「はい、柴崎」
「ありがと」
コトリと前に供されたグラスは、たっぷりのクラッシュアイスに注がれた、手製のカモミールティだ。夏らしく涼やかなペパーミントが浮かび、シュワシュワと無数の泡が弾ける。
「今日はサイダーなのね」
「うん。夏らしいでしょ?」
目の前の椅子に腰を下ろし、にこりと笑う郁の表情は「人妻」という言葉の響きを感じさせないほど相変わらずのあどけなさだ。
(そりゃぁ、教官もイロイロ心配になってアレコレ構いたくなるわよねぇ)
カラカラとグラスに挿されたストローを回しながら、相変わらずラブラブですことー、と柴崎は声に出さず笑う。
ウチの方こそ新婚なのにね、と思わないでもないが、そういうイチャイチャはお互いの柄ではないので、結局はウチはウチ。ヨソはヨソ、だ。幸せの形はそれぞれだ。



「ん。美味しい。さすが堂上教官ってとこかしら?」
「ちょ、それ失礼!あたしもいーれーまーすー!!全部が全部篤さんって!!」
ぷくーと頬を膨らませる姿は妙齢の女性のそれではない。
「・・・一番最初にこれ作ってくれたのは、確かに篤さんだけどさぁ」
ここに居るのが堂上であれば「そんな顔しても可愛いだけだぞ」とか何とか言いながら、頭を抱き寄せてワシャワシャ郁を撫でているところだろう。一つと言わずキスも浴びせているかもしれない。
堂上に言えば「そんなことするか!」と言われそうな想像だが、長年ウォッチングしてきた柴崎にはお見通しだ。
もっとも、そうしたくなる堂上の気持ちも柴崎には分かるので、頭撫で撫でもキスも省き「ほっんと、あんたは可愛いわぁ〜」とだけ言っておく。テーブルを挟んでいなければ抱きついているところだ。郁を可愛いと思うのはなにも堂上だけの特権ではない。




「よかったらレシピ教えようか?
 っていうか、いくつかハーブ持って帰らない?」
「わざわざいいわよ」
「いや、っていうかむしろ持って帰って欲しいっていうか」
「どうしたのよ」
「夏だからさー、家中のハーブ類がすくすく育っちゃって。適宜摘み取ってはいるんだけどねぇ〜」
「ああ。それなら分けてもらおうかしらね。
 あんたよりは使いこなせるだろうし」
「だからどうして、あんたはそう一言多いかな!」



堂上家には緑が多い。各部屋の出窓には小さな鉢植えが並び、ベランダにはプランターが並ぶ。なかなかの家庭菜園ぷりだ。
此処でガーデニングと出ないのは柴崎センスによるもの、では当然なく、それが観賞用ではなく食用であることを知っているからだ。
植わっているのは、カモミールやミントを始めとした、バジル、セージ、レモングラスと言ったハーブ類だ。
元は郁が夫婦で思い入れのあるカモミールを育て始めたことによるのだが、その後の種類の増加は堂上の趣味だ。
「男の人の方が凝り性って言うしね」と郁は笑うが、そりゃあ自分が作った物を愛らしい顔を綻ばせ、「美味しい美味しい」と愛妻が食べるのなら、あの郁バカ男はとことん手を掛けるだろう。
郁自身は「篤さんの手を煩わせて申し訳ない」と思っているようだが、柴崎に言わせれば、「あの人はあんたの世話するのが趣味みたいなもんなんだから、好きにやらせてあげたらいいのよ」という感じだ。
堂上としては郁にもっと甘えて欲しいというのが本音であるが、当の郁が甘え下手で出来る限り自分ひとりで解決しようとしてしまうため、堂上がせっせと自ら郁を構いに行っているのが現状である。
生真面目で仕事に真摯で、エリート街道まっしぐらの特殊部隊堂上班班長は、既婚者といえど女性からの人気は上々で、「仕事には厳しいけど、私生活だと優しくて甘いなんて知れたら、ますます篤さんの人気が上がっちゃう!やだ!そんなの!!」と目の前の親友は涙目で言うが、むしろ嫁へのダダ甘っぷりを見せたほうが世の女性はあっさり引き下がるのではないだろうかと柴崎は思う。あの人が甘い顔を見せるのはアンタだけだ。どれだけ言っても肝心の郁には伝わらないが、そういうところもイイのだと堂上は言うだろう。
「絶対あたしのほうが篤さんのこと好きだと思うのよね」とどれだけ旦那にベタ惚れされているのか自覚のない郁は不安に思うことはあれど、その性格からも自惚れることはない。もっとも無自覚に惚気てはいるのだが。



「でね、篤さんったら案外可愛いものすきなんだよー」
堂上篤可愛いものランキングでぶっちぎりの首位独走状態の人間がなにを言うか。
「ミッフィーとかピーターラビットとかウサギのキャラクターについてすっごい詳しいんだよ!意外だよね」
「そこを“意外”の一言で片づけるかあんたは」
「??意外じゃない?」
汲めよ、そこは。
奇しくも堂上と同じことを思い、柴崎は苦笑する。



「ほーんと、可愛いわねぇ」
「でしょう!!」
我が意を得たり!とばかりに身を乗り出してくる郁の頭を「可愛い可愛い」と撫でる。
柴崎の言う可愛いは、堂上の思惑の斜め42度くらいの微妙に角度のズレた反応を返すニブチンな郁に対してであり、そんな郁にささやかな嫉妬をさせたいのであろう堂上の子供っぽい行動に対してのものだ。
(っていうか、あの人はどんだけこの子の関心を向けたいのよ。)
きっと堂上の本意としては、拗ねた郁を宥めるという口実でここぞとばかりに甘やかし倒したかったに違いない。そして拗ね顔も可愛いとか思うのだあの男は。
内心のデレデレを隠しながら、俺が好きなのはお前だけだ、とか。言っても分からないのなら、行動で示してやる、とかなんとか言って、イチャイチャに持っていきたかったに違いない。
想像しながら、ふとフツフツとしたものが沸いてくる。
(確かに?そりゃあ私の笠原はとんでもなく可愛いですけど?
 だからって、どんな時でも独占したいとか、それはちょっと横暴すぎるんじゃないの?)
同室者として、親友として、時には母のように姉のように、郁の堂上に向ける表情を見守ってきたのは柴崎だ。
親友夫妻が仲睦ましいのは喜ばしいことだし、可愛い可愛い笠原が愛されるのは当然だと思う。
思う。が、しかし。
「あたしの笠原なのに!」という思いもあるのもまた事実だ。
意識しあっているのはバレバレで、お互いに向ける想いのベクトルは向き合っているのははたから見れば一目瞭然なのに、意地を張って周りをヤキモキさせていたあのジレジレ期間はなんだったのか。付き合いだした途端、鬼教官の異名はどこへやったというベタベタっぷり。
触りたくても触れなかった時間を取り返すつもりなのかもしれないが、それにしたってちょっとばかり自重しろという感じだ。
だいたい、郁が普通に男と話しているだけで嫉妬して苦々しい思いをしているのに、そういう思いを態と郁にさせようとか。
(あたしの笠原に対して一体何様のつもりなのかしら、あの男は。)
知らず知らずのウチに溜まっていたフラストレーションが一気に弾けた。
それは例えば、茹だるような夏の暑さであったり、夏期休暇期間における学生利用者の大幅な増加に伴う業務量の多さであったり、堂上にしてみれば完全なとばっちりであるが、そのあたりは一切合切関係なくその辺に放り投げておく。
職場も一緒。帰る家も一緒。休みが合わせずらいシフト勤務の中で、同じ班に所属していて公休パターンも一緒。分かれるのは、どちらかが(主に堂上だが)休日出勤して公休変更があった時くらいだというのに、それでも満足しきれないとかどんだけ独占欲が強いのか。
(たまには私に笠原を返してもらったって構わないわよね。)
今日の郁と柴崎の逢瀬時間は夕方までだが、柴崎の中で時間延長が決定した瞬間だった。
(時間もいい頃合いだし。)
今日は珍しく堂上夫妻が別々に時間を過ごす日だ。
というのも、今日は来年度の図書隊員の採用試験日で各部署から数名ずつ試験監督として借り出されているのだ。特殊部隊からは堂上と手塚が選出され、試験会場である近くの大学に出向いている。
試験終了までもう間もなく。
通常業務と違って、残業が課されるような仕事ではない。当然のように、堂上と郁は駅で落ち合いそのまま夜デートに出かける予定だが、そこは柴崎とのデートに書き換えさせてもらう。
季節は夏。夏真っ盛り。モールではサマーバーゲンが絶賛開催中なこの季節。
これはもう買い物に行くしかない。郁を引き連れて。
堂上だけでなく、手塚もとばっちりを受ける形になるのだが、この際そこには目を瞑る。



にっこりと、柴崎は魅惑の微笑みを浮かべ、堂上が用意した爆弾の起爆スイッチを押す。
不発弾が時限爆弾に早変わりだ。




「でもさー、あんたは少しでも疑わなかったの?」
「何を?」
「教官がウサギに詳しい理由」
「?」
「例えば、昔付き合ってた彼女がウサギ好きだったとか」



静まり返った部屋に、パチっと気泡が弾ける音が小さく響く。



妹の存在を仄めかさなかったのは態とだ。
郁に際限なく甘い堂上のことだ。不用意な場面ならともかく、意識的ならば尾を引くようなことはしないだろう。おそらくは、「妹に付き合わされて」などという落とし所を用意していたはずだ。そうして最後は大団円だ。
でも、そうしてはやらない。
そう。これは罰だ。
我が物顔で郁を独占しまくる堂上への。



郁の携帯が震える。
おそらく堂上からの「今から帰る」コールだろう。
携帯をとった郁の行動は速かった。「案件は脳まで持っていけ」と常々言われているが、彼女は相変わらず脊髄反射の娘だった。



「篤さんの浮気ものー!!」
力一杯電話口で叫ぶ。
「は?おい!いきなりなんだ、浮気って!」
焦る堂上の声が漏れ聞こえるが、激高している郁は聞く耳を持たない。
「うるさい。ばか。知らない!!
 あたしだって浮気してやるー!!」
「いくっ!!」
電話の向こうから悲鳴のような声が聞こえる。
ざまぁみろだ!
すっきりした柴崎は、ブチっと携帯の電源を力任せに落とした郁ににっこりと笑う。
「気が済むまで、私が浮気相手になってあげようか?」
「わーん、柴崎ぃーーー!!」
抱きついてくる郁をよしよしと慰める。
「ストレス発散に、バーゲンにでも行きましょうか」
そう提案すれば、コクンと首が揺れる。



『用事ができたから、今日の予定は後日日を改めて。
 今日は堂上教官と呑んで帰ってらっしゃい』
旦那宛に手短に用件を送り、柴崎は携帯のマナーモードをサイレントモードに切り替える。
郁の行動を逐一把握したがる男は、当然にこの時間郁が誰と過ごしているのか知っている。すぐに浮気相手、というよりも教唆犯が誰であるか思い至るだろう。そして鬼のような着信を送ってくるだろうがガン無視だ。



気持ちを落ち着けるカモミールのソーダティーを飲み干して、柴崎は郁の手を取り優雅な足取りで街に繰り出した。








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