夫婦揃ってのお茶の時間。 「―――っ」 珍しいことに夫が火傷をした。 郁の記憶が確かなら、今まで夫が火傷するようなドジを踏んだところを見たことがない。 「郁、どうやら舌を火傷したようだ」 珍しいこともあるものだ、と見ていた郁に夫は冷静に自分の状況を告げてくる。 「うん。冷やしたほうがいいのかな?」 「―――火傷も怪我に入るよな」 その怪我をしている男が物凄く期待に輝く笑顔で尋ねてきた。 「お前、今日自分で言った言葉を覚えてるか?」 ◆◆◆
今日の業務は閉架書庫の整理だった。 そこで郁はちょっとした不注意から怪我をした。 「っ、痛っ」 「何した?」 「段ボールのステープラーの針が出ていたみたいで」 郁は自分の指を眺めた。ぷっくりと赤い雫が浮き出てくる。 舐めるのはちょっとあれだなー。自分の指を見下ろして郁は思った。 埃かぶった段ボールを運搬していたので、その指に限らず両手ともに埃まみれだ。 まずは洗いに行こう。 郁はちょっとそう考えた。 「ああ、これは結構深く刺したな」 行動に移す前に背後から声がした。 振り返る前に、背後から伸びてきた大きな手に傷ついた手を持ち上げられる。 されるがままに、自分の手の行方を追って見上げると、指は夫の口内に収まった。 「ちょっ!ぎゃ!な!?何やってんのよ!!」 驚きに郁は慌てて、手を引き戻した。慌て過ぎてプライベートモードにスイッチが入ったが、それぐらいは許して欲しい。 しかし、上官である夫はそこに触れることもなく平然と答える。 「いや、血が出てたから」 「教官は蚊ですか!?」 「蚊って、お前な・・・。もっと他の喩えはないのか」 あまりにも平然とされると、騒ぐ自分がオカシイ気がしてくる。 しかし、そんなはずはない。 郁は頑張って反論してみた。 「だいたい汚いでしょ!こんな埃まみれの手なんて!」 「それもそうだな。細菌が入るといけないから、まずは洗いに行くか」 夫はあっさりと頷いた。 夫はもう一度郁の手を取ると、そのまま書庫を出て近くの洗面所で郁の手をバシャバシャと洗い出した。 埃が流れ落ちたのを確認すると、夫は郁に向けてにっこり、というかニヤリと笑った。 「キレイになったな」 「え、うん。ありがと……!?」 夫は、再び郁の指を口に含んだ。 「な、なんで舐めるの!?」 叫ぶ郁に、夫は一旦指から口を離した。 でも、手は離さない。 「血が止まってないから」 平然と答えて、また指を自分の口の中に戻す。 郁はやや呆然と夫を見つめた。 傷口に舌を当てられて、時々舐められて、指がむずむずする。 「やっ」 指先からゾクリとした感覚が伝わってきて、郁は力いっぱい自分の手を取り戻した。 自分の指を握りこんで、目の前の夫を睨むと何故か面白そうな笑みを湛えていた。 何か無性に恥ずかしい。 変な声も出たし。 課業中なのに!課業中なのに!! 「まだ、血は止まってないぞ」 「いっいい!もういい、自分で舐める!」 改めて自分で舐める理由は分からないけど、恥ずかしいから夫から指を庇いながらそう宣言する。 必死な郁をそれはそれは楽しそうに眺めて、夫は嬉しそうに呟いた。 「間接キスだな」 「……は!?」 郁は指を開いてまじまじと見つめた。 先ほどまで目の前の男の口内に納まっていたそこから、新たな血液が流れ出してきている。 「………」 郁はじっと自分の指を見て、夫を見た。 物凄く楽しそうな笑顔で自分を見ている。 普段そんな事を意識したことはなかった。今さらといえば今さらである。やることやっといて何が間接キスか。 しかし、言葉にされると妙に意識してしまう。しかも、これから自分が舐めると言ったそこは男の唾液でしっとり濡れている。 この夫の目の前で、その指を舐めるのは嫌だ。 「舐めないのか?」 笑顔で尋ねてくる夫。 その笑顔は自分の葛藤さえも楽しんでいるように郁には見えた。 「じゃあ俺が舐めてもいいな」 返事をする前に、夫がまたも郁の手首を浚った。 郁はもうどうやって反論したら良いか分からなかった。 柴崎が居れば「馬鹿ね。傷口って舐めると却って悪化することもあるのよ」くらいは言ってくれそうだが、生憎と郁は柴崎ではない。 ただ、しばらく茫然として夫のなされるがままに指を舐られた。 「あのね、篤さん」 漸く解放された手を護るように背後に隠し、郁は夫に声をかけた。 いつもより遠くからだ。 今はちょっと近寄りたくない。 しかし、言っておかなければならないことがある。 「自分がされて嫌なことは人にしたら駄目なんだよ」 「そうだな」 「確かにあたしも自分で傷口舐めたりするけど人のはどうかと思うんだよね」 「そうか」 夫は真面目な顔で頷いた。 もしかしたら分かってくれるかもしれない。 郁はちょっと希望を持った。 「でもな、郁。俺は人に舐められたことがないから自分がされて嫌なことかどうかは分からん」 「……ええと」 経験してないことは分からない。 迂闊にもその意見を正しいと郁は思ってしまった。 そして言ってしまった。 「よし!今度篤さんが怪我した時はあたしに言って。そんでどれだけ恥ずかしいか身を持って学べばいいよ!」 と。 ◆◆◆
「どうした?」 視界の中央で舌を火傷したと言った男が首を傾げる。 怪我をしたら言え、それを舐められるのがどれだけ恥ずかしいか身をもって学ばせてやる、と言った郁は凍りついた。 「えっと、あの、あのね、篤さん」 「なんだ」 いつまでも待っている男に事態改善のために郁は声をかけた。 呼ばれた男はこの上ない笑顔のまま返事をする。 「ええと」 「ん?」 「その」 「どうした?」 返事をする男のにこにこさ加減に何を言うべきだったか忘れそうになる。 だが、ここで流されたが最後、恐ろしい結末が待っている、気がする。 「篤さん。あのさ、口、口だよ!!」 「何言ってんだ郁」 男は初めて否定の言葉を口にした。 ただ、笑顔はそのままだ。 「口じゃない。舌だ」 そんな簡単なこと間違えるな、と男が笑う。 しかし、そこが問題なんじゃない。 その差はこの際、郁的には全然意味無い。 郁は自分的に重要だと思えることを訴えた。 「だって口内だよ!?」 「そうだな。一般的に舌は口内にあるな。つか、なかったら大変だろうが」 「そこ、そこを舐めろと!?」 この上はないと思っていた笑顔がさらに輝いた。 物事の上限を勝手に決めてはいけないらしい。 「お前が俺が怪我したら舐めるんだと自分で言ったんじゃないか」 言った。 確かに言った。 だがそれは舐められる恥ずかしさをこの男に学ばせたかったからであって、自分が舐める恥ずかしさを体験するためではない。 郁が次の言葉を考えていると向いの席の男は立ち上がった。 テーブルを回って近づいてくる。 まずい、と郁は思った。 何故だか分からないが己の中の何かが急いで前言撤回をしろと叫んだ。 不言実行の人間は格好良い。有言不実行の人間はその逆だ。 ただ今はその思想を曲げてでもそうしろと、郁の中の何かが警鐘を鳴らす。 「あの、篤さん」 自分の中の忠告に従って男の動作を中断させるために声をかける。 笑顔の男は続く言葉を待つように首を傾げた。 「指と舌は違うでしょ!」 「だが傷は傷だ」 「いや、でも、あのね」 あまり相手が平然としているので気になる自分がオカシイ気がしてくる。 だが、そんなはずは無い。 人生経験はまだ三十年に満たないけれど。夫より5年も経験値は足りないけれど。 それでも今までの自分が自分は正しいと主張している。郁はそんな自分を信じている。 「舐められる経験をさせてくれるんだろ?させてくれなきゃ分からんぞ」 視界の真ん中で目の前まで移動してきた男が楽しそうに見下ろしてくる。 「じゃあ、これからも郁が怪我したら俺が舐めても良いと、そういうことだな。 本や書類整理で指を切ってしまった時とか、訓練中の擦り傷だとか」 それの何が面白いのだろう。 見上げた先の男は目を細めて笑っていた。 「あ、あああ、あの、篤さん?」 「ん?どうした」 「どうした、じゃないよ!」 郁としてはそんな結論を出されては困るのだ。 根拠はないが、この男はきっとやりたいと思ったら郁の心拍数など関係なく行動に出る。 ここは一つ、絶対に考えを直して貰わねばならない。 「違うから。舌と指は」 「そうか?」 男が首を傾げる。 言葉にして郁は確信した。 絶対違う。同じであっては困る。 「そう、違うよ!そうだよ!だって、もし、あたしが怪我したのが舌だったら篤さんだって舐めなかったでしょ!?」 「いや、舐めるぞ。当たり前じゃないか」 即答された夫の潔い答えに郁は顔を覆った。 ―――もう駄目だ! |