足早に庁舎を抜け、外に出れば鈴虫やコオロギの声が聞こえる。
官舎へと向かう道はすっかりと暮れ、藍色の空が広がっていた。
防犯も兼ね、適宜設置された外灯のおかげで足元は明るく、もともと光源の強い都会の空ではあまり星は見えないが、黄色く浮かぶ月は綺麗に藍色の空に映えていた。
「堂上郁」の行動予定表が「帰宅」に返されてからそろそろ2時間といったところだ。
今日は堂上に定例の班長会議の予定が入っていたので、この残業は織り込み済みであったからか、帰宅前に「今日の夕飯は期待していてください!」とやけに自信満々な笑顔で妻が宣言していた。
張り切るのはいいが、台所は破壊してくれるなよ、と何事にも全力投球な愛妻の姿を思い浮かべ、堂上の頬は思わず緩む。
さて、今日は上手くいった妻を褒めるか、あるいはしょぼくれている妻を慰めることになるのか。どちらにせよどんな郁も「可愛い」という結論に達するのには違いないが。


結婚し、同じ家に住むようになってそろそろ半月が経つ。
共働きでもあることから、堂上も可能な限り家事をやっているが、立場上どうしても勤務日は堂上の帰宅の方が遅くなる。そのため必然的に夕飯の支度は郁が行うことが多くなる。
もともと寮生活でお互いに掃除洗濯は習慣づいていたため特に問題はなく行えたが、図書大出の堂上は大学時代から寮生活であり、スポーツ推薦で大学に行っていた郁も栄養管理が徹底された食事が供される寄宿舎に入っていたため、二人ともいわゆる一人暮らしの経験がなく自炊をした経験がほとんどなかった。
郁は婚約期間中に女子寮内にある家庭部で料理の基礎を教わっていたが、いかんせん付き合うまでの時間に比して婚約から入籍、そして官舎への移動はほんの数カ月という最短期間でこなしてしまったため完全に習得するにはいささか時間が足りなかった。
その腕前は食材を調理過程で物体Xに変えてしまうような壊滅的なものではなかったが、形が不揃いなものは御愛嬌として煮込みが足りなくて具に火や味が通っていなかったり、逆に煮込み過ぎてドロドロになったり、鍋が焦げ付いたり。見た目から今日は上手く出来たと思ったら、味付けのバランスが悪くやけに塩からかったり、かと思えば砂糖が入り過ぎていたりとその料理の腕はまだ発展途上だ。
けれど、どんな料理の出来であってもそこに並ぶのが郁の手料理であれば、堂上は嬉しいと思うし、感謝もするし愛おしくも思う。「料理は愛だ!愛があればLove is O.K.!!」なんて言葉がキャッチフレーズの料理番組のようなバラエティ番組もあったが、まさしくその通りだと思う。
何だっていい。郁が作ってくれるものなら、どんなものだっていい。どんなものでも食べきる自信はあるし、食べきることが出来るのは自分だけでいい。というか、自分以外の人間に郁の手料理を食べる機会をそうそう与える予定もつもりもない。
ただ、あまり失敗が過ぎると自分以上に郁がダメージを受けるので、失敗はそこそこで留め置いて欲しいものだとは思う。
「料理もまともに出来ないなんて、あたしは篤さんの奥さん失格です!」
なんて、こっちの制止も無視して飛びだしかねない。逃げられたからと言って大人しく逃がすつもりは毛頭ないし、追いついて捕まえ直す自信もある。瞬間的にトップスピードに乗る郁は短距離こそ堂上よりも上だが、長距離になれば堂上の方に分がある。それは走力だけにとどまらず、殊郁に関しての堂上の忍耐力と持久力は年季が入っていて特殊部隊総員の折り紙つきだ。だからと言って、余計な時間を使いたくはない。一緒にいられる時間は一分一秒でもおしい。


見上げた部屋の窓からはカーテンの隙間から明かりが見える。それだけで心が軽くなる自分はなんと現金なことか。
仕事の疲れもない軽い足取りで堂上は一階分の階段をすぐに上り切る。
玄関を開ければふわーっと甘辛いような醤油の匂いが漂う。
―――今日は煮物か。
靴を脱いでいる所で、パタパタと郁が駆けてくる。
「おかえりなさい、篤さん」
「ただいま」
引き寄せて、頬に軽く唇を寄せれば郁は顔を真っ赤にさせ、それでもはにかみながらもう一度「おかえりなさい」とキスを返してくる。恥ずかしいと真っ赤になった顔を両手で押さえる姿はいつまでたっても初々しく、どこまでも可愛い。そんな郁の姿をもう少し堪能したいとも思うが、煽られ過ぎて抑えが利かなくなるのもマズイと思い、堂上はポンと頭に手を乗せて、「今日は何を作ったんだ」と聞く。その途端郁がパっと表情を変え「聞いて聞いて」という風なあどけない笑みを見せる。
―――ああ、もう!お前はホントいちいち可愛くて仕方がない!!
暴れそうになる本能をなんとか競り勝った理性で抑え込み、大人しく郁の続きを待つ。
「今日はね、大根とイカの煮物を作ってみました」
「ああ。いい匂いがしてる」
「今日は、イカは捌いて貰ったんだけど、次は自分で出来るように頑張るね」
「なんだ、一杯丸ごと買ったのか。煮物用にカットされたものもあるだろ」
「そうなんだけどね。そっちの方が経済的だし、ワタはおつまみに使えるからって。
 ワタ味噌も作ったから、そっちは晩酌用に出すね」
「そうか、それは楽しみだな」
「味は大丈夫、なはず。うん。いや、今日のは絶対大丈夫!」
「なんだ、今日はやけに自信満々だな」
イカの煮物は今日が初めてではないが、前回作った時はイカが硬くなってしまいゴムのような状態に仕上がってしまったのだ。味付け自体は大きな失敗はなかったのだが、なかなか噛み切れないイカは郁にとっては大きな課題となっていた。
「そうなの!あのね、今日は、」
そこで、キッチンから声が掛った。
「笠原〜?」
―――?!
この官舎の一室の住人は堂上と郁の夫婦二人だけで、郁のことを「笠原」と呼ぶ「堂上」はこの空間にはいなくて。
というか、郁を「笠原」と呼ぶ声は完全に女の声で。
というか、その声の正体は嫌というほど分かり切っていて。
どういうことだ、と堂上が尋ねるよりも先に郁がにっこりと邪気のない笑みで答えを言った。
「柴崎が料理教えてくれるって来てくれたの!」
「―――は?」
「あのね、ほら、やっぱりまだ、料理慣れなくて、失敗も多いでしょ?」
「それは、仕方ないだろう?お互いこれからなんだし」
「そ、なんだけどね。早く篤さんにおいしいご飯食べて欲しくって」
モジモジ、と顔を赤らめ、恥ずかしそうに俯きながら言う郁は相変わらず可愛い。
「料理本見ながらやっても、よく分かんないこともあるしって柴崎に相談したらね、時間がある時は教えてあげてもいいわよって言ってくれて」
「―――だからって」
「ほーんと、可愛い上に健気とか、たまらん。ですよねー、きょ・う・か・ん?」
面白がるように、んふっと科を作りながら出てきた柴崎の姿に、堂上は思わずガクリと項垂れる。
いや、分かってはいたことだが、やはり実際に出てこられるとダメージは皆無ではない。
―――なぜ、居るか。
郁が健気で可愛いことなどとうの昔に知っている。わざわざ言われるまでもない。分かっているから、頼むから、プライベートの平穏な時間を邪魔をしてくれるな!
言ったところで、現況は変わらないことをとうに理解している堂上はただ溜息だけを零した。


「ほらほら、笠原。いつまでも玄関先でイチャついてないの」
「いっ!イチャついてなんてっ!!」
「あらあら。そーんなに顔を真っ赤にさせちゃって、ほーんとに可愛らしいこと、ねえ教官?」
「うるさい!」
「はいはい、お邪魔虫は退散しまぁーす。って言いたいところですけど。
 ほら、笠原、いい加減仕上げに入るわよ」
「そうだった!
 あ、篤さん、もうちょっとだけ待ってて下さい。すぐご飯の準備しちゃうんで」
「―――分かった。その間に着替えてくる」
「はい!」
にっこりと笑い、柴崎と楽しそうにじゃれあいながらキッチンに戻る郁とは反対に、堂上はもう一度重い溜息を吐き、家に戻るときにはなかった重い足取りで部屋に入った。










スーツから部屋着に着替えリビングに入れば、煮立った醤油の芳香が強く立ちこめる。食欲をそそる香りだ。
キッチンからはキャッキャと華やかな声が響く。
第三者の客観的な視点から見れば羨ましがられる様な光景なのだろうが、釈然としない思いが強いのは見ているのが堂上で、そこにいるのが柴崎だからだろう。
「ほら、笠原。食べてごらんなさい」
あーん、と差し出された箸に迷うことなく郁がパクつく。二三度咀嚼した顔がホロリと溶ける。
「んー!おいひー!!イカ柔らかぁーい!ぷりっぷり!!」
両頬に手を当てて至福の表情だ。
目の前に居るのが、柴崎で良かったと安堵するべきなのか、此処は。
―――頼むから、そういう顔を俺の知らんところでホイホイしてくれるなよ!
表情豊かなのが妻のいいところで可愛いところだと思っているが、あまり簡単にそんな表情を見せられたらこちらとしては堪ったものじゃない。
山猿だのなんだのとからかわれていた時期はとうに過ぎ、その自然味あふれる純真な可愛らしさや、誰もが羨むスレンダーなモデル体形は今や多くの隊員の知るところであり、結婚したからと言って全く安心などできやしない。むしろ結婚してから今までにない艶が出てきたなどと噂されているくらいで、極上の蜜のおこぼれにあずかろうとする害虫駆除に忙しいくらいだ。追い払っても追い払っても次から次に湧いて出来るとか、何なのだ一体。
どんな輩が相手であろうと引いてやる気は一切ないし、手離してやる気もないが、それとこれとは話は別だ。
―――俺が一体どれだけの苦労と時間を掛けて手に入れたと思っている!
郁はそれだけのことをして然るべき価値の女であり、そうそう簡単に興味本位で手を出していい女ではない。
だからと言って、同じように粘られても業腹ものなのだが。
救いなのは、郁が男の機微に疎く、天然無自覚にスパーっとあしらっていることや、普段近くにいて、その手のことに慣れている柴崎が意図的にお引き取り願わせているということだ。そのことを思うと柴崎には感謝の念がなきにしもあらずなのだが、いかんせん普段が普段なので素直には喜べない。場合によってはこちらの反応を見て楽しむために郁を合コンまがいの飲み会に参加させたりということもありうるからだ。
郁にとっては信頼のおける存在でも、その夫からしてみれば少々厄介な存在なのである。




「イカと大根は時間差で煮るのがコツなのよ。同じだけ煮ちゃうとイカが硬くなるからね」
「そーなの!この前ゴムみたいになっちゃって」
「だから、イカはまず先に出汁に付けてある程度味をしみ込ませた後、さっと煮て取り出しておくの。
 それで最後に炊き合わせると柔らかいままでしょ。
 それと大根は電子レンジで加熱してから煮ると、早く柔らかくなって味の染み込みもよくなるわ」
ほら、っと今度は大根を摘まんだ箸を口元に運べば先ほどと同じように郁はパクンと遠慮なく食い付きまた顔を綻ばせる。
「おいしー!ありがとー柴崎!!」
大好き!と抱きつく郁の姿に可愛いと思うよりも先に頭痛を覚えるのは何故だろうか。
それは多分というか絶対、郁の抱きつく相手が自分ではなく柴崎だからだ。
男だとか女だとか関係ない。郁に関しては少しの余裕もない。格好悪いと思わないでもないが、それがどうした。
自身に対して完全に開き直れるくらい、堂上はすでに郁に対する想いを自覚している。
―――ああ、そうだ。どんな相手にも、どんな郁をも渡せるわけがない。
全部。全部だ。郁の全てが欲しくて堪らない。ひとかけだって他の人間にやるのは惜しい。




「―――郁」
堪らず呼べば、パッと花を咲かせたような顔で振り向く。
「篤さん!今日のはとっても美味しくできましたよ!」
「そうか」
柴崎が居るのにも構わず、ポンと頭を撫でてやる。そうすれば郁は今日一番の笑顔を見せてくれる。
「すぐ並べちゃいますね。
 柴崎も座ってて」
「はーい」
うふふと愉しげに笑いかける柴崎はさっさとダイニングテーブルに腰を下ろす。
―――居座るのか!
勿論、手伝ってくれた人間を早々に帰す礼儀知らずではないが、思わず肚裏でこぼすのも仕方がないことと言えよう。


炊きたての白いご飯に、小葱を散らした豆腐と揚げのみそ汁。胡瓜と若芽の酢の物。そしてふっくらと炊けた大根とイカの煮物。
出汁を含んだ大根は箸の通りも良く、味も問題ない。前回は噛み切るのに苦労したイカもすんなりと解け、味も沁み渡っている。
100点満点をあげていい出来だ。
だと言うのに、微妙に飲み込めない感じがするのは何故だろうか。
「美味しい?」
と聞く郁に。
「ああ。上手い」
となんとか微笑み返しながら。

―――俺もさっさと料理の腕を上げる必要があるな。柴崎の出入りが不要になるくらい。

と堂上はこっそり思う。








鷹の爪が効いたワタ味噌を肴に日本酒を飲む本日の晩酌にも同席した柴崎に、堂上は「おい」と声を掛ける。
「おまえ、そろそろいいのか、時間」
官舎と寮は近いとはいえ、寮はそろそろ閉門時間だ。そろそろ切り上げなければ門限には間に合わない。
どっしり腰を下ろし、帰る素振りもない柴崎を促せば、嫌にニッコリとした笑みが返ってきた。
「御心配なく〜。明日は公休ですので〜」
「公休だろうがなんだろうが、門限はあるだろうが」
「だから、外泊出してますって」
「―――は?」
オイ、と隣で梅酒のハチミツソーダ割をちびちびと飲んでいた郁に聞けば、満面の笑みで残念な答えが返ってきた。
「明日は朝ごはんレシピ教えてくれるって!」
楽しみにしててくださいって。


―――マジか、オイ!!






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