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「おつかれ」 「お疲れさまでした」 小さな画面とひたすら格闘すること数時間。 そんな会話を幾度か繰り返しながら、郁は印刷された研修日誌とそのデータが入っているFDから呼び出した画面を見比べ、眉間にしわを寄せながら紙面とパソコンの画面との間で視線を行ったり来たりさせる。 「―――郁」 とっくに業務上がりの時間となっており、それでも自身の業務を先回りしてこなすためと残って仕事をしていた夫も手持ちの案件はなくなったのだろう。他に残っている隊員もいないからか妻に対して気遣わしげに呼ぶ声に、郁は小さな笑みを浮かべて返す。 「お疲れさまでした、堂上一正。 ごめんなさい。研修日誌の添削がまだ終わらないから、帰るの遅くなると思う」 「―――わかった。 無理のない程度で励め」 部下として、妻としての郁の言葉に、堂上も夫とそして上官としての言葉を返す。 ポンと一度郁の頭に手を置いて、事務室を出ていった堂上の背中を見送る。 事務室の扉が完全に閉まるのを見届けて、しばらくして、郁は軽く詰めていた息を吐きだした。 無理してるだなんて絶対に思われたくない。周囲に余計な心配をかけたくない。 その気持ちもあるけれど、何よりも、心優しい人たちに気を遣わせてしまうことが嫌だから。 だから笑顔でなんともないのだと返すのは郁にしてみれば当たり前のことだ。 けれど見送った背中が、常になく、ほんの一瞬だけ振り返ろうとしたことが少し気になった。 変に気取られてなければ良いのだけれど。 「って、そんなこと考えるより先に片づけないとね!」 敢えて明るく言ってみる。 新人教育隊の教官を務める郁は、そのまま防衛部の実地訓練の警備指導役も引き続き請負っている。警備指導役の主任教官の業務は新隊員と一緒に警備業務を行い、現場監督をすることで終わりではない。主任教官は新隊員全体の統括役でもあるため、監督する班のその日一日の訓練内容を書き記した研修日誌を取りまとめなければならない。 提出された日誌に目を通して赤ペンで添削していき、それをデータに反映していく。ただそれだけの事務仕事。決して難しいものではない、ただ時間と手間がかかるだけだ。 大雑把で、考える前に即行動な性格が災いしてか、昔からこうした細々とした作業はとにかく苦手な郁にとってなかなかの重労働だ。 同じ仕事を割り当てられているはずの手塚は、そつなくこなしており、一時間ほどの残業で早々に帰寮している。 何とか一件完成させ、全く手のついていない数枚に視線をやり、郁の口から重苦しい溜息がこぼれ落ちた。 明日も朝から警備訓練が入っている。 正直、今晩は職場に泊まり込むしかないかもしれない。 苦手とは言え、普段からここまで時間がかかるわけではない。 今日は運が悪かったと言うか、引き当てたと言うべきか、郁が担当する班がローテーションに入っている時に、窃盗犯の確保と置引き事件が重なったことで、取調べをし、調書を巻き、報告書を上げ、と研修日誌が上がってくるのも、そしてその研修日誌に手を回すまでの時間そのものが掛ったのが要因の一つだ。 勿論、窃盗犯や置引犯と遭遇したことは警備業務の実地研修として、新隊員たちにとってはいい勉強と経験になっただろうから全部が全部悪い面があるわけではない。中には研修中にそうした事案に直接遭遇しない隊員もいるのだ。それを思えば早い段階で模擬ではない「本物」を見せられたことを教官としては良しとすべきだろう。 先ほどからもう幾度も、暗くなりかける気持ちを努めて奮い立たせる。 パシっと両頬を軽く打ち鳴らしてやる気を注入する。 凝り固まった背筋をぐっと引き伸ばすと、しんと沈んだ部屋に体のそこかしこでバキポキと骨が鳴る嫌な感じの音が響く。 グリグリと首を回し、肩を回し、「よしやるか!」と再度パソコンに向き直ったところで、 「あまり根詰めてやると潰れるぞ」 背後から密やかに流れてきた声に、心臓を飛び上がらせ、郁は慌てて振り返る。 「篤さんっ!」 「ほら、少し息抜きしろ。どうせ飯も食ってないんだろ」 そう言って堂上は郁の隣の席に持って来た包みを広げる。中にはラップに包まれたおにぎりと、今日の夕飯だったのだろうエビチリと回鍋肉が詰められたタッパーがある。 「あ・・・」 「とりあえず、食え」 「うん。ありがとう。―――ごめんなさい」 「謝ることはない。俺がやりたくてやってんだ」 席を移りホラ、と差し出された水筒から注がれた卵スープを受け取って、郁はもう一度「ありがとう」と呟いて、手にしたコップに口をつけた。ほんわりと暖かなスープにつられて気持ちが緩む。同時に緩みそうになる涙腺に、慌てて笑みを張り付けて顔を上げる。 その途端、コップを取り上げられて、夫の胸に抱き寄せられる。 「―――俺の前でまで無理して笑おうとするなバカ」 慌てて取り繕う言葉を探す。けれど、肩口に頭を押さえつけられる手の重みに観念して郁は口をつぐんだ。 郁のことを良く見ていて良く知る夫はもう何を言っても誤魔化されないのだろう。 小さな可動範囲の中で、一つ小さく頷いた郁に抱擁がとかれる。 「少しは甘えろ」 「でも」 「お前の怠慢が原因じゃない。言えば手を貸せる部分は手を貸してやるのに」 郁の席に代わりに座った堂上が広げられた日誌を横目に見遣り、キーボードに指を滑らせる。 「篤さん!」 「朱書きしたもんは俺が打ってやる。お前はとりあえず飯食って、添削しろ」 「でも」 「お前が添削したものを入力するだけだ。俺の手は加えん」 手助けしてもらえることが嬉しいのか、彼の手を煩わせてしまうことが情けないのか、郁はひどく複雑な気持ちになる。知らず歪む表情に、堂上はキーボートを滑らせていた手を止め、椅子を回して郁に向き直る。 「人に甘えず一人でやりきろうとするのは、お前のいいところだと思ってるが、上官として部下に少しは頼って欲しいと思うし、何よりお前の夫として一人で抱え込まれるのは寂しくてつまらん」 すっと伸びた掌が郁の頬を一撫でする。それはほんの僅かな時間だったが、その刹那の動作に郁の顔が朱に染まる。 「ここは素直に『ありがとう』と受けとっておけ」 甘い瞳で微笑みかけられて、郁は素直に頷いた。 「―――助かります。ありがとう、篤さん」 「ああ」 くしゃりと頭を撫でられる。 何事も無かったかのように、真剣な仕事モードでパソコンの画面に向かう上官に郁は一度だけ、強く強く目を閉じる。滲みかけた涙と一緒に、未練がましい迷いを押し込める。 そして「いただきます」と再度手を合わせて言われたとおりに食事をとって、日誌に向かう。 最後の一枚の添削を終えて、郁は小さく伸びをする。最後はほぼ所見なので手を加えるところもほとんどない。 データ入力を代わると言った郁だったが、それよりも、と堂上に頼まれる。 「家に帰ったらカミツレのお茶を淹れてくれるか」 その言葉を解した郁は、花のような顔で大きく頷いた。 「はい!」 お互いの指を絡めて官舎へと戻る。 「今日はありがとう、篤さん」 謝罪ではなく、礼を述べた郁に、それでいいと堂上は笑みを返す。 「お前は職場でも家でも、もうちょっと俺に頼ることを覚えろ」 「でも、充分甘やかされてるし」 「結果は同じでもお前が言って甘やかすのと、我慢できずに俺が先に手を出すのじゃ違うだろうが」 「でも、篤さんの迷惑になること、言いたくないし」 「俺にとって何が迷惑かは俺が決める。お前が決めるな。 今日だって、手伝ってってお前から言えばもっと早く帰れただろうが」 「でも、あたしの仕事だし」 「だから。俺の奥さんであることもお前の仕事だろうが」 「!!」 「仕事が好きで大事なのも分かるが、少しでも早く俺の奥さんに戻ることを優先してくれる方が俺は嬉しいんだが? お前の居ない家で過ごす時間はあまり好きじゃない。飯も一人で食っても美味くないしな」 「なっ・・・!」 なんつーことを言うのかこの人は! からかい混じりに、けれど言葉そのものは本心のベタ甘い台詞に郁の顔は一瞬で茹る。言葉の少なさは絶対に堂上の方が上だというのに、その使い所が巧妙過ぎて郁は勝てる気がしないと常々思っている。 「分かったか」 「ぅ…あ、はい」 外灯だけの薄明るい夜道ではその顔色がはっきりと分かるわけではないが、おそらくその顔は真っ赤に染まっているのだろう。顔を伏せて、もごもごと口籠る郁に堂上は笑い、絡めた指先に力を込めた。 「と言いつつそれでも遠慮するところがお前の可愛いところでもあるんだがな。 これからはもう少し俺に頼ったり甘えたりしろ」 「・・・もう充分すぎるほど、あたしは篤さんに頼ってるし甘えてるつもりなんですけど」 「全然ダメだな」 弱り切った言葉もあっさりとダメ出しされて、郁は「うぅ」と小さく唸る。甘えるってなんだ。 「お前は難しく考えすぎなんだ。やって欲しい事とかやりたい事とか、何でもいいんだ。思ってることを口に出せ。 余計なことはダダ漏れなくせにな、なんで肝心なところは押し黙るかな、お前は」 「な、ダダ漏れって言うことこそ余計です!」 好きでダダ漏らしてるわけじゃないもん。というか恥ずかしいからそこはスルーしててよ! 相変わらず要らんこと言いな夫に郁はむぅっと口を尖らせる。 「なんだ、キスの催促か?」 「なっ!」 覗き込んでくる顔に郁は慌てて空いた手で口を抑える。 「冗談だ。こんな基地近くの道端でするか」 笑いながら言われる言葉に「―――でも篤さんならやりかねないもん」という言葉は飲み込む。一応郁だって言葉は選んでいるのだ。 「ねぇ」 「ん?」 「あたしが度が過ぎたワガママ言ったら、ちゃんと言って下さいよ」 「ああ」 「あたしのせいで、篤さん困らせるの、イヤだから」 「分かってる」 して欲しい事、したい事。夫に対するワガママは言い出したらきっと際限なくある。 郁に対して甘い堂上だが、だからこそ余計な気遣いをさせたくないという思いがある。 何でもかんでもぶつけて、受け止められて、それがいつか負担になったらと思うと怖い。 けれど隣に立つ堂上の表情は穏やかに、郁を見つめていて―――だから自分のそんな思いももう夫は既に知ってるんだと思って、郁は少しだけ気が軽くなった。 「お互い少しずつ寄りかかっても許されるのが夫婦だろ」 「―――そっか。そうだよね」 ニコリと笑って、郁は肩が触れるほど近く堂上に身体を寄せる。笑って、堂上がその手を一段と強く引き、肩が触れる。 全てを共に抱え込むことを許した存在が傍にあることが、今はただ、とても嬉しいと、郁は一段と笑みを深くする。 「ねぇ、篤さん。ワガママ言っていい?」 「それを宣言するとこがお前だよな」 そこが可愛いとクスリと笑う。 「何だ?」 「あのね、家に帰って、カミツレのお茶飲んだ後、ぎゅってしてください」 本音を言えば、やっぱり今日は少し疲れていて。だから「よく頑張ったな」って抱きしめて欲しくて。 そう言ったら――― 「ぎゃっ!て、外!此処外だから、篤さん!」 ギューギューと力強く抱きしめられて、バタバタと郁は慌てる。 「うるさい! 頼ったり甘える言葉を言えって言ってるのに、なんでいきなり煽る言葉を選ぶかお前は!」 くそっと小さく呟いた堂上が繋いだ手をそのままにズンズンと先を急ぐ。 「ちょ、あ、篤さん?」 「お望み通り家帰ったら、すぐ、思う存分、嫌っていうほど抱いてやる」 「え?や、あの」 「妻のワガママを叶えるのも夫の務めとしたもんだろう?」 「あ、あの、もう、さっきので充分です、はい!」 「遠慮するなって言っただろ」 「遠慮じゃないぃ〜っ!!」 やっぱり、夫の前で思ったことをそのまますぐに言葉にするのは止めておこうと郁は改めて思い直したのだった。 |