「篤さん、あたしね、昨日とても哀しい話を読んだんです…」
郁の話は唐突だ。普段は取り乱したりしない限り脈略のない話をするヤツではないのに。呆れるくらいに誠実な俺の妻だ。
「お涙頂戴モノってやつか?」
「そう…ですね、そういわれると身も蓋もないんですけど、まあ」
後ろから郁を抱きすくめる体勢で、俺は尋ねた。郁の生白い首筋に息でも吹きかけてやろうかと企んだが、やめた。
二日ぶりに抱きすくめた郁がどことなく暗かったのはそのせいか、何だよ俺との時間にんなこと考えやがって。
哀しいお話とやらも、俺にとってはただの恨み言を連ねる対象にしかすぎない。
だが
「話してみろよ」
そう言わないことにはこのままの状態が続くと見えて俺は郁を促した。
せっかく今はベッドに腰掛けてるんだから、ちょっと力込めればすぐにでも押し倒せるってのに郁が気乗りしないんじゃ仕方ない。無理やりヤったら機嫌を損ねられるから。あれには参った。金輪際しねぇと思った。
「小説です…不治の病にかかった女性と、女性を看病している恋人の男の人の話です」
ああ、ありがちじゃねぇか。そのまま女がおっちぬか、奇跡的に回復するとか、そんな話だろ?
だが不安そうに話す郁を、独りにしねぇように腕に力は込めた。折れそうな身体を折らないくらいの力の込め方は経験で知った。郁を知っていく過程で。
「どんどん弱っていく女性はそれでも気丈に振舞います、本当に、病気にかかる前は明るくて誰も止められないような嵐のような人だったから、前と変わらぬ姿を男性に見せていようと。頑張って、でもどんどん発作は酷く、間隔は狭くなって――。死ぬ恐怖が彼女に迫りました。」
「―――そんで?」
そこで一呼吸置いたから、俺は郁をさらに促した。
言いづらいんだろうか。コイツは人の生き死には敏感だからな。
言いにくいなら別にいいぞと言えば、郁はそっと首を振った。
「けれどある日を境に見る見るうちに体調がよくなるんです。男性に気持ちを吐露して、何もかも吐き出して、それでもお互いに大好きだと確認した日から」
「……奇跡が起きたってパターンか?・・・にしちゃ、お前の表情は明るくねぇな。奇跡が起きたのは僅か数日で、ってオチか」
「違うんです。違わないんですけど――、違うんです。女性は病気ではなくなりました、けれど、それは男性が自らの意思で自分がその病を負うように、したから。女性の代わりに男性が不治の病を負ったんです。彼女を愛してたから、この世界に生きていて欲しいって」
郁が泣いている気がして背中を向けていた郁を無理やり俺に向かせた。
瞳が潤んでることに気づいた俺は慰めるようにありったけ口付けをした。
触れるだけだったが、何度も何度も。郁も抵抗しなかった。
そして考えた、哀しい話のことを。
死ぬと思っていた女と、結局女のために死んだ男。だからどうだっていうんだ。
「……読み終わったら、ぼろぼろ泣いてて、それで篤さんを想いました。
篤さんが…この男性のしたようなことをしたら、あたしはイヤです。独りで生きたくない、篤さんのいない世界はイヤ。あたしのために死ぬなんてそんなのオカシイ」
郁をひざの上に乗っけたまま、頬に伝わる涙を舐めながら聞いた。
俺もそう思う。
郁がいない世界でどうやって生きていけって言うんだ。酸素のない世界に放り出されて生きていける人間がいるか?それと同じだ。
「―――でも、篤さんが不治の病にかかって、それがあたしの命で助かるなら。
―――そう…すると思った。だって篤さんには死んで欲しくない」
「…我が儘じゃねぇかそれ」
自分勝手か?気持ちは分かるが。分かるが…
「お前を殺した命で俺が生きて、俺が納得すると思うか?後を追っかけると思うぞ?」
しかも、出来るだけ苦しむ方法でな。
「でも篤さんには生きていて欲しいんです、あたしを忘れて」
「………我が儘」
「そう、ですか?至極フツウな意見だと思うけど」
「…そうか?まあ俺たちがくっついてる時点でフツウは通用しないんじゃないか?」
からかうように笑えば郁はふくれっつらを見せてくれた。
そんな顔も可愛いんだけど、んなこと言ったらさらに膨れられる。
「それは冗談だが、郁は死なねぇ、俺も死なねぇ、それでいいんじゃねぇか、今は」
少なくとも今は。
こんまま郁を抱きたいんだが。
「………そう、ですね、うん・・・」
難しい事考えててもよく分からないし、と郁は笑った。
そうだ、そんなこと分かりはしない。
俺たちが後何年、何十年先もこうしてるかどうかも分からない。こうしていたいと思うが、こればかりは自分達ではどうにもならない世界に俺たちはいる。
「じゃあ郁、俺からも一つ」
「あ…ハイ、何ですか?」
「…生きてるって実感させろ」
俺は、郁の顔を傾けさせて、え?と言おうとした郁の開いた唇から舌を入れて、そのままベッドに押し倒した。