秋の日は釣瓶落としとはよく言ったものだよな〜。
茜に暮れる空を軽く見上げて郁はそっと思う。
まだ昼間は夏の気温の名残を見せるが、日暮れは随分と秋めき、西日が一気に沈み、あっという間に日没となる。
秋になると太陽の位置が低くなるので、それだけ長い空の気層を横切ることとなり、そのため日射が弱くなり早く暮れるように感じるのだ。
そのうえ家屋の立並んでいる都会の街路などでは夕日がさえぎられるので一層釣瓶落しに暗くなる。
空に薄い光があらわれている薄明りの中秋の夕暮に見える景色はどこかものさびしく思える。




10月に入って4日目が暮れる頃。
郁は足早に帰路につき、見上げる部屋の窓から洩れる灯りを見るにつけて何度も嬉しくなる。
そしてその風景が嬉しいのだと、夫である堂上も言っていた。
誰かが待っている部屋に帰るというのが嬉しい。その待っている人が自分の最愛の人ならなおさら。
そうして、こうやってこの道を帰る日はもう珍しくもない。
愛おしさがなくなったわけではない。変に気負うこともない愛おしき日常に溶け込んだ風景になった。








「ただいまぁ〜」



明るく響く声に、キッチンツールを洗っていた堂上は顔を上げた。
つい先ほどまで平板な午後の色が広がっていたはずが、今や部屋の中の茜の気配はずっと濃くなり、たいして多くもない洗いものに没頭していたわずかばかりのまに窓の外には午後と夜の明確な区切り線ができていた。



秋の日は釣瓶落としとはよく言ったものだ。



「おかえり」
「もうこの時期だと陽が落ちるのも早いねぇ〜。ほんと秋の日は釣瓶落としって言葉まんまだねぇ」
そんなことを言って帰ってきた妻の姿に堂上は思わず噴き出す。
「え?ちょっ!人の顔見るなりいきなり失礼!なによ!」
「いや、すまん。俺もそうちょうど思ってたところにお前が口にだすもんだから。被ったのが可笑しくて」
「あ、そうなの?」
夫婦ってそういうのも似るのかな?
「篤さんと同じこと思ってたんなら嬉しい」
と拗ね掛けていた顔が可愛らしく綻ぶ。




「ねぇねぇ。今日のご飯何?」
いー匂い、と鼻をクンと鳴らした郁がキッチンのオーブンへと視線を動かす。
結婚してしばらくして、メキメキと料理の腕を上げた夫に軽い嫉妬を覚えたこともあったが、今では堂上の凝った料理を日常的に食べられるのも妻の特権だと開き直れるようになった。
オーヴンからこぼれている匂いは香ばしく食欲をそそる香りだ。
キラキラとした瞳を向ける郁に堂上が柔らかく笑って答える。
「鰯のガレットだ」
「ガレット?」
またオシャレなの出てきたよ、と思いながら郁は首を傾げる。
「ガレットって、あれだよね蕎麦粉のクレープ」
カフェなどでは郁も注文することのあるメニューだ。思い浮かべて、あれ?と不思議そうな顔をする。
「イワシを巻くの?」
僅かに眉を寄せる郁に、そっちじゃないと堂上が苦笑して訂正する。
「厚焼きクッキーの「ガレット」に見立てて成型した鰯の重ね焼きだ」
「あ、そっちか。びっくりした。なんかガレットってクレープの方がイメージ強くって。
 イワシをクレープで巻くってどうよ、ってちょっと思っちゃった。
 ―――てか、篤さんホント料理詳しくなったよね〜」
「そうか?」
「そーだよ。前はペンネとマカロニの違いも分かんなかったのにー」
クスクスと可笑しそうに笑う郁に、良く覚えてたな、と堂上は苦笑する。
その日の事を懐かしいな、と思えるほどの年月が経った。それでもその日々が色褪せることはない。





「ほら、もうすぐ焼き上がるから早く着替えてこい」
「うん」




郁がラフな部屋着に着替えて戻ってくるのと合わせるようにオーヴンのタイマーが鳴った。
「出すね〜」
スープ鍋の前に立っていた堂上に代わりにオーヴンミトンを嵌めた郁がオーヴンの扉を開ける。
「わっ!いいにお〜い!!スゴイ!!おいしそう!!」
扉を開けた向こう側ではココットの中で香草パン粉をまぶされた鰯がこんがりと綺麗なきつね色に焼き上がっている。香ばしくふんわり焼き上がった鰯とハーブの香りが素晴らしい。
「なんでまたこんな凝った料理を」
「別に大したもんじゃないぞ。たまたまカタクチが安かったからな、作ってみただけだ」
「なんでこんなオシャレメニューを前にそんな節約主婦みたいな」
あーもー、ホント職場とのギャップっと郁は笑みを零す。
「別にそう難しくないぞ。香草パン粉作ってバター塗ったココットに詰め込むだけだからな。簡単なもんだぞ」
それでもスゴイスゴイと手放しで褒める郁に悪い気はしない。
勿論、だからと言って手抜きをしたわけでもない。
手作りの香草パン粉だって少しの手間を掛けている。
市販のパン粉ではなくフランスパンを削って作ったものだ。
普通の食パンから作られるパン粉と違ってフランスパンは塩分が強く、しかも焦げてる皮もパン粉に入っているため、焦げの香りと塩気のあるパン粉ができて、白いパン粉よりもコクが出るのだ。
そこにバジル、ローズマリー、タイム等の自家菜園してるフレッシュハーブ、にんにくアッシェに塩、粉チーズ、ヴァージンオリーヴオイルを入れてしまえば香草パン粉は出来あがる。
頭を落としてはらわたと骨を取り除いた鰯の開きに軽く塩を振って、香草パン粉をどっさりまぶしてたっぷりのバターを塗ったココットにぎゅうぎゅうと詰め込むだけだ。後は表面に軽くヴァージンオリーヴオイルを振り、200度程に熱したオーブンで15分ほど焼けば完成だ。
な、簡単だろと堂上が行程を説明すれば、郁は苦笑を返した。
「そんだけ凝れば十分だよ。
 ね、これはそのまま?」
「いや、中身出してくれ。見た目が変だろ」
「はいはい」
こういうとこホント凝り性と、郁は内心で苦笑しながら、取りだしたココットを鍋敷の上に置き、堂上が食器棚から取りだした白い平皿を取り受け取った。
右手のミトンを外して楊枝を持ってココットの壁伝いにゆっくりと刺していく。イワシの壁を壊さないように、ゆっくり落ち着いて円を描く。
よし、と満足げに笑んだ郁はココットを持ち上げて、白い平皿のちょうど真ん中へ裏返して置く。
「あっけま〜す」
子供の様に宣言してえい、と郁はココットを引き上げた。湯気の中から平皿の上に申し分ないガレットが登場する。
「うわぁ〜すごい!イワシのプリンだ!!」
果たしてその表現は美味しそうなのか?と堂上は苦笑する。お前鰯のクレープには変な顔したじゃないか。そう思うが、郁が嬉しそうならそれが一番何よりだ、と苦笑もすぐに柔らかな笑みへと変わる。



「あ、天使の輪が出来てる!」
「天使の輪?」
なんだ、と覗きこむ堂上にココと郁が振り返りながら指さして笑う。
「ほら、ここバターの油分がぐるっと」
「ああ。成程」
ココットにはたっぷりのバターを塗っていたからだろう。溶けたバターの油分がガレットの表面に光る輪を描いていた。
それを見て「天使の輪」と表現するとは。相変わらず発想が乙女の嫁だと堂上は笑む。ほんと、いちいち可愛くて困る、とも苦笑する。




「あ、そういえば今日は天使の日だね。10月4日」
「―――鰯の日でもあるな」
「へー。そうなんだ。それは初耳。あ、もしかして、それで今日のメニューに鰯狙ってた?」
「いや。偶然だ。まぁもしかしたらそれで鰯が安かったのかもしれんがな」
すごい偶然だね、と郁が笑い、そうだな、と堂上も笑う。



でも、と郁が悪戯気にくすりと笑う。





「あたし達が出会ったのは、偶然じゃなくて運命、だよね?」
「そうだな」




サラリと同意する夫に郁はまた笑う。
数年前なら、照れて変な顔をしただろう。
それ以前に、郁だってそんなこと軽口に乗せることもできなかった。
その日を覚えているか、なんてお互いに明確に口にしたことはない。
そもそもその日は郁が「王子様」に会った日であり、その「王子様」は堂上にとっては恥ずかしさを呼び起こす象徴だった。
そうしたことを知っているから、付き合い始めた当初は、お互いに気まずい思いがする気がして、そうした話題は避けていたところがある。





だからと言って、お互いにその日を忘れたことはなかった。
そのことをいつの間にか二人とも知っていた。とても自然に。




10月4日という日は郁と堂上にとって「特別」な日であるのに違いはない。
だけど、だからといって特別に何かを用意するわけではない。
特別な日だからと気張らなくても当たり前のように一緒にいられる。
それこそが何よりも特別に大事なことだと思えるようになった。




二人の間に流れていくのはそのどれもが愛しき歳月だ。
けれど人の一生は、ひとつひとつの歳月の積み重ねであり、その歳月は、やはり日々の積み重ねなのだ。
そしてそれは決して、過去のみにあるものではなく、未来にも、きっとあるはずなのだ。
昨日までが愛しき歳月ならば、今日も、そして明日も、やはり愛しき歳月になることができるはず。
それを信じて生きていく日々は、やはりその全てが愛しき日々なのだと郁は、そして堂上は思う。
そんな日々で出来た『日常』が愛おしい。






「メインも出来たし飯にするか」
「うんそうだね。ご飯よそうね」
「ああ、頼む」




そして「今日」も、普段と変わらず2人で寄り添って過ごす夜が「当たり前」に過ぎて行くのだ。






















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