「何でもひとつ言うこときく」


堂上家でこの言葉が発動することはあまり珍しいことではない。
片や思い込んだら一直線の直情型で、いまいち自分に自信が持てない妻と、片や可愛い妻を構いたくて仕方がないが、要らんこと言い属性を持つ夫である。
すわ離婚の危機か、というような大喧嘩は今のところないが、ささいな夫婦喧嘩は頻発する。
もっとも、ささいな喧嘩で済んでいるのは、郁よりも大人な堂上が一線を踏み越えたのを知覚した途端折れるからだ。
これは年上夫の威厳を持ちたいという堂上のプライドのみならず、結婚前におきた、己の失言によりもたらされた一ヶ月という長きにわたる冷戦に懲りたがゆえである。郁と話せない、郁に触れないとかマジ勘弁! 詰まらぬ溝は即修復するに限ると学習したからである。
そうしたことから生まれた「何でもひとつ言うこときく」権ではあるが、実際のところは、堂上の反省を促すものというより、甘え下手の妻を堂々と甘やかせる機会と化していたりする。この制度が出来てから堂上の要らんこと言いが飛躍的に改善されたわけでもないあたりに実情が窺えるというものだ。
そんなわけで、本日もあっさり「何でもひとつ言うこときく」権を発動させた堂上である。
ただ、今日に限って言えば少々勝手が違い、差し出された権利を郁がニパっと待ってましたとばかりに行使したのだった。


「じゃあ一週間、あたしに触っちゃだめです」
「―――は?」
間の抜けた声を出す堂上をよそに、郁はハッとして慌てて付け足す。
「頭ポン以外!」
「―――いや、お前、それは、あれか?キスとか、そういうのが駄目とか」
「うん、そうだよ」
何がそんなに嬉しいのか、郁はニコニコと言ってのける。

―――マジか。

堂上は軽く天を仰いだ。

―――なんつー拷問だ、それは。

そう思う段階で、「何でもひとつ言うこときく」権の反省を促す要素が形骸化しているのが如実に分かる。
それから、なんとかすったもんだの交渉の末、郁の言い出した頭ポン以外に、挨拶のキス(ただし頬限定)を引き出した堂上だ。このあたりに堂上の郁への弱さが垣間見らるというものだ。
そして、初日から隣でスピスピと安心しきった顔で熟睡する郁を抱きしめ、密かにキスをするあたり、堂上の郁に対する耐性はほぼ皆無に等しい。

―――嫁相手に何してんだ、俺は。

軽い睡姦状態に凹みながらも、夜毎手を伸ばすあたり重症である。
しかし、仕方がないじゃないか!と堂上は胸中で抗議する。
可愛い嫁に触れたいと思う衝動はどうしようもないのだ。



「きょーかん!きょーかん!」
「篤さん!篤さん!」


―――なんの生殺しだ、これは。


冷戦状態というわけではなく、怒っているわけでもない。ニコニコとした郁の顔がそれを物語っている。
感情がそのまま顔に出るのが堂上の妻だ。怒りながら、笑うなんてそんな器用な真似はそう出来ない。
そのいつも通りの郁の様子に、つい、いつも通り、抱きしめたり、キスをしようと堂上が腕を伸ばす度に
「篤さん、約束」
と郁が制する以外、いたっていつも通りだ。


―――勘弁してくれ。


柔らかくて、いい匂いがして、実際にとびきり甘くてうまい、堂上を魅了するその姿が目の前でふわふわ漂っているのに、一切手を出せない状況に、堂上の精神は日々擦り切れる一方だ。


ストップをかける度にシュンとうなだれる堂上の姿はまるで飼い主に構ってもらえずしょげ返る犬のようだと、郁は思う。

―――なにこれカワイイ!

そんな夫の様子に郁はキュンとする。
そして心の中で、親友に対して拍手喝采だ。



―――スゴイ。さすが、柴崎!




それはささやかな仕返しだった。


いつも堂上に(一方的に)翻弄されている(と思い込んでいる)郁は、何か夫をギャフンと言わせることは出来ないものかと考えた。
ものの、早々良案が思い浮かぶはずもなく、あっさりと聡明な親友の元に駆け込んだ。堂上が知れば「このバカっ!」と怒られることを平然とやってのけるのが郁である。
相談を持ち掛けられた柴崎はすぐにニンマリと笑い、アドバイスをくれた。
「堂上家にはとっておきの制度があるじゃない」
そうして出されたのが「接触禁止令」だった。
当初、その案を出された時、郁は渋った。
「・・・それ、あたしも辛いんだけど」
なにせ堂上に触られるのが好きな郁である。
「それに、そこで平気な顔されたら、それこそショックなんだけど」
周りから見れば、「んなわけあるか!」ということに気付かないのが郁である。郁が触られたいと思っている以上に、触りたがりなのは堂上の方だ。 郁にこれから先触れなくなれば、堂上は死ぬ。あるいは発狂すると踏んでいる柴崎だ。
「大丈夫よ。万が一そんなことになったら、あたしが間に入ってなんとかしたげるから。あたしを誰だと思ってんの」
そんな自信満々な柴崎の言葉に、郁は「それもそうか」と頷いた。夫が頭を抱えるほど、郁の柴崎に対する信頼は分厚いのだ。
そして全く触られないのは郁も辛いので「接触禁止令、ただし頭ポンは除く」となったのだ。



郁だって、性欲というものがないわけではない。そうした欲求に火が着けば、一気に加熱される。
けれど、もともと奥手で、軽い接触だけでも満たされる郁が自分で導火線に火を着けることは滅多にない。
それに加えて、この週は身体の都合が悪いこともあり、下手に煽られない分却って都合がいいかも、と夫が知れば涙目になりそうなことをうっかり思う郁である。
堂上にその気がない(と郁が思っている)キス一つで簡単に煽られてしまう郁は、この時期その熱を放出することが出来ずに、燻る火種にもどかしくなり、次の機会に自分から堂上を求めることも多く、正直いたたまれない思いを抱いているのだ。そんな郁に対して堂上ははしたなくともなんともないと言うが(むしろそれを狙っているのだが)、郁にしてみれば毎月そうなってしまうのが恥ずかしく、またそれを平然と受け止める堂上の姿に、自分ばかり、と思ってしまう。正確には堂上はそんな郁を受け止めるのではなく、口を開けて待ち構えている状態なのだが、それが分かるような郁ではない。


正直、柴崎に提案され時は躊躇し、最初はどうなるかと思ったものの、褒めてくれるときは頭ポンしてくれるし、篤さんのカワイイとこ見れるし、これはちょっと楽しいかもと思い始めた郁である。




触りたくてウズウズしている堂上は、禁断症状が出ているかのように許される範囲での接触をあらゆる場面で試みてくる。
家のリビングでソファに座っているときなんかも、最初は少し離れて座っていたのに、気が付くとペッタリと横にくっついている。それに気付いた郁が、そっと身を離すといささかションボリとした顔を見せる。そして、またしばらくすると隣に引っ付いている。おそらくは無意識の行動で、だ。
―――何これ楽しい。
普段から堂上にからかわれてばかりいる郁には、この主導権を握った状況が珍しく楽しい。
そして、郁からハッキリとお許しの出ている「頭ポン」がスゴイことになっていて、郁はニマニマしてしまう。
そこが定位置だと言わんばかりに、気が付けば郁の頭の上に堂上の手が置かれているのだ。
「いつから笠原の頭は堂上の手置場になったんだ」
そうからかいまじりに指摘されると、ハッとしたように手を外すが、また気が付くと乗っている。自分より背の高い人間の頭に手を乗せるのが半ば無意識とかどんだけだ。
―――なにこのカワイイ生き物!
まさか普段、自分が堂上に同じことを思われているとはつゆとも知らない郁が奇しくも同じことを夫に対して思う。
普段余裕シャクシャクに見える年上男の余裕のなさが見てて面白い。
魔女に唆されたお姫様は、うっかり新しい楽しみを覚えてしまった。



そんな、片や遊びモードに入り、片やイロイロ限界になって来た折り返し地点に、事件は起きた。
とは言え、堂上班においてはもはやお馴染みとなった、囮捜査である。
痴漢事件そのものは、極上の餌となった郁によりあっという間に解決した。
スッと太股を一撫でされた後、背後から胸元に伸ばされた不埒な腕を掴み、一本背負いの要領で郁は犯人をいとも簡単に沈めた。
餌投入からあっという間の捕物劇だった。
けれど郁にとってはむしろその後の方が事件だった。



「教官!」
さあ、褒めて!と堂上が待機していた方向を満面の笑みを持って振り返った郁だったが、その時には既に堂上が眼前に居た。
驚く間もなく、「ちょっと来い!」と痛みが走るほど強く手首を握られ、図書館から連れ出される。
堂上の様子に、郁は焦り、自身の身なりを振り返る。
スカートは、めくれてない。ストッキングも、破れてない。上も、普通、だよね。揉み合いになったわけでもないから、肌蹴ているということもない。
犯人をぶん投げた時に、筋を痛めたということもない。むしろ、手本に近いくらい綺麗に決まったんじゃないかと思うくらいだ。
―――え、何。何やらかしたの、あたし?!
オロオロしている内に堂上が会議室の扉を乱暴に開ける。
部屋に押し込まれたところで、「すまん!」と言う謝罪が聞こえた。かと思うと、郁が疑問を挟むより先に、堂上の腕が震えるほどキツク抱きしめられた。
「え?ちょっ!!」
「すまん、郁!約束破る。これ以上は無理だっ!」


―――あと、三日。

息苦しくなるほど、ジリジリとした感情の中で見た光景は堂上にとって止めだった。
堂上が触れることを許されていない、郁の肌に卑劣な男の手が触れる。
あと三日。
郁の意識がある中で堂上はその肌に触れることが出来ない。
あと三日。
それまで、郁の記憶に残る真新しい感触は、あの男のものだ。
その瞬間堂上の中で何かが切れた。


「あと、三日も上書き出来んとか堪えられん。想像しただけで、気が狂いそうだ」

脳裏にこびりついた、郁の太腿に下劣な男の手が這うように触れる光景に堂上は呼気を荒くする。
すまん、と謝りながらも、ぎゅうぎゅうと全身を覆うように抱き込む堂上。加減もない抱擁は痛いほどで、郁の中から先ほどの気持ち悪い感触は吹き飛ぶ。
「―――今回はもう、この辺で勘弁してくれ。頼む」
憔悴しきった堂上の声を聞いて、―――まあ、いいか。と郁は思った。
もともと意地になるほどのものではない。目的は達成されたようなものだし。
どうやら自分は、存外夫に愛されているらしい。大収穫だ。
クスリ、と笑って、郁はわざと慇懃な態度で言った。

「仕方がないから、許してあげます」

クスリと笑いが付け加えられた郁の言葉に、ほっと堂上の身体から力が抜ける。
それを感じて郁は、面白がってごめんなさい、の意味を込めて、チュッと軽く唇を重ねた。


久しぶりの郁とのちゃんとしたキス、しかも郁からという超レアオプション付きのキスに堂上の理性は浮かれ飛んだ。ここが職場の一角であることは忘れ去った。



「―――んっん!んんぅ!!」
堂上はガッチリと郁の後頭部を抑えて、久しぶりの郁を味わう。
予期しなかったディープすぎるキスにパニクった郁は思わず渾身の右ストレートを堂上の鳩尾に打ち込んだ。
そして、蹲る堂上に本気の「接触禁止令」を言い渡すのはある意味御約束の流れと言えよう。






果たしてどこまで魔女の筋書き通りだったのか。
それは魔女のみぞ知る。














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