「堂上は、笠原さんが何をやっても許せると思う?」




唐突に紡がれる言葉には前後の繋がりなど当たり前のように全く無く、それでありながら答えを求める事にいやに真剣な顔をするせいで、問われた堂上は面食らったように目を見開き、固まってしまった。
目の前でにこにこと何が楽しいのか笑うその顔を呆然と見つめ、其れは一体どういう意味で問われているのかと、動きの鈍い頭で真剣に考えてはみたものの、上手い切り替えしが浮かんでこない。頭の中に残響するのは、『何をやっても許せると思う?』の部分だけだ。
「―――小牧、」
「許すような気がするんだよねー。例えばさ、笠原さんが堂上の事刺しちゃっても」
「ちょっとマテ。どういうイメージなんだ、俺は」
幾ら相手が大事に大切にしている妻とはいえ、理不尽な理由で刺されるのは冗談じゃない。それは寧ろお前の方じゃないのか、と目の前の小牧を睨み付けたが、すっかりそんな視線に慣れてしまった相手に、幾らドスを効かせても無駄な事だった。


「―――許すとか許さないとかはその時になってみないと判らんだろうが。
 ・・・第一俺は、浮気を許す気はないぞ」
例えば、郁が他の男に自分に向けるのと同じような顔で笑いかける。腕を組む。手を繋ぐ。キスをする。そして―――。
考えるだけで腹が立ってくる。だからもし、―――彼女の性格からして、それは浮気ではなく本気で、そうなればすでに自分は切られた後なのだろうが―――もしそんな事になったら自分がどうするのか。
冷静でいられない頭で、果たしてどれだけの犯罪を行うか。例えば傷害、暴行、あるいは殺人。そして監禁。少しそんな莫迦な事を考える。けれど、冗談だと笑い飛ばせる自信もない。
だから小牧の言うように『何をやっても許せる』というのは、多分無い。


「浮気とかじゃなくてさー・・・何て言うのかな、」
腕を組みながら珍しく難しい顔をして考え込んでしまった小牧を、微かに苦笑いを浮かべながら見つめ、堂上は視線を手元の書類へと移した。
今更見回す事務所の中には、自分達以外の隊員は居ない。図書館は閉館時間を迎え、日勤者はすでに2時間ほど前に業務時間を終えている。特殊部隊は事務仕事よりも戦闘分野の方がメインであるし、もとより独立した特殊部隊庁舎に出入りする人間はそう多くなく、庁舎の中はしん、と静まり返っていた。
夏の盛りも過ぎ、すっかり日が暮れるのが早くなった窓の外は、もう夕陽も地平線の彼方に沈もうとしている。
そろそろ帰る時間だと思うと、自然と時計を見上げてしまう。
「―――笠原さんがさ、堂上に何か我侭言っても、堂上は絶対叶えちゃうだろ」
「―――ああ、」
そういうことか、と堂上は頷く。
「だから、そういう事。
 よく、手塚がね、言うんだよ。堂上は笠原さんに甘過ぎるって」
自覚もあった事をよりにもよって手塚に言われるなんて、と堂上は思わず苦笑する。これでも一応業務中は控えているつもりだったのだが。
確かに自分は、彼女に甘い。し、弱い。ウチの娘っ子だと言って彼女を甘やかそうとする先輩隊員にも「甘やかすな」と何度も言っているが、多分自分が一番甘やかしている。
何でも叶えてやりたいと思うのは驕りだが、そう思っているのも事実だ。
それを恐らくは、彼女自身が一番嫌がると知っていながら。


「それで、『何をやっても許せるか』、か」
「実際はどう?」
「どうだろうな。そもそも郁はそういう我侭らしい我侭を言わないからな」
話題が話題だったせいで、事務所で思わず名前呼びをしたことに気づいた堂上が思わず顔をしかめる。それに小牧は「今更気にしなくてもいいのに」と小さく吹き出すが、まだ自分の中で仕事は終わっていないのだ。プライベートな話をしていて、それこそ小牧の言うように今更ではあるのだが、そこはもう長年染み付いた性格なので仕方がない。


「―――それに代償を求めてんだから、『何をやっても許せる』とは、少し違うだろうよ」
与えれば与えた分だけ、同時に同じモノを返して欲しいと貪欲に思う。だからそのせいで傷付ける事も間々ある。それは内側であったり表面的なモノであったり。
薄く、何処か自嘲めいて笑う堂上の表情に、小牧は何も言えなくなって、何かを言い掛けた口を閉じた。
「・・・お前、毬江ちゃんと約束してんだろ。そろそろ行かないとマズイんじゃないのか?」
納得がいかないというのを顔に出す小牧を無視して、机の上にあった書類を整える。
「―――俺はもう帰るぞ」
拍子抜けしたようなその表情に、少し皮肉げに笑ってみせた。
「―――堂上?」
「お前に心配なんぞされなくても、大丈夫だ」
少し、言い聞かせる程に弱かった事、堂上自身は気付いてたかどうか。それなら良いんだけどね、と小牧は苦笑し、「じゃ、遠慮なく」と勢いよく立ち上がる。漸く、納得したらしい。
他の人間に見せない内情がどれだけ複雑であろうとも、そんな事は当事者以外には関係の無い事だ。
「じゃな、堂上」
「ああ、」
納得はしても、言いたい事は未だあるとその顔に貼り付けたまま、小牧はそれでも事務所を出て行く。長い付き合いになればこんな時は酷く楽だ。勝手に、深く入り込んで欲しくないと理解してくれるから。
小牧の足音が遠ざかる。時計を見上げれば、そろそろ残業が三時間目に突入しようかと言う時間だった。
誰に強制された訳でもなく、否応がなく、という部分も多分にあるにはあるが、こうしてある程度時間を潰してから事務所を出る。それが何時からかの日課になってしまっている。
小牧が去り完全な静寂が事務所を包むと、堂上も漸く立ち上がる。
一人の時間は好きだ。心臓の音と、息遣い。何一つない静寂の中で、確かに自分は生きていると認識出来る。
けれど、一人で居る事よりも居心地が好い場所もあると、知ってしまった。






息をする方法は、案外簡単だったりするものなのに、時々忘れそうになる。










「おかえりなさい!」
「―――ああ、ただいま」

反応する瞬間は僅かに遅れたものの、すんなりとそれに返す言葉が出てきた自分にほっとした。
自分のテリトリーのドアを開けたところに他人が、郁が当然に居る事に対して違和感を覚えなくなってくる。
それは問題なのか良い事なのか堂上には分からない。
好いた惚れたという相手とはいえ、結局は他人同士の生活だ。一緒に暮らし始めた当初は、郁は極度に緊張して借りてきた猫よろしく、カチンコチンに固まってぎこちなくしか動けなかったというのに、今ではパタパタと自在に動いている。郁もまた二人での生活に慣れたことを示している。




「―――篤さん?どうしたの?何か、難しい顔、してるけど。何か不満でもあるの?それともお疲れ?」
「そうか?」
心配げな視線を向けられ、ネクタイを緩め、クローゼットに備えられた鏡を見つめながら溜息を吐く。
不満と言うか、疲れと言うか。判り易い表情をしていたかと思っていたが、やはり鏡の中の自分の表情は、何時もと何ら変わりが無い。


「ん、そうだな。郁が満面の笑みでも浮かべて抱き付いて『オカエリナサイ』とでも言ってくれたら元気になるかな」
呟いて妙な願望だと苦笑いを浮かべた。恥ずかしがり屋の妻は無意識ならまだしも意識的にそんな事はしないだろうと判りきっているし、自分だってそんな対応をされた日にはどんな反応を返すか判らない。
再び深く吐き出した溜息は、そんな事を考えた自分に対する呆れだったのか。
着替えを再開しようと背を向けた瞬間、衝撃が、きた。


「―――!」
驚いて振りむけば、腰の部分に顔を埋めた郁が居た。
「―――いく」
名を呼べば、真っ赤にした顔が上がる。
綺麗だと、素直にそう思う大きなその目と視線が交錯した。
その細い腕が、後ろから腰に巻き付けられる。ぎゅ、と握り締められた手のひら。
「―――おかえりなさい、篤さん」
行動に、驚かされるのも今更だ。大きく目を見開いたが直ぐに、自分の腹の上でしっかりと握り締められた手の上に手を重ねる。少しらしくない行動だと、自覚はありながら。
「―――ただいま」
「えへへ」
でもやっぱ恥ずかしいね、と照れたように笑う郁の姿はとんでもなく可愛い。
新陳代謝が高いせいなのか、その身体は何時も温かい。
だから少し、何時も縋りたくなる感覚が消えない。
甘やかすとか弱いとか、そういう事では無くて多分、『トクベツ』であるという事を自分にも相手にも理解させようとしているからなんだろうと、やはり少しらしくない事を考えた。



「―――郁。サンキュー。ホラ、離せ。着替えられない」
「―――やだ。・・・癒し中なの」
「どこのオコサマだ。離れてて寂しかったのか?」
でも、それはお互い様だと、それは口には出さずただ苦笑いを浮かべた。だから多分侮れないのだ、彼女を。
何も見ていない分かっていないと態度で示しながら、そのクセ誰よりも何もかもを見通している。
きっちりと自分の上で握られる小さな手を見つめて、じわじわと這い上がる感情に、仕方なさそうに笑った。
「―――寂しいよ。だめ?」
拗ねたような言葉が耳に届いた瞬間、やはり固まってしまった。
妻は自分が何を言ったのか、本当に理解しているのだろうか。疑念とか戸惑いが、頭の中をぐるぐると駆け巡っていく。
「・・・郁?」
一方的に後ろから抱き付かれるのは、いい加減我慢の限界だ。見下ろした顔は腰に埋められてよく見えない。多分紅くなっているのだろうと考えると、自然と口元に笑みが零れる。
強引に腹の上で組まれていた腕を解き、絶対に逃げられないように片手を掴んだまま振り返る。
俯いた髪の隙間から覗く耳が、紅かった。
「自分で言った台詞に照れるな」
「ウルサイ! ・・・篤さんがワルイんじゃん」
「何で俺のせいなんだよ」
理不尽な怒りをぶつけられて呆れたような表情を浮かべたが、腕で顔を隠そうとする、もう一つの腕の方も掴み、身動きが取れないようにしてしまう。見返してくる視線の強さだけが、やはり何時もと変わらなかった。渇いた喉の奥が鳴る。
「郁」
反射的に俯いた、こめかみにキスをする。途端にびくりと震えた小さな肩。相変わらずこんな触れ合いには慣れないらしくて急に愛しさがこみ上げる。
固く閉じられた瞼の上、鼻の頭と頬。顔中に唇を落として、もうやだヤメテと、言われる程に繰り返す。
柔らかな唇の上、自分のそれを軽く重ねると、離れた瞬間に口から零れたのは安堵にも似た溜息。行き場が無さそうに泳いでいた手のひらを握り締めた。
「疲れて帰って来た旦那を癒してくれないのか、奥さん?」
「・・・ばかっ」
「何とでも言え」
唇を重ねると、もう文句も言う気は無くなったようだった。諦めたように閉じられた目。
誰に何を言われたのかは知らない。問い掛ける気にもならなかった。ただ、そう。例え理由が何であったとしても、彼女がそう思った、という事実が、自分にとっては何よりも重要な事だ。
そんな事を言われずとも、多分自分は相当甘やかされている。
キスが深くなればなる程、縋るように握り締められる手のひらは、とても愛しい。






「―――ご飯、まだ途中だったんだけど」
もう!と小さく拗ねる顔がまた可愛いと思う。
「飯、外に食いに行くか?最近デートもできてなかったからな」
手を伸ばせば、少しだけ葛藤したのか小首を傾げて、そうして直ぐに差し伸べられた手を掴む。
そう言えば自分はまだ着替えが済んでいない事を思い出したが、まぁどうでも良いかと軽く息を吐く。
繋いだ手の先の表情がやけに嬉しそうで、何だかんだと自分まで笑顔になる。





「―――お前が俺を刺しても、確かに俺はお前を許すんだろうな」
「なに?突然」
「いや、何となく」
別に理解などしなくても良い。第一、彼女はあの場に居なかったのだからこの話が指している本当の意味など、知る筈も無い。
考え込む時下を向くのではなく上を向いて思案するのは、クセなのだろうか。
そうされると、郁より背の低い俺は彼女の顔が見えなくなるから少々不満だ。



「―――そんなこと、ない、って言いたい、けど。
 もし、あたしがそんなことする時は多分、もうどうしようも無くなった時なんだと、思う」
握り締められた手のひらに力が込められる。
「―――そうか」
「うん」
素直に頷く姿に、微かに仕方なさそうに笑う。
それがどうしようもなくなった自分から逃げる為なのか或いは愛情の裏返しなのか、その時にならなければ判らないけれど。
それでもきっと、最期の瞬間まで彼女を想う事が出来る自分はシアワセなのだろうと、苦笑いを浮かべた。
笑う理由が判らないと、首を傾げる妻の手を、強く握り締めながら。



一人の時間を敢えて作ろうとするのは、きっと。
彼女が居なくなって、自分一人が取り残される、そんな『もしも』を心底懼れているからなのだと、そう思った。












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