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―――篤さん。 呼ばれて振り返れば郁が、困ったような顔をして立っていた。 「何した」 そう言えば、いつもなら。 「何もしてません!」 そうふくれっ面をしながら切り返してくるのに。 ―――篤さん。 呼ぶ声は、静かで。 その表情は、やはり困ったような顔で。 困った“ような”顔で。 そんな顔をする郁が何を思っているのか、抱えているのか読み取れない。 ザワリと胸の奥で小さな渦が出来たかのように何かが掻き立てられる。 郁の表情が意味するものが読み取れないことに不安が生じていく。 普段の郁は喜怒哀楽がはっきりとしていて、何を考えているのか分りやすい。 うっかり満載の上に、思考回路ダダ漏れ機能を搭載している堂上の妻は隠し事が出来るタイプでは到底ない。 くるくると変わる表情に、安堵したり、呆れ、焦り、宥めることはあっても、その表情の意味を読み取れずに困惑することは付き合いだいしてからはほとんどなかった。 付き合いだす前だって、本当は分っていた。ただ、自分に向けられるその表情の意味が、本当に自分の思う通りだと思うには、自身の感情に素直に向き合えなかったし、その通りの意味に受け取ることを恐れていて、自惚れるにはその関係はあまりにも不安定で、自分の都合のいいように解釈しているのではないかと、その意味を受け取るのを躊躇っていただけだ。 そう、いつだって郁は真っ直ぐに自分を見ている。 けれど、どうだ。 今、自分の目の前に居る郁は。 困ったような顔を向ける郁は。 一体どんな想いを抱えて、自分を見ているのか。 苦しい、と思った。 息苦しい。 この、訳のわからなさを、誰かどうにかしてくれ。 けれど、どこかで分りたくないとも思う。 ―――篤さん。 フルリと郁の長い、真っ直ぐな睫が揺れる。 ―――ごめんなさい。 何が。何だ。何で郁は謝っている。 一体彼女は何をしたというのだ。 ぐるぐると思考が渦巻いていく。 追いつかない感情に、一つ一つの機能が硬直していく。 どうした? 駆け寄って、抱き寄せて、そう尋ねてやりたいのに。 足も、腕も、口も意思とは裏腹に動いてはくれない。 ただ静かな、快活ないつもの郁とは違う静かな声だけが響く。 ―――ごめんなさい、篤さん。 ―――あたし。 ―――違ったみたいです。 何が違うんだ。 何が違うと言うんだ。 けれど何がとは聞けなかった。 聞きたくなかった。 それ以上言うな! 何一つ言葉にはならなかった。 ただ飲み込むことも、吐き出すことも失敗した息がひり付いた喉奥でひゅぅっと鳴った。 ―――他に好きな人が出来ました。 グラリ。 世界が歪んだ。 足元から世界が崩れる感覚に陥る。 郁の口から零れる音が意味をなして脳に届かない。 ぐずぐずと解れた音を拾い上げ、構築し、言葉にしていく。 一つ一つの音が、言葉が、いやに大きく響き、身体中が細胞から浸食されていく。 思考が上手くまとまらない。 「いく。なぁ、いく。おまえ、なにいってんだ」 なぁ、何を、言ってるんだ。 上から降る郁の言葉は、突き刺すように身体の自由を奪っていく。 その場に縫い留められたように身体が重く動かない。 張り付いた声帯は言葉を生み出さず、静かな空間で、ただ郁から降る言葉を全身に浴びるしかない。 ―――あたし。今でも篤さん、“堂上教官”のことを一番に尊敬してます。 どうじょうきょうかん。 プライヴェートでは、もう久しく呼ばれていないその呼称に、ドンと一つ心臓が大きく跳ねる。 俺はいつまでお前の教官だ? そう郁に言ったのは、“彼女”から“婚約者”に彼女の立場が変わったその日だ。 その日から、郁は懸命に名前呼びに奮闘し、「教官」から「篤さん」と顔を真っ赤にさせながら慌てて言い直したりしていた。 「堂上教官」とそう呼ばれるのはプライヴェートではない。そう徹底してきた。 それを、彼女は敢えて言いなおした。 その意味を、知りたくない。理解したくない。 そう思うのに、凍りついた神経では彼女の言葉を停める術を持たない。 ―――教官の背中は、私の憧れで。ずっとその背中を追いかけたくて。今でも追ってるのは教官の背中だけで。 ―――ずっとずっとそうで。それは今でも変わらなくて。 ―――でも、違ったんですね。 ―――憧れと恋は。 ―――あたし、判ったんです。 ―――ようやく、判ったんです。 ―――他に好きな人が出来ました。 聞きたくない言葉を、彼女は繰り返し言の葉に乗せた。 まっすぐに、見つめる双眸が全身を射抜く。 射抜かれて、穴が開く。 自分の身体から、大切なものが次から次に零れていく。 身体の芯から冷えていく。 足が竦む。 何も見たくない! 何も聞きたくない! 止まってしまえと思う。 今、この瞬間。 まだ彼女が自分の目の前に居るこの世界を切り取って欲しいと思う。 頼むから! 誰でもいい! 停めてくれ! 彼女を! 自分の前から消えていきそうな彼女を! 今すぐに!! ―――許して、なんて言いません。悪いのは勘違いしてた私だから。 ―――教官。 ―――ごめんなさい。 それから。 ―――ありがとう。 そして。 ―――さようなら。 身を翻す彼女を引き戻したくて、懸命に腕を伸ばすが、肩にも腕にも指先にも触れることはできず。 指先からスルリと彼女の後姿がすり抜けていく。 自分の居ない世界に溶けていく。 「――――いくっ!」 咽が裂ける思いで絞り出した叫び声すら、彼女には届かない。 |