「―――だから、お前は!」
ヒートアップしすぎて、つい語尾が荒くなる。
しまった、とハッとしたのは目の前の郁が、涙がこぼれるのを耐えるように、ぎゅっと瞳を閉じる姿を見たからだ。
上がっていた熱が一気に下がる。
「―――悪かった!言い過ぎた!!」
反射的に伸ばした腕は、けれど、パシンと郁の腕により払われる。
ハッっと目を見開く郁としばらく無言で見つめあう。


先に動いたのは、郁の方だった。
「あ、あの。ごめんなさい。ちょっと、混乱してて」
何かを耐えるように胸元でぎゅっと両手を握りあわせる郁に再度腕を伸ばしかけるが「だめっ」と鋭い声に阻まれる。

「だめ!今は優しくしないで!
 さっきのはあたしも言い過ぎた。
 だから、一方的に優しくしないでっ!」

抱きしめるのは、けっして郁を甘やかしたいからだけではない。
そうすることで、自分も安心できるのだが、それを言っても郁は納得しないだろう。

じりっと郁が半歩身を引く。
一人で冷静になろうとしている郁に手を出しても逆効果だ。却って意固地になってしまう可能性がある。
なんとも言えない苦い思いのままゆっくりと腕をおろす。


「―――ちょっと、頭、冷やしてきます」


か細い身体はどこまでも儚く見える。
それでも触れることを拒否する背中は、振り返ることなくそのまま部屋を出ていった。

















◆◆◆













あの場面で涙を見せるのはズルイと思う。
勿論、そういう戦いだってあるだろう。涙は女の武器だと言うし。
でも、自分がそれを使っていいとは思わない。
普段女であることで特別扱いされることを嫌う自分が、こんな時に「女」を主張するのは逃げであり、甘えだ。
―――泣けばその瞬間、篤さんは一人悪者になることを選ぶ。
夫が自分に甘いということを知っていて、それはできない。



夫の言い分が分からない訳じゃない。
ただ、自分の中で巧く折り合いがつかないもどかしさにイライラが募り、感情が荒れた。
一方的にどちらかが悪い訳じゃない。自分にも非があると認めている以上、そこに甘えてはいけない。
伸ばされたその腕の暖かさや優しさをしっている。
その腕に抱きしめられたら、涙腺はあっけなく崩壊する。
そしてそれを知っていて、敢えて泣かせて決着をつけようとする夫の腕をとるような自分を郁は許せなかった。


リビングで一人涙を流す。
涙を流せば気持ちが浄化され、整理できる気がする。
―――大丈夫。そうすれば落ち着いて。ちゃんとごめんなさいって言える。


「おかーさん・・・?」


その声にハッとして、手の甲で涙を拭い振り返る。
そこには眠たげに眼をこする我が子の姿。

「有馬。ごめんね。起こしちゃった?」
お互い熱くなっていた。もしかしたら、その声で起こしてしまったのかもしれないと思うと胸が痛い。
おいで、と手を広げるとテトテトと走りよってくる。
「お母さんとお父さんの声うるさくて起きちゃった?」
「ちがーよ」
抱き上げればニコリと笑った有馬が、すぐに悲しそうな顔をしてペタリと小さくて暖かい掌を頬に当ててきた。
「おかーさん、ないてたの?
 おかーさんのシクシクがね、ゆーまにきこえたんだ。
 おとーさん?おとーさんは?
 おとーさんが、おかーさんいじめたの?
 だったら、ゆーまがおとーさん、メっしてあげる」
ああ、なんて優しい子。
小さくも頼もしい我が子をぎゅっと抱きしめる。
「大丈夫。お母さんは泣いてないよ。有馬がいるから大丈夫よ」
「うん!ゆーまがおかーさんまもってあげる!!」
いっちょ前に男の顔をした幼子にキュンとなる。
―――ウチの子可愛い!!
息子の中でどうやら父親が完全に悪者になっているようだが、仕方がない。可愛いは正義だ。
ジクジクと痛んでいた胸はもう大丈夫。
―――これなら、ごめんなさいと、笑顔で大好きだって言える。
もう一度ぎゅっと愛息子を抱きしめれば、ぎゅーっと抱き返される温もりに、幸せを感じる。















◆◆◆












きっと、今頃郁は一人で泣いている。
涙を流すことはリラックス効果があるというのは知っている。
だから、泣きたいのを我慢する必要はない。
ただ、出来るなら、その涙は自分の胸で流してほしいと思う。
抱きしめてやりたい。
けど、今の郁がそれを望んでいないことも分かっている。
人の手に甘え過ぎないように、自分の力で凛と立ち直ろうとする強さも郁の美点の一つだと思うが、自分の前ではどんなに弱った姿を見せてもいいのにともどかしくも思う。
―――抱きしめたい。
けど、そうすれば「余計なことはしないで!」と涙目で怒るだろう。
―――だめだ。そんな顔も可愛い。
思い描く郁はいつだって愛しい。
やっぱり、抱きしめに行くか。
いや、郁の意思だって尊重しなければ。
そんなことばかりグルグルと考えていると。

「おとーさん!!」

バンと部屋のドアが開いた。


「―――有馬?どうした昼寝してたんじゃなかったのか?」
怖い夢でも見たか?と思ったが、目の前の息子は恐怖ではなく怒りに震えていた。


「おかーさんイジメるな!!おかーさんイジメるおとーさんはゆーまがメっするの!」
そう言うと、右手に引きつれていた子分である身の丈の半分ほどあるくまのぬいぐるみを「えいっ」というなんとも気合十分の掛け声とともに両手で床に叩きつけるように投げてきた。
相手は幼子で、物は柔らかいぬいぐるみだ。おまけに床にバウンドしているので、ポスンと足に当たるだけで終わる。
それでも、一応注意だけはする。
「有馬。ぬいぐるみやおもちゃは人に投げるものじゃないぞ。
 保育園のお友達には絶対にしちゃだめだからな」
屈んで床に転げるクマを拾い上げ、しゃがんだまま有馬に返そうとしたら、第二波がきた。
「メっ!なの!」
ポコポコと肩口を両手拳で叩かれる。
そうか、クマは囮か。二段攻撃とは考えたな。さすが俺の子。
なんて思う。
母を思っての攻撃がなんとも愛らしい。


「おかーさんないてた!だから、ゆーまがぎゅーしてあげたの!」
「おまっ、それ俺がやりたかったこと!!」
まさか息子に先越されるとは思わなかった!





―――いや!ここで、有馬を抱きしめれば、郁と間接ハグ!!















◆◆◆












「有馬。お父さんが悪かった。反省した。
 だからちょっとこっち来い!抱っこしてやるから!!」
腕を伸ばす篤から、有馬はジリジリと後ずさる。


当然と言えば当然である。
篤の醸し出す雰囲気はとんでもなく異様だ。
そして子供は空気に敏感だ。
恐怖を覚えた有馬は堂上家で一番強い人間を召喚した。



「おかーさぁーんっ!!」



涙声の我が子の声に母が血相変えてすっ飛んでくる。


「有馬っ!!」
恐怖に震える息子を郁がサッと抱き上げる。
そして、キっと目の前に居る篤を睨みつけた。


「何やったんですか!篤さん!!」
「ちが!誤解だ郁!俺は有馬を抱き上げようと!」
「なわけないでしょう!こんなに怯えて!!」
「だから!お前のことを抱きしめられないなら、せめて有馬をと思ってだな」
「はあぁ〜?意味分んない!ちょっと外で頭冷やしてきて下さい!!」


















「聞いてくれ、小牧。
 郁が息子の味方ばかりして、俺の話を聞いてくれない」
「いや、それどう考えてもお前が悪いよ。
 っていうか、行きすぎてキモチワルイ」





















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