ハッとして目を開ければ、薄暗い部屋の天井に向かって手を伸ばす自分の腕が見えた。
ドッドっと全身が脈打ち、浅い呼吸を繰り返す。
なんという悪夢。
パタリと横に下ろした腕は、いつもならそこにある温もりを探して、冷たいシーツの上を泳ぐ。
顔を向ければ、ぽっかりと空いた空間がやけに目に付く。
すぐに目を逸らして、身体を起こす。
起床時間には早すぎるが、とてもではないが、二度寝する気にはなれなかった。
くしゃりと前髪を掻き上げながら、立てた片膝に頭を付けて、息を吐く。
夢の原因なんて判り切っている。
夢は深層心理の表れだと言うが、あれは自分の心の奥底にあるたった一つの不安そのものだ。
郁が自分に向ける感情が敬愛で、思慕ではなかったといつか言い出すのではないかと心底懼れている。



彼女の姿が目に見える時はいい。
彼女の目が誰を追っているのか。まっすぐにその感情を向けているのが誰なのか。その相手はすぐに分かるから。
その視線の先にある背中は自分のもので。肩を並べて歩くのは自分で。そして向けられる笑顔は自分のものだ。
分かりやすく、隠し事の出来ない郁の表情は雄弁で、心の奥底にある不安なんて浮かび上がる暇はない。
離れていても、彼女が関東図書基地内、自分のテリトリーに居ればいい。
職場も同じどころか、班も同じであれば業務中はほぼ一緒であるし、そもそも基地内であれば郁が一人になることはほとんどない。
館内警備にしろ哨戒にしろ単独行動では行われず、バディは原則班内で組まれる、そうでない場合は特殊部隊内の人間だ。
実戦においては、指揮系統となる班長である自分と、その特性から伝令役を任される郁はセットになることが多い。
そして図書隊において、入隊してから徹底的に叩きこまれる階級による上下関係は、プライヴェートにおいてもフラットに考えることは難しい。
そんな中で「一正」という階級はなかなかの牽制力を持つ。入隊時から「三正」の位を拝命した自分は同期内でも頭一つ抜き出た存在で、現在同じように昇進を重ねているのは図書大を首席卒業した小牧くらいのものだ。
図書大最後の卒業生である自分達以下の者でそれを上回る昇進スピードを持つ者はいない。
つまり、自分と同等あるいはそれ以上の階級を持つのは必然的に自分よりも年上の人間ということになる。
それに全くの危機感がないと言えば嘘になるが(何せ、10歳の歳の差をものともしないカップルが身近にいるのだから)、自分以上の年齢、階級となると既に家庭を持っている者がほとんどだ。
結婚の有無がどれだけ出世に関係しているのかは定かではないが、それなりの年齢で階級になると外野の世話が入り、上官に縁のある人間を紹介されると言う話はけっして少なくはなく、必然的に上の階級にあるものは所帯持ちになる傾向があるのは事実だ。
より不安を煽る、郁に近しい年の者にとって郁は名実ともに「上官の女」であり、精鋭部隊、特殊部隊の若きエリート堂上篤に正面切って喧嘩を売るような輩はいない。それとなく色目を使う人間の存在は皆無とは言えないのが頭の痛い問題ではあるが、自分の妻が魅力的であるということは男として嬉しいことであるのは事実であり、郁が「それとなく」で伝わるような女なら苦労はしないというのが救いだ。男の機微に疎い妻で良かったと思うのはこういう時だ。
そして何より彼女は今なお変わらず、特殊部隊の愛すべき娘っ子でお姫様であることが、基地内で心配しなくてもいい大きな要因の一つだ。
そして、正面から素直に認めるのはいろいろと複雑だが、彼らは自分のことも心底可愛がってくれている。
特殊部隊の面々の普段の姿はアレだが、根幹は大人の集団であり、自分達夫婦を大切に思ってくれていることを知っている。
もし、不埒な思いで郁に近づく奴がいれば自分と同じように殴りこみにいく勢いで相手に制裁を加えるだろう。
敵に回れば厄介だが、「元から可愛かったあたしの笠原の可愛さに今更気づくような、目利きのない男に、あたしの可愛い笠原は渡しません!」と堂々宣言する郁の親友たる柴崎の存在も防御壁となっている。郁本人には伝わらない色目も、横から躊躇も遠慮もなく叩き落している。



けれど、今は違う。
一人で管外出張に出ている郁には、自分の、特殊部隊の、柴崎の目はない。
彼女の周りの状況が見えない。何かあっても手を出せない。



特殊部隊はその業務柄、他の部署に比べて他所に出向くことが多い部署だ。
こうして夫婦別々の場所で寝るのは初めてのことではない。
けれど、今まではこの寝室に残るのは郁の方で、出ているのは自分だった。
経歴や実績の問題で、今まで郁が一人で遠方に出張に出されることはなかった。
これまでも話がなかったわけではない。
全国初、唯一の女性特殊部隊としてもともと図書館内でその存在は大きかっただけではなく、センセーショナリズムを引き起こした「革命」の第一立役者である彼女の名は実名報道こそされなかったが、その存在は鮮やかに世間の前に姿を現した。
近年、防衛部を志望する女性隊員が増えた要因は検閲抗争で火器の使用が禁止されたことだけではなく、彼女の存在が大きいことは明白だった。
そして第二、第三の「笠原郁」の育成に上層部が力を入れ始めるのは当然の流れだった。
けれど、その頃はまだ功績こそ輝かしいものではあったが彼女自身、指導される側から抜け出しているとは言えず時期尚早と見送られていたのだ。
だけど、今は違う。
新人隊員の錬成教官を経験し、指導者としての実績を積んだ「特殊部隊員 笠原郁」を外に出せない理由はなくなった。



これから先、彼女は自分のいないところで新しい世界を見るようになる。



それが怖いと思うことは、郁に対して、郁が自分に向ける感情に対して信用していないようで、失礼なのだろう。
分かっている。分ってはいるのだ。
彼女はきちんと自分をそう“愛”してくれているということは。
けれど、普段愛しいと思う彼女の純粋で無垢な精神が時に恐ろしいとも思う。
男の機微に疎いというのは、それだけ経験がないということだ。
事実、恋愛経験は中学止まりだと言っていた彼女の情緒は幼く、憧れの背中の持ち主を「王子様」と呼んでいたことでもそれはそれは明らかだ。



恋に憧れる恋愛初心者は憧れを恋に容易く昇華させる。



彼女から向けられる視線は「憧れ」だと、だから自惚れるなと、無理矢理自分を言い聞かせていた頃もあった。
だけど、もう無理だ。
彼女は宝石なんかではなく、生身の人間だ。
箱の中ではなく、自分の腕の中に彼女を閉じ込めた今の自分には無理だ。
彼女の温もりを、彼女の甘やかさを直接に知ってしまた自分には無理だ。
例え彼女の想いの本質が憧れだったのだとしても、それで構わないと思う。
勘違いのままでいいから。
勘違いだと言うのなら、騙し続ける。
ずっと傍に居てくれるのであれば、それでいいとすら思う。
何をしたって、彼女を離せはしない。
生半可な気持ちで触れたわけではない。
彼女に触れた瞬間から、それは覚悟としてあった。



触れたら最後―――。





心底惚れぬいて、心底信用における女だからこそ。
不安に思い、失う恐怖に怯える。



ヘッドボード上にある携帯に手を伸ばす。
郁に会いたい。せめて声だけでも。



いつだって郁を甘やかしているようで、本当は自分が郁に甘えているのだ。
知っている。理解している。
どうしようもない、自分の不安も焦燥も何もかも受け止めて、慰めて、宥めてくれるのは郁だけだ。



開いた携帯の発信ボタンは押せなかった。
浮かび上がる液晶画面。そこに映る時刻。
指を滑らせて、一つのフォルダを開く。
現れたのははにかんだ郁の顔。自分に向けられた笑顔。
両手で携帯を掴み、ぎゅっと額に付ける。





「―――早く帰ってこい」



この腕の中に。
抱きしめさせろ。
そして。



「大好きって言え」



俺を。











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