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「―――郁!」 勤務中に名前を呼ばれ、そんなことはないだろうな、とは思いつつ郁はすぐ隣にいた『上官』であり、今は夫でもある堂上をチラリと見遣り、 ―――わお! とヒクリと頬を引きつらせた ―――これは、大変怒ってらっしゃる。 ムッツリと不機嫌さを隠すことのない顔の眉間にはくっきりとした皺が刻まれている。 ―――ボ、ボールペン挿めそうなんですけどっ! 不機嫌度MAXな夫の様子に、郁は戦慄く。 ―――怒られるっ!てか、お仕置きされる!! このことに関して郁は何もしていないし悪くない、はずだ。けれど、嫉妬を宿した夫の矛先は必ず自分に向かうことを学習している郁である。 郁がいくら「いや、あたし悪くないし!落ち度はない!」と主張し、周りもそれを事実認定したところで許してくれるほど、郁の夫は甘くない。・・・いや、甘いか甘くないかと言われたら、甘すぎて郁は時々殺されそうになるのだが。それはそれ、これはこれとして、堂上は存外嫉妬深い男だった。 チラリと明日の勤務内容を思い浮かべて、フラリと気の遠くなる思いがした。 ―――3時間コースどころか、5時間コースの可能性大とか、あたし死んだ!明日のあたしは屍決定です! なぜこんな時に限って、半日勤務か。 そんな勤務だったら 「半日ぐらい気力で頑張れるだろう」 とか言われるに決まってるじゃないか! 反論や抵抗なんてマジ無意味!むしろその分激しく扱われるに決まってる! そこはもっと、こう武術訓練とか!市内哨戒とか!他にもいろいろあるだろうが! なぜこの日を半日勤務に当てた!シフト作成者出て来い!・・・まぁそこで出てくるのは夫・堂上篤なのだが。 こうなりゃ、一か八かで柴崎のとこに逃げ込むか?と郁は一瞬だけ思うが、すぐにいや、と考えを改める。 一か八かも何も、郁が柴崎のところに着いたときには、親友はすでに夫に買収されているだろう。げに悲しきは格差社会だ。そして、あの女はにこやかに郁を迎え入れ、郁を簀巻きにして、というかラッピングして堂上に贈呈するに違いない。 ―――やる。あの女なら絶対やる! 日頃、各方面から学習しろと言われるいわゆる学習能力が低い郁だが、身に危険が迫る事案なら話は別だ。生存本能は動物のもっともたる本能だ。 ―――逃げんな、あたし!ここで逃げたらお仕置き倍増確実!それ、なんて死刑宣告よ!! 嫉妬を宿した夫のお仕置きはねちっこい上に激しいのだ。 恐る恐るもう一度夫の顔を覗けば、そこにあったのは能面だった。ひぃっと郁は内心縮み上がる。 ニヘラと笑って誤魔化そうかとかチラリとでも思ったが、そんなことすれば火に灯油缶どころかニトログリセリンぶっこむようなものだ。 ―――どこの大バカ野郎が篤さんの嫉妬心に火ぃ付けやがったのよ!ゲーム感覚とかだったら、マジセメント!! 聞こえた方向。堂上のさらに向こう側にキッと視線を向けた郁は、そこにいた短髪のスポーツマンタイプの男に、ん?と首を傾げた。ん? ―――見覚えがあるような?ないような?あるような? ん?ん?と顎に手を当てて考え込む郁の様子に気づいたのだろう男が吹き出した。 「おいこら!たかだか数年で先輩の顔忘れんな」 それをヒントにがっしゃんがっしゃんと片っ端から記憶の引き出しを開けてひっくりかえす。―――ポン! 「あっ!富松先輩!!」 大学の陸上部の3期上の先輩に行き着いた郁は、思わず自分の立場を忘れて駆け寄る。 「わー先輩!お久しぶりです!」 「顔忘れてたくせに調子いいなお前。だからたまにはOB会に出てこいって言ってるだろ」 「あははーすみません。予定が合えばーとは思ってるんですけどね、なかなか」 ◆◆◆ くしゃくしゃと頭を撫でられている郁の姿に、堂上の背負うオーラが濃くなる。 「わー。懐いてるねぇー笠原さん。もしかして、元彼、とかだったりして」 面白げにクスクスと笑う小牧を堂上はギロリと睨む。 普段年上男の甲斐性だのなんだのと余裕風を吹かせ、年下でかつ恋愛初心者の郁にあわせ、時折翻弄しているように見えるが、その実過去の交友関係、特に知らない異性との関係においてナイーヴなのは堂上の方だ。 「―――バカなこと言うな!」 そう威勢よく返す言葉の割に、精彩を欠く表情に「おやまぁ」と小牧は笑う。余裕のなさがバレバレだ。 確かに郁の「初めて」の相手は堂上であり、そのことに疑いはないが、だからと言ってそういう雰囲気にあった相手がいなかったとは言い切れない。郁本人に自覚がなかっただけで、案外とそういう相手は多かったのかもしれない。無自覚天然すぎて気づいてないだけで、郁本人が言うほどモテなかった訳がない!というのが堂上の本音である。だってあんだけ可愛いんだ! 「今日はどうしたんですか?」 「ちょうど近くに営業に来たから、ついでに久しぶりに後輩の嫁の顔でも拝もうかと思ってさ」 ―――嫁 ピクリと堂上の眉が跳ね上がる。 「わー。あの人堂上の先輩でもあったんだー」 「なわけないだろ!」 「うん。知ってる」 にっこりとからかい満載の小牧に堂上の機嫌が浮上する要素は一つもない。下降速度は加速する一方だ。 「いやー、まさか笠原さんに堂上以外の旦那が居たなんてオドロキだね!」 煽る言葉に堂上の眉間には最大数の皺が寄る。 「嫁って・・・だから、先輩、それ止めてくださいってば。あたしと将吾はそんなんじゃないって何度言えば」 ―――ショウゴ。 新たな男の名前に、堂上は耐えの姿勢をあっさりと投げ捨てた。 「―――郁」 地を這う声に、郁はビクゥっと跳ね上がった。 そして振り返って、後悔した。 ―――鬼がいる!! ひぃいっ!と縮み上がる気持ちの中で、なんとか声を絞り出す。 「あ、あの、きょ、教官っ?ま、まだ。き、勤務時間です、よねっ?」 ドモリ過ぎだし、語尾上がりまくりだしで、かなりヘロヘロではあったが、なんとか声を絞り出した。 ―――逃げ出さなかったあたしを誰か褒めて!! しかし、相手は無情だった。 「巡回時間はついさっき終わった」 怖々左手首をひっくり返して確認すると、予定時間を1分ほど確かに過ぎている。 ―――こまっかっ・・・!! 「なんだ、嫁はもう上がりか?」 もはや郁に突っ込む気力はない。 「だったら、久しぶりに飯食いに行かねぇ?旦那もあと1時間すれば終業だし」 ―――先輩空気読んでぇ〜〜〜!!それが出来ないなら、せめて黙って!! 隣から発せられる絶対零度の空気に郁の表情が固まる。ついでに時間も固まれ!その間に逃げるから! 富松に悪気がないのは分かる。 彼は上下関係の細かなところに目くじらを立てるタイプではなく、気さくな先輩で、郁にとっては同じ初速に力を入れるタイプのスプリンターだったこともあり、在学中はよく構ってもらった。後輩とよくコミュニケーションをとる先輩の一人だったので、男女関係なくよく部活上がりにご飯も食べにも行った。 だから多分その時のノリのまま郁を誘ってくれていると言うことも分かるし、こんな状況でなければ郁だって乗った。しかし、今は状況が悪い。悪すぎる。最悪といってもいい。 何か言わなきゃ!と郁が口を開くより先に、堂上がにこりと極上の営業スマイルを浮かべながら言った。 ―――ひぃい!!何その顔!!笑顔が怖い教官は小牧教官だけで十分ですって、堂上教官!! 小牧に知られたら、笑顔で恐怖心をあおられそうなことを内心ガタガタ震えながら郁は思う。 「申し訳ありません。彼女はこのあと別業務を控えておりますので」 本日の業務は以上終了であるが、それを正直に伝えるほど郁もバカではない。ただしテンパりすぎてて思わず部活の先輩に対して敬礼して答える。 「そ、そうなんです!なので、今日はちょっと無理です」 「そうか。じゃあ、また次の機会な」 「は、はい!!」 「小牧、というわけだ。俺と笠原はしばらく抜ける。先に事務所に戻っててくれ」 「りょーかい」 笑いをかみ殺しているのだろう。小牧の肩が震えているがもうそんなこと一切構ってられない。 堂上にガッチリと腕を掴まれてズルズルと庁舎裏に引き立てられながら、郁は己の末路を悟った。 ―――これは完全アウトパターン!! ◆◆◆
「―――で?」 バンと両腕を庁舎の外壁に突かれ、壁と鬼に挟まれた郁は「ひぃ」と顔を引き攣らせ、壁に寄りかかりズルリと腰を落とした。そうすることで、鬼を眼前にとらえることになり、ますます縮み上がる。そしてそれが一層堂上の機嫌の悪さに拍車をかけるのだが、そこまで気を回す余裕は郁にはない。 「あ、あの、ど、堂上“一正”?お、お仕事は?」 苦し紛れに笑いながら言った言葉が失敗だったことを郁は瞬時に悟った。絶対零度のブリザードが容赦なく襲う。 「―――ほう」 「ひぃっ!」 「旦那が居る身じゃ、他の男を名前で呼ぶどころか愛称でも呼べないってか」 「なっ!少しでも場を和ませようっていう必死さが分かりませんか?!あんたそれでもあたしの夫か!」 「お前は余計な気を回せば回すほどドツボに嵌ることをいい加減覚えろ! で、―――あれは何だ。嫁ってなんだ。ショウゴって誰だ」 地を這うような声で矢継ぎ早に投げかけられる質問に、郁はかつてないほど脳を回転させる。ここで下手に言い訳をしたり、余計なことを口に出せばいっそうの怒りを買うのは経験上分かっている。 「さっきのは、大学の三期上の先輩です。嫁っていうのは、当時のあたしのあだ名というか、そんなもので。将吾は同じ陸上部の同期でそれ以外の関係はありません!」 ちなみに先輩にはマネージャーしてた同期の奥さんがいるということも付け足しておく。それでも夫の機嫌が収まる様子はない。 「―――名前」 「は?」 「呼ばれてたし、呼んでたな」 郁は基本親しい人間も含めて名字呼びがデフォルトだ。今でこそ郁は堂上のことを名前で呼んでいるが、そうなるまでには結構な時間を要した。年上で上官相手であったとはいえ、そんな妻があっさりと他の男の名前を呼ぶのは堂上にとってはなかなかに業腹だ。加えて、身内以外で自分以外の男が郁の名前を呼ぶのも気に食わない。 堂上の言葉に、郁は「あー・・・」と視線を泳がせながら、言葉を紡ぐ。 関係ないと言えば関係ないのだが、意外と気にしいの夫はそういう些細なことでも拗ねる可能性があることを郁はもう分かっている。だからといって黙っていれば黙っているほど拗ねさせることが分かっているので、黙ったままではいられないのだが。 「えっとですね、」 おずおずと郁は切り出した。 「あたしと将吾、苗字が同じだったんです」 「―――は」 「だから、大学の部活で笠原郁と笠原将吾っていう同じ名字の人間が同じ短距離部門に居たんで、部活関係者はあたし達を名前で呼んでるんです。で、偶にふざけて笠原嫁とか笠原旦那とか呼んでたのがいつの間にか定着しちゃって、それで」 「そこは抵抗しろ」 「しましたよ!してましたけど!・・・まぁそこは隊長の熊ドッキリと同じというか、言っても無駄だったので諦めました」 「諦めるなそこは!」 「いや、だって、まさかこんな所でそんな大問題が起きるなんて夢にも思わなかったし!」 「っていうか、なんでまだそんな渾名が罷り通ってるんだ!」 「あー・・・多分、それは・・・」 「それは?」 「あたしが結婚したっての、知られてないから、だと・・・」 「何でだ!」 「だ、だって部活関係なく仲良かった子は別として、他は別に言わなくても支障ないかなーって。機会があればその時言えばいいかと思って・・・」 「支障ありまくってるだろ!いいから早く、結婚して姓が変わったことを関係者一同に連絡しろ!今すぐだ!!」 「はいぃっ!!」 ものすごい剣幕で怒鳴られ、郁は慌てて携帯を取り出し、史上最速ではないかと思われる速度でメールを作成し送信した。 それから――― 「おーい笠原元嫁!再婚したってマジか?!」 「再婚じゃないです!初婚です!」 「証拠見せろ証拠!」 「ほら、芸能人みたいに左手見せてみろ」 「いや。指輪じゃ分からん。自前の可能性もあるからな!」 「誰がそんな虚しいことするか!」 「よし!旦那だ!旦那連れて来い!」 「そんでここで誓いのキッスでもブチかませ!」 「もうウルサイ!あんたたちウルサイ!帰れ!散れ!仕事の邪魔だぁーっ!!」 ギャーギャー騒ぐ集団に、小牧が軽く上戸に入りながら堂上を見遣る。 「いやー、ウチのノリにそっくりだね、あれ。 ウチにすんなり溶け込んだのは性格だけじゃなくて、もともとの下地があったんだね」 ワシャワシャと構われている郁の姿に堂上の眉間に皺がくっきりと刻まれていく。 堂上が雷付きの怒号で郁を呼びつけるまであと少し―――。 「言えって言ったの篤さんじゃーんっ!」 |