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「堂上教官!あのっ、折り入ってご相談、というかお願い事があるんですけど」 一体何事かと思ったら。 「その日一日だけでいいんでお願いします!」 その必死のお願いの様子に、仕方ないなと苦笑し「分かった」と了承した。 それが後にとんでもない局地的騒動に発展するとも思わずに。 ◆◆◆
「おはよう、郁。―――なぁに、その顔」 「・・・いや、あんたが名前で呼ぶとは思わず。おはよう、柴崎」 「あら?あたしが名前呼びしちゃいけない道理なんてないでしょう」 「まあ、そうだけど。それより、どうしたの朝一から」 「月末の土曜日なんだけど、シフトどうなってる?読み聞かせ教室があるから、郁に手伝って欲しいと思って」 「月末は次シフトだから未定なんだけど、・・・てか、そういうことはあたしより堂上教官、じゃなかった、堂上一正に聞いてくれる?シフト組むの教官だし」 プライベートでは夫を教官呼びから名前呼びにシフトしている郁だが、仕事ではまだ階級呼びに慣れず、気を張る外ならまだしもホームグラウンドでもある特殊部隊内や柴崎のような親しい付き合いの人間の前ではついつい「堂上教官」と呼んでしまう。堂上の方もプライベートの時ほどそこを注意することはなく、オフィシャルな場面で呼べるならそれでいいというスタンスで、仕事モードに入ると郁は意外にその辺りはきちんとこなすので特に心配もしていない。郁の「堂上教官」呼びはある意味で特権階級だ。「教官、教官」とパタパタ寄ってくる郁は、それはそれで初々しくて可愛いとすら思っている堂上である。 その辺りのこともマルッとお見通しの柴崎は「どっちもどっちよね」と笑う。 「そーいうわけなんで、業務部の方で郁をお借りしてもよろしいでしょうか、堂上教官?」 全く可愛いとは思わない柴崎の教官呼びに、堂上は相変わらずの仏頂面で答える。柴崎ファンから見れば「あの柴崎さんに「教官」と呼び慕われるなんてなんて羨ましい・・・!」というところだが、別段なんの感慨も起こらないのだから仕方がない。同期の小牧をとやかく言えないほど堂上だって郁にしか興味がないし、それに「何の問題がある!」と開き直っている。 「上から正式に依頼が下りてきたら、嫌とは言えんだろう」 「そうですねー。ま、近々依頼文書は下りてくると思うんですが、こういうことは早い方がいいかと思ってお知らせに」 「分かった。けど、ウチとして緊急性がある事案が出た場合はそっちを優先させるから、予備要員も用意しておけよ」 「分かってまーす。じゃ郁、またお昼ね」 「うん、またね」 手を振って柴崎を見送った郁に進藤がお馴染みのトム笑いを浮かべながら歩み寄る。 「随分と楽しそうなことやってんだってな」 「いえ、別にそんな面白いことをやってるわけじゃ」 「柴崎がやってんなら、俺もかたっていいよな、郁」 その言葉にいきり立ったのは堂上だ。 「―――進藤三監」 完全に据わりきった目で睨まれたところで怯むようなちゃっちな肝は持ち合わせていない。普段ちゃらんぽらんしているように見えても進藤はエリート部隊タスクフォースの実力者だ。若手に数えられる堂上よりも殺伐とした空気に対する抗体は備えてある。 というよりも、そんな堂上の態度など織り込みずみだ。 「どーした、堂上。そんな怖い顔して」 ニヤニヤと面白がる態に堂上の視線は一段と鋭くなる。 「あまり馴れ馴れしく俺の嫁の名前を呼ばないでもらえませんか」 「いいじゃないか。せっかく堂上姓になったのをいつまでも旧姓で呼ぶのもあれかと思ってさ。だからって堂上って呼ぶのも、なあ?」 「結婚してとうに一年過ぎてるっていうのに、何をいまさら。区別したきゃ、俺の方を名前で呼べばいいでしょうが」 「何、お前俺に名前呼ばれたかったのか。よしよし、ならこれを機に夫婦揃って名前で呼んでやろう」 「なわけないでしょう!俺の嫁を名前で呼ぶなっつってんですよ!」 「名前で呼んでいいのは俺だけってか」 「当たり前です!」 「――――――」 土壇場で素直になるのはなにも郁だけではない。堂上だって郁に関することは十分素直だ。なにこれ、面白い。と思ったのは進藤だけではない。 「随分心の狭い旦那だなあ、郁?」 「だから!」 「別に今日一日だけなら、構わんよな?」 「今日だけですよ?」 「郁!お前はなんでもかんでも首を縦に振るな!」 「でも、別に困るわけじゃないし」 「なー?」 よぅし。言ったな。俺の機嫌を損ねても困らないっつーことだな。 お前、マジ今晩覚悟してろ!という夫の嫉妬心は当然に鈍感な郁には伝わらない。 そんな中、面白いことには鼻が利きまくる玄田が、因果を知るわけでもないのに思い付き企画をぶち上げた。 「ぃよーし。今日一日笠原を名前で呼ぶことを隊長権限で許可する!」 「隊長!」 猛然と抗議する堂上の声など、ガハハと笑う玄田には当然聞こえてなどいない。 それから先の流れなど、考えるまでもなく決まっている。お祭り体質が多い特殊部隊の隊員はあっという間にその悪ノリに便乗する。 「郁、今日は天気がいいなー」「今日の日替わり定食はなんだろうな、郁」「郁、ついでに俺のコーヒーも持ってきてくれ」「端玉菓子だ。俺は食わんから、郁にやるよ」 郁、郁、郁、郁。 特殊部隊の女性は郁一人なので、当然に飛び交うのは野太い野郎の声だ。 どれだけ堂上が止めろとがなったところで、「お前より上官の隊長直々に許可が下りてるんだ」と笑って取り合わない。 紅一点の末っ子を構いたいと同時に、堂上もイジリたい大人にはこれはいいおもちゃだ。そう簡単に手放すわけがない。 郁の名前が呼ばれる度に、(郁以外の)目に見えて機嫌が急降下する堂上に、「お前はホントに素直だよなー」と大人達は内心で腹を抱えて笑う。そして、自分たちが勝手に種を蒔いておきながら「頑張れよー笠原〜」なんて無責任なエールも送る。特殊部隊内で郁の今夜の行く先を知らないのは当人である郁(と手塚)だけだ。 堂上にとって「郁」が特別すぎる存在だというのは、特殊部隊の人間にはよく知られていることだ。 名のない女子高校生であった時から特別だった存在は、名を与えられたことで、一気に輝きを増し、一番大切なところに仕舞われるようになった。 自分の気持ちを押し殺し、その名を呼びたいという欲求を必死で抑え込んでいた上官時代。 そうして長い長い時間を経て、堂上はようやくその名を呼ぶ権利を手に入れたのだ。 呼び名というものはその人間関係を如実に表すものだと堂上は思っている。 勿論中には異性の友人間でも名前で呼び合う者達は居るだろうが、少なくとも堂上にとって親族以外で名前を呼び捨てにするのは郁だけで、その名前を呼びたいと思った唯一の存在だ。 その名を呼ぶことがただの上官ではない証となった堂上からしてみれば、その名前に強い思い入れがあるわけではなく、単に郁を構いたい、あるいはそれ以上に堂上をからかいたいというだけで郁の名前を連呼されるのはただただ腹立たしい。 ただの上官だからと気持ちを押し殺し、軽口にもその名前を乗せられなかった自分は何なのだ。それを口に出せば「そりゃ単にお前が素直じゃないだけだ」と笑い飛ばされるのだろうが、仕方ないじゃないかと堂上はむっすりと口を引き結んで眉間に皺を寄せる。自分にとって郁はそれだけ大切で大事で、重たい存在だったのだ。生半可な気持ちで触れていい存在ではなかった。 だから、郁の名前を遊び心で簡単に呼ばれるのは、ただ単に自分の独占欲を苛むというだけではなく、「郁」という存在が軽んじられている気がするのだ。 勿論、タスクフォースの面々にそんなつもりはないことは堂上だって百も承知で、これも一種の愛情表現であることも理解している。だからあくまでこれは自身の気持ちの上での問題でしかないということも。 ―――それでも、嫌なもんは嫌なんだから仕方ないだろう!! ターンッターンッ!と怒りのオーラを背負い、力任せにキーボードを打つ班長の分かりやすい姿に小牧が笑う。 「堂上さ。ウチでそんなんだったら、マジで今日一日大変だよ」 「うるさい!!」 本来ならこの辺りで気付くべきだったのだ。 いきなり名前呼びを始めた柴崎。「今日一日」と郁の名前呼びを提案した進藤。そして何かを楽しむような小牧。 平時であればそれでそこに「何か」あると気付いたのだろうが、幸か不幸かこの時の堂上はそれを気に留められるような精神状況ではなかった。 そこかしこから愛しい名を野太い声で呼ばれて冷静ではいられない。 ◆◆◆
「篤さん。お昼どうします?」 「―――ああ、もうそんな時間か」 苛立ち任せに仕事に没頭していたので(下手に意識を浮上させると意味もなく飛び交う「郁」の名前に感情が爆発しそうになると思ったからだ)、時間の経過を気にしていなかった。確認すれば、すでに昼休憩の時間だ。 「あたし、柴崎と食堂でお昼取るつもりなんだけど。篤さん忙しいようなら、何か買ってこようか?」 そんな郁の言葉に堂上は「いや」と苦笑する。我武者羅に机に向かっていたのは忙しいわけではないのだが、それが分かるような郁ではない。 「大丈夫だ。俺も一緒に行っていいのか」 「あたりまえじゃない」 にこりと笑う郁の姿だけで幾分気分が落ち着くのだから、自分は随分と単純な人間だと堂上は思わず苦笑する。 「はい。郁。あーん」 前の席からスプーンを差し出されて郁は反射的に口を開ける。 「んー。ありがと、柴崎。でもいいの?」 モグモグと咀嚼したのは、柴崎のランチプレートに付いている白玉饅頭だ。ツルンとした食感に、ほんのり甘いアンコが絶妙だ。食堂デザートもなかなか侮れないと郁は思う。 満面の笑みを浮かべ、お礼を言う郁に柴崎も「いいのよ」とにこりと笑う。 「だって今日は可愛い郁の日じゃない」 「柴崎。郁の日、ってなんのことだ」 堂上が気になる単語を抜き出せば、柴崎がクスリと目を細めて笑う。 「あら、やだ。ご存知ありませんでしたの、堂上教官?今日はですね―――」 口の端を上げた柴崎が説明モードに入ったところで、声がかかる。 「―――郁さん!」 その瞬間、空気が固まった。 主に堂上の周りが急速に。 そこに居たのは新人と見える男性隊員三名だ。 若さと言うのは時にとんでもない暴走をかますものだ。気分が高ぶっているからか、その空気の変化に気づいた様子はない。 「あらあらまあまあ」と事の成り行きを頬杖を付いた柴崎が、愉快げな笑みを浮かべて眺める。 「あんた達も今からお昼?」 「はい!」 「あ、あのっ」 「何?」 隣に座る夫に構うことなく、郁はにこやかに会話を続ける。おそらく、郁が受け持った訓練生なのだろう。 「今度の特殊部隊との合同訓練に俺達も参加するんですけど」 「そうなの?あんた達に付いてこれるかな」 「ひどいです、郁さん!」 「うそうそ。冗談。まあ、無理しない程度で頑張りな」 「はい!」 「あの、それで、俺、リペリング降下が上手くできなくて、是非郁さんに教えてもらいたいと」 「郁さんのリペリングが綺麗だって聞いて、」 「―――郁、さん?」 堂上が静かに箸を置く。 「上官を名前で呼ぶとは貴様ら一体どういう了見だ」 低く地を這うような声。絶対零度の冷気を纏う鬼。自分達が持ちえない貫禄と眼光に睨まれた新人達は「ひっ」と竦み上がる。 最初は聞き間違いかと思っていたが、そうではないと気付いた時、堂上の臨界点は超えた。 堂上にとってある種不可侵だった郁の名前。越えてはいけない境界線を簡単に踏み越える行為。 気心の知れている特殊部隊隊員なら、まだなんとかやり過ごせる。けれど、名も知らないような新人のその暴挙は堂上の許容を越えたものだ。 「あ、篤さんっ、待って!」 鬼の形相で、今にも殴りかからんばかりの夫の肩を郁が必死に押し止める。 「郁!邪魔だ」 「そーですよ、教官。落ち着いてください」 「落ち着けるか!揃いも揃ってなんなんだ、今日は!」 「いいじゃないですか、今日一日くらい。可愛い郁の日なんですから」 「だから、なんなんだそれは!郁が可愛いのと郁が名前を呼ばれるのと何の関係がある!」 「だからですね―――」 「あー郁さぁん」 空気をぶち破る可愛らしい声が響く。 「―――・・・安達」 あんたも何でこのタイミングで来るか。 郁は思わず、額に手をやる。 トレイを持った安達がトコトコと喜色を浮かべてやってくる。 「良かったです会えて。今日一日、郁さんに会えないんじゃないかと心配してたんですよ。郁さんのお隣りいいですかぁ?」 「だから、お前ら!郁さん、郁さんって一体さっきからなんなんだ!!」 堂上の咆哮に答えたのは、自慢げに胸を張った安達だった。 「本日、11月19日は、関東図書基地のオスカルこと、かっこかわいい堂上郁三正を崇め奉り敬い慕う会が制定した『かっこかわいい郁の日』なのです!」 ちょっと待って!何その称号!何その会―――! 「会長はわたくし安達萌絵一士が僭越ながら務めさせていただいております。ちなみにこちらの柴崎三正は名誉顧問であります!」 「柴崎ぃ〜〜〜〜〜っ!」 「あらやだ。あんたに関することであたしが関わらないとかありえないでしょ」 「余計なことに首突っ込むなあぁ〜〜〜っ!」 「安心して?ちゃあんと、あたしが可愛い郁担当だから」 「安心ってなんだ!担当ってなんだ!」 「そして勿論、あたしはカッコイイ郁担当です!」 「だからなんなのその担当って!」 やめて!恥ずかしい!すんごい恥ずかしい!なにこの羞恥プレイ! 顔を覆って郁は堪らず崩れ落ちる。 「ま、そんなわけで、今日は年に一度のアイドルを身近に感じるファンイベントみたいなもんなんで、多めに見てやってください」 「見れるか!そんなくだらんイベントは即刻中止しろーっ!」 かっこかわいい堂上郁三正を誰よりも愛でる、厳格なアイドルプロダクションの社長兼マネージャーみたいな過保護で独占欲の強い夫の猛反発に合い、「かっこかわいい堂上郁三正を崇め奉り敬い慕う会」主催の「堂上郁三正を名前で呼び慕おう企画」は半日足らずで中止となることとなった。 なお、事の顛末を知った特殊部隊の面々が面白がり、毎月19日を「郁の日」としてバカ騒ぎをするのはまた別の話である。 |