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「奇跡かぁ・・・」 ソファーを背もたれにして、テレビを見ていた郁がクッションを抱き抱え、そうポツリと漏らした。 感受性の強いところがある彼女は、よくこんな風に見たテレビや読んだ本に感情が引きずられることがある。 「お前にとっての奇跡ってなんかあるのか」 自分とは違う柔らかな色素の薄い髪をそっと撫でながら尋ねれば、「うーん」と少し悩んだような声を漏らした後、続けた。 それは、自分とはどこかズレた感性を持った彼女らしく、いささか、いや、かなり俺を落胆させる回答だった。 「やっぱり、図書隊に入隊できたことかなぁ〜・・・」 「はあ?お前、そこは俺と出逢ったこと、じゃないのかよ」 思わず、ふて腐れたような声が出てしまったのはある意味仕方がないことと言えよう。 少なくとも、俺は、そう思っているから。 言えば、郁は少し困ったような顔で振り返り仰ぎ見た。 「そう、言われたら、確かにそうなのかもしれないけど。 でも、図書隊の採用試験に合格してなかったら、篤さんとこんな風に過ごせなかっただろうし。 きっと篤さんとは再会出来ず、王子様の面影を思い続けるだけで終わってたはずだもん。 だからやっぱり、試験に受かったことが一番の奇跡だと思うの」 篤さんとの出逢いは、運命?なんて、笑う。 「だからって、たかだか採用試験合格ごときで奇跡は大げさ過ぎやしないか」 このご時世、公務員人気は高く準公安職に位置づけられる図書隊にも毎年多くの志願者がある。 だからといって、公務員人気の中で図書隊が高い人気を博しているかというとけしてそういうことはなく、地上行政職の倍率に比べれば可愛いものだ。行政職に比べ、公安職の人気はどうしたって落ちるものだ。 今でこそ検閲抗争における火器の使用が禁止となり、直接的な命の危険が軽減されたとは言え危険が0になったわけではない。 身を守るための盾も全力でぶつかり合えば、相当な衝撃になって襲ってくるし、さらに大きな力が加われば圧死をも招く。 非戦闘員である図書館員であってもけっして安全が確保されているとは言えない。何の前触れもなく、「鉄砲玉」が飛び込んでくることだってあるのだ。 そのために、基礎訓練は戦闘員非戦闘員の区別なく行われる。非戦闘員といえど最低限自分で自分を守る能力を有してもらわないと困るのだ。 図書館という場所を職場にする以上、どうしたって危険は常に伴う。 命を懸けて何かを守ろうとするとき、その上位にくるのは国や人であり、本の優先順位が下がるのはどうしようもない事実だ。 そうであるから、図書隊は公務員人気の中では狙い目だとも言われている。 滑り止めで受ける者も多く、内定後辞退する者も少なからずいるため、受験者と合格者の数に比べ、実際の倍率は低くなる。 そんな採用試験を奇跡と位置づけるのは正直どうかと思って言えば、郁はじっとりとした目で睨め上げてきた。 「篤さんさ、『たかだか』とか、『ごとき』とか言ってるけど、それってあたしに対してすっごいイヤミって分かってる?」 いや、だが―――と言おうとして気づく。己の妻の座学の出来を。 「―――お前よく一次試験受かったな」 「しみじみ言わないで!それはそれでムカつくから!!」 そう言われると、確かに奇跡的と言えないこともないなと思えてしまう郁の記憶力に思わず苦笑が漏れる。 郁にはけっしてセンスがないわけではないのだ。直感的に物の本質を見極める力は抜群であるし、理解力がないわけではない。ただ、脳より先に身体で覚える方が覚えがいいだけだ。 感覚派である郁はその知識を実務で着実に吸収して身につけている。知識だけで実践に移せない人間よりも特に防衛方の現場ではよっぽど使える。 ただ、いかんせん記憶力が壊滅的で基本条文ですら危ういというのは上官として頭の痛い問題ではある。昇進試験時に叩きこんだ暗記項目も解答用紙に移したようで今では随分とぼやけた状態だ。 「よっぽど頑張ったんだな、お前」 よーしよーし、と犬を褒めるようにわしゃわしゃと頭を撫でてやれば「もうっ!」と吠えながら郁がむくれる。 「だから奇跡って言ったじゃん!何度就職課の先生に『奇跡が起きない限りムリだ、諦めろ。大人しく学内推薦受けろ』って言われたことか」 そんなん受けて受かったら辞退なんてできないっつーの!! 「就活してなかったのか」 「そんな余裕ない!試験勉強で手いっぱいだったもん。二度目はないからそりゃ必死よ!」 入隊のために就職浪人とか出来ないもん、という郁に確かに以前の家庭環境じゃ無理だろうなとぼんやりと思う。 おそらくその為に親元を離れた大学に通っていたのだろうし。 「―――不安はなかったのか?」 「何がですか?」 「そんな風に言われていて、受からなかったらって」 「あー・・・」 そこまで言って、郁は言葉を切り小さく苦笑した。 「あたしは、多分。他の受験生より恵まれた環境でした。 そりゃ、覚えは悪くて勉強は苦労しましたけどね。 就職は、どっかしらできましたから。だから就活せず勉強だけに集中できたんで」 不思議そうな顔をしたのであろう俺に郁が小さく笑う。 「あたし、大学では陸上部だったんですよ」 「いや、そりゃ知っているが。というか、お前それで大学入ったんだろ」 「そうです。つまりあたしは、部の中でいわゆる成績上位者だったんです」 郁の履歴書を思い出す。 ―――ああ、そうだったこいつは。 優勝経験こそなかったが、郁はインハイ、インカレでも上位入賞を果たすスプリンターだった。 高校時代はその成績で大学に推薦入学できるほどの実力だった。おそらく、陸上界では将来を有望される選手の一人だったのだろう。 「だからですね、いくつか実業団からのオファーもあって、図書隊の採用が決まるまで顧問がいくつか残しておいてくれたんですよ。 まぁ流石に、条件のいいトコはそんな時期まで残ってませんが、それでもどこかには就職できてたんですよね。 でも、就職浪人はしないとは言え、働きながら走りながら勉強なんてそんな器用なことあたしには出来ないから、図書隊に受かるにはその一年しかなかったんです」 受かって良かった―と笑う郁に、ああそうか、と奇妙な気分になる。 ―――ああ、そうか。郁にはそういう未来もありえたのだ。 再会した当初、図書隊から追い出そうとしていたのは自分だったと言うのに。 図書隊である郁が当たり前になり過ぎて、そうでない郁がいるなんて今ではもう考えられなくなっている。 部下でも、恋人でも、妻でもない郁は確かに一つの世界として当たり前に在ったのだ。 その事実に今更ながら胸の奥が軋む。 それでも、と思う。 ―――それでも、いずれ俺は郁と再会していただろう。一方的に。 趣味と実用を兼ね、新聞もニュース番組も一通り見る。 そして、そこで見つけるのだ、『彼女』を。 凛として清廉な、けれど守りたいと強く思わせる頼りない女の子の、輝かしい姿を紙面の画面の向こうに見つけるだろう。 そして、知る。 彼女の名前を。 『笠原郁』 限りなく透明に近いイメージだった彼女が。 その瞬間よくある話のように、王子様のキスで魔法が解けるお姫様のように、名前を与えられた彼女は実体化する。 目の前に現れた生き生きとした彼女から目が離せなくなる。 ああ、彼女はあんな風に綺麗に風を切って走るのか。 ああ、彼女はあんな風に悔しがるのか。 ああ、彼女はあんな風に嬉しそうに笑うのか。 いつもどこかで探していた。 図書館や街で、茶色のショートカットの女性を見かけるたびに、思わず目を止める。 そしてその度に落胆するのだ。 自分の胸を射抜いた彼女ではないことに。 忘れられようはずもなかった。 ずっと。ずっと。 彼女は自分の中に居て、大切に大切にしまわれていた。 そんな彼女をようやく見つけた。 竦んでいた背中をピンと伸ばし、途方に暮れていた顔は真っ直ぐにゴールを見据える。 そんな彼女の姿に安堵する。 ―――ああ、あの時の彼女はこんなにも輝いている。 そして自分は、それからひっそりと彼女の活躍を追いかけるのだ。 「―――会いに来てはくれないの?」 「行けるか。俺がそこで行けるようなタマならその前にとっくにお前のとこに行ってる」 会おうと思ったら、きっと会えていた。 郁とは違い、自分は彼女の姿をしっかりと焼きつけていたのだから。 あの書店の近隣の高校を片っ端から尋ね歩けば良かったのだ。 だけど、そうはしなかった。 彼女が、昏い世界から遠い所にいるのなら、それだけで良かった。 自分の行動や想いはそれだけで報われる。 ずっと、ずっと彼女は大切な輝ける『宝石』のまま自分の中で在り続ける。 そして。 「そうじゃなくても、おそらく、図書館で再会してただろ」 「あー、確かに。・・・あたしは分かんないんだろうけど」 本好きな彼女は図書館に足を運ぶ確立は高いだろう。 その中で、関東に住んでいれば一番の規模を持つ武蔵野第一図書館に足を運ぶ確立も。 |