郁が原価700円のケーキを堂上に贈ってから一ヶ月。つまり、ホワイトデーである本日、堂上は以前の休日出勤分の振替で午後から休みとなっている。
そのシフトを見た時「なにそれズルイ」と郁は一瞬思ったが、言ったところで「勤務体制上たまたまだ」と言われたらそれ以上追及する材料もないので大人しく口をつぐんだ。本日の堂上班はローテーション的に館内業務応援でも巡回業務でなく予備要員的な事務室待機となっているので、確かに休みを持ってくるのに都合がいい日ではある。それにもしそのままズバリ聞いて「ホワイトデーだからに決まってるだろ」なんて答えられたら、それはそれで郁が小っ恥ずかしくなるだけだ。
うんうん。余計なことは口にしない!と、郁は目の前の書類にペンを走らせる。
ああ見えて、プライベートの堂上は「恥ずかしがってる郁が可愛いから」とかなんとか言って、平気で恥ずかしいことを言ってのけるのだから、迂闊な言動は避けるが吉だ。流石に結婚二年目となると、夫の性格はだいぶ掴めてくる。だからと言って回避率が高くないところが郁らしいところであるが。
もっとも夫である堂上が「向こうから無自覚に爆撃されているのだから、こっちが意図的に仕掛けないと割に合わない」と思っているのだから、仕方がないといえば仕方がない。直感型かつ素直すぎる上に機微に疎い郁がそうした動きに対応するのが難しいことが分かった上での堂上の行動だ。その後予想の斜め上を走られたり、柴崎の入れ知恵なんかで思わぬ反撃を受けたりするものの、「ベタでわかりやすい郁の反撃がまた可愛い」と思っている堂上が攻撃の手を緩める予定は今のところない。周りから見ればくだらないやり取りも本人たちは至って本気なところが、バカップルだのなんだのといわれる要因のひとつだと少なくとも堂上は気づいているが「郁の可愛さには替えられない」と開き直っているのである意味自業自得な面もある。
そんな風に妻を可愛がることに心血を注ぐ堂上のお返しは郁にとって嬉しくも楽しみでもあるが、いかんせん心臓に悪いことも多いので油断ならない。もっとも今回は推定総額に慄いた前回前々回の経験を踏まえ「予算は2000円以内!」と先手を打っているので、金額で度胆を抜かれることはないだろう。もしこれで桁違いのプレゼントを用意していたなら即柴崎交えての家族会議開催決定だ。堂上からすれば「なんでそこで柴崎が出てくるんだ!」というところだが、郁にとって柴崎は対堂上篤の際の必須アイテムのようなものだ。「奢りますので、どうぞお知恵をお貸しください柴崎様ぁ!」である。そうやって内情を暴露しているのがからかいに繋がる要因のひとつとなっているのだが、そこに気づかないのが郁であり、「そーいうところがあんたの可愛いところよねー」と思わず柴崎が抱きついちゃうところだ。
もっとも、堂上が郁に大層甘くそれでいて約束を違えるような男ではないということを知っているので、今回に関してはその点での心配は不要だろう、と郁は幾分心に余裕をもって帰路に着く。
ホワイトデーのお返しごときに何をそんなに身構える必要があるのかと周りから見ればおかしなことだろうが、女の子的甘やかしに今なお慣れない郁には切実な問題だったりする。
―――篤さんに甘やかされすぎて、あたしは糖死するかもしれない!!
なことあるか!柴崎に言わせれば「誰か強いお酒持ってきてー!!」というようなことを割りと本気で心配している郁である。
甘い恋愛、甘い結婚生活にそれなりの夢と憧れを持っていた郁だったが、現実はそんなに甘くないどころか甘すぎて困ることがあるとは想像だにしなかった。業務中からの変わりようはなんだ。スタートが「鬼教官」だったせいもあり、軽い詐欺にあっている気にもなる。
―――・・・まぁどっちの篤さんも好きなことに変わりはないのだけど。
そういうことを思って、一人照れに入るところも堂上に言わせれば「めちゃくちゃ可愛い!」ところで、ますます手放せなくなり甘やかしが加速する要因だということに郁一人が気づいていない。



自宅の部屋の窓から漏れる灯りに思わず郁の顔は綻び、運ぶ足の動きが速くなる。自宅へと続く階段へ足が掛った時はもう駆け足に近い。トントントンと一段飛ばしてあっという間に到達する。
「ただいまぁ」
玄関のドアを開ければ、ほんのり甘いミルクの匂いが漂う。今日のメニューはなんだろう。溶けたバターの匂いもする。ベシャメルソースだろうか。もしかしたら焼き菓子かも。わくわくしながらリビングに入る。
そしてダイニングテーブルに飾られていたものに郁は「わぁ」と歓声を上げた。
「おかえり、郁」
シンクで夕飯の準備をしていた堂上が作業を中断して出迎える。
細い腰をくいと抱き寄せ、柔らかな唇を軽くついばんで、ぎゅっと抱きしめると郁がかすかに微笑う。
「だたいま、篤さん」
「いってらっしゃいといってきます」「ただいまとおかえりなさい」にキスが付随するのは堂上家のお決まりだ。初めは顔を隠して恥ずかしがっていた郁も、最近では随分と慣れ「ちゅっ」と頬にキスを返し―――唇、ではないのがまた郁の可愛いところだと堂上は思う―――目を輝かせて聞く。
「ねぇねぇ。あれ、篤さんが買ってきたの?」
「俺以外誰が居る」
あれ、と郁が指さすダイニングテーブルの上にはオレンジ系の淡い銅色のアンティーク調の花色をしたバラが飾られている。バラと言えば深紅のイメージだが、ここでそれを用意しないのがいかにも堂上らしいと郁はクスリと笑う。
―――確かに、篤さんが真っ赤なバラを抱えている姿は想像出来ないかもー。
クスリと一つ笑みを零した郁はトタトタとダイニングテーブルに近寄り飾られたバラを楽しむ。
ベルベットのような光沢を放つ花弁はしっとりと滑らかな手触りだ。クンと鼻を寄せれば甘い香りが漂う。
どうやら今年は「カミツレの一本でも嬉しい」という郁の言葉をランクアップさせたものを用意してくれたらしい。
よしよし、と郁は頷く。そうそう。こういうささやかな、でもいつもとは違う特別が嬉しいのよ。


「でも、何でこのミルクチョコみたいな色なの?」
バラなら単純なイメージでは深紅で、ホワイトデーということなら純白のバラでも良かったのでは?
聞けば堂上が笑う。
「そのバラ、“ティラミス”っていう品種だったからな。丁度いいと思ってな」
―――それはあたしが、大食いってことを暗に示してるか?!
一瞬むかっ腹を立てる郁だったが、向けられる視線が溶けそうなほど甘く優しいものだったので、すぐに怒りは鎮火し、代わりに違う火種が生まれ頬を染めて下を向く。そんな妻にまた笑みを深めた堂上が、甘く髪を梳く。
「最後はバラ風呂で楽しもうな」
明るく楽しさがにじんだ声に郁は―――ん?と一瞬考える。
―――それは、あたし、楽しめる、のか・・・?
香りを楽しむとか、そういう余裕がなくなりそうな気がヒシヒシとするのだが、どうなんだろう。
どうなんだろうと思いながらも、結局最後は甘い雰囲気に飲まれて流されてしまうので、考えても結果は変わらないのだが。
「あの、篤さん・・・それは・・・」
困ったような笑みを浮かべた郁にチュっとキスが降りる。考えていたはずのことから意識がそちらに向いてしまうのが郁の単純なところで、堂上にとって都合良く可愛い部分だ。
「もう夕飯出来てるから、着替えて来い。その間に準備終えるから」
「あ、うん。分かった」
ありがとう、とお礼のキスを頬に返して郁はパタパタと寝室に向かい、仕事着から着替える。



さて、どうしよう。
クローゼットを開け、腕を組んでうぅんと悩む。
普段なら簡単にスウェットなんかに着替えるのだけれど、今日はホワイトデー仕様の食卓だ。
よし、と郁はベビーピンクのローズモチーフのコサージュが襟周りを飾るオフホワイトのニットチュニックワンピを選んだ。ゆったりとしたシルエットでカジュアルではあるが、普段の部屋着よりはずっとオシャレな装いだ。それに一昨年のホワイトデーに贈られたルビーとダイヤが光るペンダントを仕上げに飾る。
―――自宅での夕食に着飾り過ぎか?
姿見に映る姿に郁は「うーん」と少々迷うが、今日はホワイトデーだし!イベント日だし…いいよね!とリビングに舞い戻る。
戻ってきた郁の格好に、堂上は少しだけ動きを止め、すぐに「可愛いな」と感想を述べる。朴念仁と称されていた男はどこだ?!と思うほど、プライベートモードの堂上からはよく聞く言葉ではあるが、何度聞いてもその響きになれることはない。郁は顔を真っ赤にしてモジモジと「ありがとう」と小さく返す。そうした一つ一つの反応は相変わらず初々しく、いつまでたっても堂上から「可愛い」と言われ続ける要因の一つだ。


「ほら、席につけ」
「うん」
促されたダイニングデーブルの上に並ぶ料理の数々に郁は、ナニコレと思わず茫然とした。
サラダは名前も彩りも美しいミモザサラダ。薄いオレンジ色のライスに、豊富な魚介類、色みの強い鮮やかな野菜ものって、 彩り豊かなパエリアがデンと中央に構え、芳香豊かなふっくらと焼き上がったパイ包み。
夫のハイレベレハイセンスなメニューに、郁は軽い敗北感を覚える。
―――あたしの女子力!!
しかも、見た目だけじゃなくて、めちゃくちゃ美味しいから困るのよね!
色々複雑な感情を抱いたまま郁は「・・・いただきます」と手を合わせて、スプーンを取る。サックリと焼きあがったパイ生地を崩せばたっぷりのきのことチキンのクリームシチューが顔を出す。
そうか、あの匂いはホワイトソースだったか。ベシャメルソースに限定しなきゃよかった。
うぅむ。それにしてもこの差はなんだ。
パクリと口に運んだスープはダマもなく滑らかでコクのあるまろやかな味わいに仕上がっている。
くっそぅ。結婚した当初はどっこいどっこいだったはずなのに!
「―――郁?」
「え?あ、何?」
「どうした?浮かない顔して。好きじゃなかったか?」
眉尻を下げる夫に慌てて手を振る。
「あ、違うの。玄関入った時に、牛乳とバターのいい匂いがしてて、何かな〜?って想像してたのと違って、っていうか想像以上のものが出てきてビックリしただけだから」
すっごくおいしいよ!とにっこりと顔を綻ばせて料理を口に運ぶ郁に堂上も安堵したように小さな笑みを零す。
「こんな立派な料理用意してくれて、ありがとう」
「別に、今日は時間があったからな」
「お花も、嬉しい」
「なら良かった」
あーもー!ほんと敵わない!!



たっぷりと用意された夕飯を綺麗に平らげた郁はプハァと満足げな顔で手を合わせる。
「御馳走様でした!すっごくおいしかった!!」
「デザート用意してるんだが、後の方がいいか?」
「え!デザートもあるの?やったぁ!食べる食べる!!」
甘いものは別腹!と両手拳を作って笑う郁に「じゃあ、ちょっと待ってろ」と堂上も笑って席を立つ。
そしてしばらくして戻ってきた堂上の手にあるのはミルクジェラートを添えたティラミスだった。
そうか、だからバラの品種が“ティラミス”だったのか。なるほど、と郁は納得する。


「俺からのホワイトデーのプレゼントだ」
「え?料理は?」
「あれはただの夕飯だろ」
―――あれをただの夕飯と言いますか、あなたは。
何ソレ。ケンカ売ってる?と思わないでもないが、そこはグッと我慢の子だ。
若干引きつった笑みを浮かべながらデザート皿を受け取る。
スプーンで一掬い。パクっと口に運んだ後、郁は「うぅ〜ん!!」と頬に手を宛て至福の表情を浮かべる。
マスカルポーネチーズを使ったレアチーズの層は濃厚な味だが、その後に続くコーヒーシロップを染み込ませたスポンジがさっぱりとした後味で飽きが来ない。上に掛かったコーヒーとココアのブレンドパウダーの甘さを控えたほろ苦い味も丁度良い。そして添えられたミルク感をたっぷりと感じる真白なイタリアンジェラートもクリーミーで後味がさっぱりしていて抜群に美味しい。
「ん〜ん!幸せっ!!」
甘いものは心の栄養とはよく言ったものだ。
どこかの有名なショップのお取り寄せかな?そんなことを郁が思っている時だった。


「味見して大丈夫だとは思ったものの、やっぱり初めて作ったから不安だったが。郁の口にあって良かった」


―――は?


思わず次の一口を掬い損ねる。


―――え?何?今、この男は何を言った?



「―――・・・これ、篤さんの、手作り?」
恐る恐る聞く郁に、堂上は当たり前だろうと頷く。
「そういう約束だったろ」
「・・・料理・・・」
「お前だってケーキとは別勘定だったろうが」
「いや、でも・・・」


初手作りデザートがティラミスとジェラートって。あんたはどこのステキ女子だ!


「―――篤さんのばかぁ!!」
「はぁ?!」
「おかげであたしの乙女心はズタボロよぉ〜っ!!」
「いきなりなんだ!」
「実家(柴崎の所)に戻って出直してきます〜〜〜っ!!」
「おい!待てっ!郁っ!!」
うえーん!と飛び出した郁の瞬発力は堂上のそれよりも上であり、伸ばした手は虚しく空を切ることとなる。
「郁っ!戻れっ!!」
飼い犬にハウスを命じるかのように上官モードで命令したところで、既にメーターを振り切っている郁には届くことはなく、郁は元飼い主のところへ一目散に駆けて行った。


残念ながらこの日、郁を捕まえ損ねた堂上はヴァレンタインの三倍となるような濃密な夜を過ごすことは出来ず、ガクリと頭を垂れた。



行き過ぎた愛は、時にすれ違いを生むこととなることを身をもって経験した堂上である。


何事もほどほどに!












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