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持ち分の仕事のみならず、合間合間に差し込まれた本来ならばこなさなくてもいいはずの余分な仕事もきっちりと終わらせ、プリントアウトした書類にざっと目を通す。アタッチした書類に押印し、いささか乱暴に決裁箱に放り込み、二割増しで深くなった眉間の皺を解しながら堂上が自席を立ったのはそろそろ時計の針が9時を回りきろうかというところだった。 良し悪しはあろうが、こういう時は勤務先と自宅が眼と鼻の先にあるのは素直にありがたいと思う。数分後には明かりの点いた我が家に到着する。 明日は日勤シフトなので、帰宅後は郁との団欒が幾許かは持てるだろう。 もしかしたら、夕飯も食べずに待っているかもしれない。 堂上としては、あまり遅くまで食事を待たせるのは忍びないので気にせずに食べるように伝えているが、「でも、篤さんと食べる方が美味しいし嬉しいから、待てるだけ待ってます」とはにかみながらそう言った郁は相変わらず堂上の心を擽る抜群の可愛さだった。 小首を傾げ、上目遣い気味に笑いかける郁の姿が瞬時に脳裏に浮かび上がり、解していた眉間の皺は瞬時に消えた。 「―――さっさと帰るか」 パソコンのシャットダウン操作をしながら、スーツの上着から携帯を取り出してみれば着信を知らせるランプが点滅していた。 着信時のバイブレーションはなかったので、メールであることが知れフォルダを開けばつい先程まで思い浮かべていた相手からの着信で思わず頬が緩む。勤務中メールは原則サイレントモードにしていることは双方(というよりも職場全体として)共通認識であるから、緊急性の場合は電話であることが常だ。 おそらくは労いの言葉と今日の夕飯のメニューが添えられた内容だと踏んでメールを開けば、おおよそ予想通りで一見して堂上の相好が崩れる。 が、しっかりと文字を読み進める内に、眉間にはくっきりとした皺が刻まれることとなった。 『篤さん。 遅くまでお仕事お疲れ様です。 今日の晩御飯は夏野菜たっぷりのカレーです。 篤さんが好きだって言ってたちょっと辛口のカレーに仕上げてます。 今日の分を小鍋に分けてるので、それを温めて食べてくださいね。 あと冷蔵庫にタマゴサラダも作っていれてるからよかったら食べてください。 使ったお皿は食洗器に入れておいてね。 手塚が帰ってくるまで、夜は柴崎のとこ泊まるね。 毎日出来るだけ、家のことはしておくから心配しないで。 郁 』 オイコラ待て。 なんだそれふざけんな、だ。 読み終わって即行で堂上は短縮番号で郁の携帯にコールする。 数コール後、明るい調子の声で通話が始まる。 「篤さん?今日はもうお仕事終わり?お疲れ様! メール見た?」 「見たから、掛けてる」 明るい調子の郁に反比例するかのように堂上の声は低く這う。 それを大して気にしていないのか、郁は変わらず「そういうことだから。こっちのことは心配しないで!」と元気よく頓珍漢な事を言ってのける。 「何が“そういうこと”だ!なんだってそんなことになったんだ!!」 聞いてないぞ!! 堂上の憤怒の声も、ある意味慣れてしまっている郁としては「隊長に仕事押しつけられて機嫌悪いのかなぁ〜」くらいの心持で受け止めて、よもや自分が原因であることなど思いもしていない調子で「えーだってぇ」と普段であれば愛らしいと思うのんびりきょとんとした声で返す。 「手塚が出張の間、柴崎一人なんだよ?」 「―――だから?」 「危ないじゃん!」 危ないって何がだ! 思わず堂上は吼えそうになるのを眉間を押さえながら堪え、努めて冷静に郁の説得に励む。 「あのな、郁。官舎だぞ」 「うん?そうだね。それがどうしたの? そりゃ集合住宅で、周りにお宅がいっぱいある状況だけど、家に柴崎一人ってのは変わらないじゃん。寮ならまだしも。 最近、近くで空き巣被害とか通り魔事件とかあって物騒じゃない? 篤さんだって、出張で家空けるとき私のことすごく心配してくれるじゃない? 戦闘職種の私だってそうなら、柴崎なんてもっと心配じゃん!」 郁に言われて、堂上は押し黙る。 言う。確かに言う。 これでもかってほど念を押して言う。 堂上の郁に対しての過保護っぷりは仕事面でもたいしたものだが、私生活におけるそれは、同僚を笑い死にするんじゃないかというくらいの発作を引き起こさせたり、優秀な部下を石化通り越して自ら空気化させる術を身につけさせるくらいに度を過ぎたものだ。 恋人、婚約者、夫婦と郁との関係がステップアップするにつれて、堂上自身の開き直りも堂に入り「可愛い嫁を心配して何が悪いんですか!」と隊の先輩らのからかいにも真正面から切り返す程に愛妻への溺愛っぷりは年々加速している。 だから、いくら“官舎”とは言え、可愛すぎる嫁が家で一人で過ごすとなればどれだけ心配してもしたりない。 心当たりのない送り主の封書は開けさせないし、夜9時以降に一人で出歩くなんてもっての他だし、戸締りも電話を掛けて確認させる。 が、あくまでそれは対郁用の堂上の心配であって、一般的な心配の範疇外である。 いい加減その辺を判れ!! と、思わないでもないが、その辺が全く理解できないところも可愛いのが堂上家の奥様である。 「でね、そんな話をしたらね。 『確かに最近なにかと物騒よね。 ね、笠原。光が留守の間、ウチに泊りに来てくれない? やっぱり、ひとりじゃ心細くって』 って、柴崎も言うしさぁ」 ―――なワケあるかっ!あの魔女めが本気でそんなこと言うわけあるか!! 郁に関してはダダ甘く箍が外れやすい堂上であるが、それ以外においては基本的に冷静さを失わず的確な物事判断ができる男である。 で、あるからして柴崎に対する評はあながち間違いではない。 これを柴崎に言ったのが郁でなければ、おそらく呆れ顔で(気心が知れてない相手ならそうと見せずあくまで内面で)一蹴したに違いない。 「は?何言ってんの?バカじゃないの? 此処をどこだと思ってんのよ?」 そう、民間のマンションならまだしも、此処は関東図書基地に隣接する図書隊の官舎だ。 居住者は戦闘のプロ(とその家族)という条件に加え、良化隊の襲撃に備え、24時間体制で図書館近辺は巡回が行われており、そこらのセキュリティマンションなんて目じゃないほどの高セキュリティが敷かれている。 そんなところに押し入ろうなんてするヤツはよっぽどの馬鹿だ。そしてそんな馬鹿を敷地内にいれるとか図書隊史に残る恥だ。 そんなところが分らないところもバカ可愛い郁と違って、当然に分っている柴崎が本気でそんな心配をしているわけがない。 堂上同様に、郁が可愛くて可愛くて仕方がない柴崎が郁の発言に上手いように乗っかっただけだ。 それを証明するかのように。 「そんなわけで、一週間ばかりお宅の可愛い奥さんお借りしますねぇ〜」 いつの間に変わったのか、電話口にはクスクスとした笑いを含ませた柴崎。 というか、―――一週間。 「長いわっ!!」 思わず本気で返す。 出張や奥多摩での訓練で、触れられないというのならまだ我慢できる。 しかし、何が悲しゅうて平時に一週間も愛妻を取り上げられねばならないのか。 そしてそんな風に堂上が文句垂れたところで、けして介しないのが柴崎という女である。 「大丈夫ですよ〜。お借りするのはほんと夜だけですから。 業務後は私も笠原と一緒にお家の片付けとか食事の準備とか手伝いますし〜。 笠原に負担はかけないよう配慮しますから」 ね、笠原。と郁を振り返って言っているだろう柴崎の声に、郁もうん!と明るく元気に良い子の返事を返す。 だから、お前は!! 本気で頭を抱えたくなる。 俺に一週間も独り寝をしろって言うか!! 配慮の場所が間違ってる!むしろ夜こそ借りるな!と柴崎には言いたい。 が、郁とは違い男の機微はよほど分る柴崎がその辺りを分っていないはずがない。 分っていての発言であろうことは想像に難くない。 堂上と柴崎の関係は言ってしまえば、郁を間に挟んでのライバルだ。 柴崎にとってこの状況は堂上と違ってさぞや愉しいに違いない。 一番の難敵が、妻が心底信頼を寄せる親友とか笑うに笑えない。 「そういうことだから。ね、篤さん?篤さんには迷惑かけないから!」 おそらく。というか、絶対。 目の前に居れば、小首を傾げて上目遣い気味でお伺いを立てるようにこちらを見てくる郁は即行で抱き上げてベットに放り投げたいほど可愛らしい顔をしているのだろう。 「ね、いいでしょう?」 そうして、その顔と声音での“お願い”に頗る弱いのが堂上篤という男でもある。 「―――・・・わかった」 弱弱しく答える堂上の声に「ありがとー篤さん!大好き!!」と相変わらずむしゃぶりつきたいくらい可愛らしい郁の声が返る。 「じゃぁ、旦那様の許可も下りたところで、そろそろお風呂に入りましょ。 カモミールのバスポプリ入れるわね」 わざわざ聞こえるように言ってくる柴崎の声が憎らしい。 「わー楽しみ! えと、じゃ私たちお風呂入ってくるんで」 「ちょと待て!まさか一緒に入るのか!」 「そですけど?」 「何でだ!」 「なんで?」 お前、俺とは散々ごねるくせに、なんで柴崎相手だとそんなすんなりなんだ! 郁に関しては色々と盲目状態の堂上に男も女も関係ない。 ちょっと優先順位について確かめ合おうじゃないか。 そんな説教第2R突入のタイミングも、「乙女のバスタイムを邪魔しないでくださぁい」という柴崎の声で強制終了となった。 ―――帰ってきたら覚えてろよマジで。餓えた番犬が凶暴化して啼くのはお前だからな! フツフツと沸き上がる怒りの中で、郁が帰ってきたらさせるリストに「一緒に風呂」が真っ先に挙がったのは、妻を愛する旦那としては当然の選択だと堂上は開き直っておく。 そして、手塚と入れ替わりに同様の出張に郁が出向くことを堂上が思い出すまで後数秒。 「オイコラ待て。 なんだそれふざけんな!!」 特殊部隊事務室内で遠吠えが響いたその頃、官舎の手塚宅で魔女の高笑いが聞こえたとか聞こえないとか。 |