはずだな。ま、これはなくても丼で代用できるか」 「あと、お玉もありますよ。味噌汁作るのに必要だからってこの前ちゃんとカゴにいれたもん。えっと、シンク上の棚に掛けた、はず」 「コテ、はフライ返しで代用できるな。フライ返しはあるな」 「うん。卵焼き作る時使うから」 とりあえず、お好み焼きを作るのに最低限必要な物を確認する。 「―――それだけあれば問題ないよな」 「―――と、思うけど……あ、粉って計りますよね。計り買ったっけ……」 「いや、ウチは計りは使ってなかったな。確かカップに掬って作ってた」 「あ、じゃあ計量カップ!計量カップなら大丈夫」 「―――しかし、この調子だと結構漏れがあるな」 「ですね。家に帰ったら一回この辺りも整理しないとですね」 「だな。今まで気にしてなかったから、気づかなかったな」 鍋やフライパン、ヤカンなどの分かりやすいものはすぐに揃えたが、細々とした調理器具はまだ自炊の経験が浅いこともあり、思い至らないものも多い。実際に作るところを考えて、思い至るものが案外とある。 「しばらくは細々とした買い物が続きそうだな」 「ですね。でもこうやって篤さんといろんなもの揃えていくの好きですよ?一緒に生活してるんだって実感湧くし」 ―――だから、なんでそういうことをサラリと言うかな、こいつは。 にこりとサラリと言う郁は、当然に計算などではなく、思ったことを思ったままに言っているだけだ。そしてそんな郁に突き上げられるようにして感情が揺さ振られるのはいつだって自分だと堂上は内心で苦笑する。 そんな風に思っていることを口に出せる自分ではなく、どうしたって照れも入り、結局からかうような物言いになる。けれどそんな堂上を郁は受け入れ、そういうところも好きだと笑う。そんな郁を思うにつれて、だから俺はこいつには勝てないだよな、と悔しいような、それでいて嬉しいようなそんな気持ちになるのだ。 ―――「篤さんばっかりずるい」と言うが、お前も大概ズルイぞ。 無意識でやっているからこそ、自分の方が優位だと郁に思わせることも出来ているが、もし郁が自覚したのなら白幡を降りまくるしかないと自覚している堂上だ。 もっとも堂上の妻はそうした計算めいたところが出来ない、今時珍しい単純で素直な娘だ。そしてそこもまた堂上が郁を愛おしいと思う部分だ。 郁の全てが愛おしいと思う。それを素直に口に出すことはなかなか出来はしないけれど。 キョトンとした顔を郁が向ける。 「篤さん?どうかしました?」 「何がだ?」 「いや、なんか楽しそう?嬉しそう?な顔してるから」 「―――そりゃ、お前とこういう時間が当たり前になるんだからな。楽しくて嬉しいのは当然だろうが」 堂上の言葉に郁は一瞬絶句し、ブツブツとぼやく。 ―――だから、なんでそういうことサラリと言うかな。 ―――それはこっちの台詞だ、とは勿論堂上の弁だ。 「とりあえず今日は必要最低限なものだけ買って帰るぞ。ここで悩んでても仕方ないしな」 「はい」 今までは別々の部屋へと帰っていた。けれど、今日からは帰る先は同じ家だ。 その事実に、郁と堂上は顔を見合わせて微笑み合う。 キュッとどちらともなく繋いだ手に力が入る。 お好み焼きの材料と、最悪米さえあれば何日かはもつだろうと、米とふりかけもカゴに入れる。 精算を済ませ、堂上がさっさと米を担ぐと郁が慌てる。 「ちょっ、篤さん!あたしも持ちますって!これに入れて片方ずつ持ちましょうよ」 郁が持ってきたのは、重いものでも大丈夫、容量も大きいという機能性重視のトートバッグだ。今日買った分くらいならば全部入るだろう。 けれど堂上は何言ってんだと呆れ顔を返す。 「そんなことしたら手が繋げないだろうが」 そんな堂上の言葉に反論する言葉を持たない郁は押し黙り、大人しく残りの品を詰めたトートバックを肩に掛けた。 片腕に米を担ぐ堂上と、片肩にトートバッグを掛ける郁は帰りも同じよう手を繋いで帰る。 「ただいまー」 「おかえり」 返る言葉に郁は笑って、堂上を見る。 「篤さんも、おかえりなさい」 「ああ、ただいま」 顔を見合わせてクスクスと笑い合う。 この「日常」が今はまだくすぐったい。 いずれこれが当たり前の光景へとなっていくのだろうか。 そうして「夫婦」になっていくのだろうか。 そうなればいいと思う。 *** *** ***
「―――夕飯の準備するか」 「ですね」 リビングに移動して買ってきたものを簡単に仕分ける。 戸棚からホットプレートの箱を取りだす。まだ新品のそれはビニールに包まれている。何もかも真新しい生活だ。 ビニールを外して取り出したプレートを軽く水拭きして、キッチンペーパーで水気を取った後、コードを繋ぐ。 「キャベツを粗みじん切りにしてくれるか。その間山芋すってるから」 「はーい」 水洗いしたキャベツに郁はザックリと包丁を入れる。 「大きさってこれくらいでいいですか?」 「ああ。 本当は1時間ほど冷蔵庫で水分を飛ばした方がいいんだけどな、今日は時間もないしそのままでいいな」 「そうなんですね。知らなかった」 「水っぽくなるからな。 生地もなー、3時間ほど冷蔵庫で寝かせるんだが、それも次だな」 もう少し早く気付けばよかったなとぼやく堂上の姿に郁は小さく目を瞠る。 ―――細かい性質だとは思ってたけど・・・篤さんって結構凝り性? 結構どころか、かなりの凝り性であることを郁が知るのはもう少し先の話だ。 恋人時代には見えなかった部分が少しずつ見えてきて、郁はクスリと笑う。 「どうした?」 「ううん。何でもないです」 クスクスと笑いながら、郁は包丁を動かす。 「頼むから、ちゃんと手元見てろよ。キャベツ切ってて指切るとか流石にやめろよ」 「しません!」 もー!と言いながらキャベツに向かい合う郁に堂上はクスリと笑う。 「―――いいな、こういうの」 噛締めるように呟いた堂上の言葉は、ザクザクとキャベツを切る郁には聞こえなかったようだ。 「よし。こんなものかな」 「粉の準備してくれるか」 「はいはーい」 郁はお好み焼き粉の袋を手に取り、裏面の分量を確認しながら計量カップに粉を量りボウルに移していく。 「2人分、だと少ない、ですよね」 「そうだな。とりあえず倍の量でいいんじゃないか」 「りょーかいです」 人並み以上に食べる戦闘職種の夫婦だ。それぐらいあっても大丈夫だろう。 計量したお好み焼粉に水を加え、粉のダマがなくなるまで丁寧に泡立て器で混ぜ合わせたところに、堂上が擦り下ろした山芋を加える。ひとまず生地はこれで完成だ。堂上曰くここで生地寝かせるとふっくらとした仕上がりになるらしく、それは次回のお楽しみだなと笑った。 他の具材を用意している間に、ホットプレートを熱して油を馴染ませる。 丼に生地をお玉一杯分掬い入れ、たっぷりの粗みじん切りしたキャベツとシーフードミックスに割り入れた卵をザックリと空気を含ませるようにして混ぜ合わせる。キャベツと生地を混ぜて置いておくとキャベツから水分が出て水っぽくなるので、焼くときに一枚分ずつ混ぜ合わせる方がいいのだと堂上は言う。行程の一つ一つを説明する堂上に郁はふんふん、と頷く。業務中に見せる厳つい表情とは違い、プライヴェートの堂上の顔はどこまでも優しい。それが自分にだけ向けられる顔だと知って、面映ゆく気恥ずかしくもあるが、純粋に嬉しいと郁は思う。 自然と零れてしまう笑みを隠す事無くそのまま堂上へ向けると、堂上も柔らかく目を細めて「どうした」とふわりと小さく笑い問いかける。それにまた郁は笑う。 「んーん。ただ、幸せだなぁって」 自分に向けられる視線、言葉、笑顔に、「幸せ」を感じずにはいられないのだ。 言えば「バカ」と小さく頭を小突かれる。それさえも温かくて仕方がないと郁は笑う。 そんな郁を見て堂上には色々と思うところはあるけれど、全ては腹を満たしてからだと肚裡で溜息を吐く。ここで手を出してしまえば空腹に拗ねる郁の姿が目に見える。明日は業務日だが、摘まみ食いなら許されるはずだ。むしろここで摘まんでおかないとおそらくどっかで、予期せぬとこで爆発する気がする。郁に対して我慢が効かないのは既に自覚のある堂上だ。 一日の終わりに妻を求めるのは別段おかしなことじゃないはずだ。許されるはずだ、と堂上はそっと頷く。 ジュ、と熱されたプレートの上に生地を落としフライ返しを使い丸く成形を始めた堂上の姿に、「あたしもやる!」と郁も空いた丼に生地を混ぜ合わせて、プレートの上に広げる。堂上からフライ返しを受け取り、土手を形成するように、流れる生地を掬いあげるようにして何度もグルグルと縁を整えていけば厚みのある綺麗な円が出来あがった。 「上手いじゃないか」 褒められ、郁へエヘヘーと自慢げに笑う。案外、と言うのは失礼な話かもしれないが、工作的な手の器用さは持っている郁だ。見せる表情は妙齢の女性のそれではないが、そんなあどけない少女の様な顔すら愛おしいと思うのだから世話ないよな、と堂上は思う。 「火傷すんなよ」 「もー子供扱いしないで!」 ぷっくりと膨れる頬に堂上はまた笑った。 「ほら、肉乗せるぞ肉」 「誤魔化さないで!」 「なんだ、お前肉いらんのか?」 「いる!いるからっ!!」 ヒョイ、と目の前の豚バラのパックを取り上げられて郁は慌てて手を伸ばす。 そんな風にじゃれあいながら夕飯を作る。 出逢った頃には、再会した頃には想像さえできなかった未来だ。 フライ返しと菜箸を使って返されたお好み焼きは綺麗なきつね色をしている。ジュっと脂が溶ける音がして香ばしい匂いが漂う。 「おいしそ〜」 ふにゃり、と顔を溶けさせた郁の名を堂上が呼ぶ。 なに?と笑顔のまま振り返った郁の唇が堂上のものに掠め取られる。 「飯食ったら寝室でいいですかね、奥さん」 「―――ふへっ?!」 「引っ越し初夜だしな」 などと、男前な声で言うものだから、郁の頬は熱を持って仕方がない。 あまりにも熱いので、このままずっと熱いままなんじゃないかという気さえしてくる。 それでも、夫となった人の言動から目が離せないのだから困ったものだ。 「―――これが惚れた弱みってやつなのかな…?」 「ん?何か言ったか?」 「う、ううん、何でもない。 あ、もう焼けたんじゃない?!ほ、ほら!わーおいしそー!!」 慌ててプレートに目を向ける郁を追う堂上の視線は甘く優しい。 ―――お前が思ってないことを俺も思ってないと思うな、バカ。 そんな堂上の言葉は耳まで真っ赤にした郁には勿論聞こえていない。 ―――何にしても。 側にいられる。 それさえあれば、この日々は幸せに彩られた毎日だろう―――。 |