我が家の空気を震撼させるのは、おおよその場合母さんであるのはある意味で仕方のないことだと思う。なにせ我が家は母さんを中心に回っていると言っても過言ではないのだから。


 だからつまり、今回の事件も母さんが引き起こしたものだ。

 事の発端は常と変らない熱愛夫婦のスキンシップからだった。
 クッションを抱きしめるようにして、膝を抱えて、という相変わらず可愛らしい格好をしてテレビを見ていた母さんが、徐に後ろを振り仰いだ。視線の先に居るのは父さんだ。父さんの脚の間がリビングでの母さんの定位置なのでそれも当然と言えば当然だ。
 振り向いた母さんに父さんが甘く溶けた瞳を向ける、・・・すごく、デレデレです。


「ん?どうした」
 開いていた本を閉じ、脇に置いた父さんの手がサラリと母さんの頬を撫でる。
 甘く優しく問いかける父さんに、母さんは至って真顔で返した。照れが走っていないあたり、母さんの思考はすでに走り始めているのだろう。
 この砂糖に埋もれているような気分にさせる甘い場面で態とではなく、本気と書いてマジと読む真顔である顔であるところが流石母さんと言ったところか。だからこその破壊力だ。

「篤さんの女装姿が見たい」

 ちょ、母さん!なんでこの雰囲気でその言葉のチョイスだし?!
 これがネットなら俺の周りには草が生えまくりだろう。大草原不可避!
 ねえ。母さん。ほんと待って?なんでいきなりそんなこと言い出した?!
 と思ったら、今母さんが見てるバラエティでは「芸能界一女装が似合うのは誰だ!女装王決定戦!」なるものが流れている。

 ―――これ?!これか?!母さんの女装発言の原因これか?!
 見てるテレビに影響されちゃうとか・・・どんだけ!どんだけ・・・可愛いんだ俺の母さんは!もう、マジ天使!!

 目の前のものにあっさり影響されて、目をキラキラ輝かせる母さんはいつまでも少女の様な純粋さを持った女性なのだ。
 ―――やべぇ。マジ天使!キラキラ顔で熱心に女装をネダる母さんの顔、マジ天使!


 近距離というか、ゼロ距離で超攻撃を受けて固まっていた父さんが「いや、あのな」となんとか口を開く。
「―――俺が、女装とか、ありえんだろ?」
「なんで?」
「いや、なんでって」
 母さんは本気で分かっていないようで、父さんの言葉にキョトンとした顔でコテンと首を傾げている。

 いや、母さん落ち着いて。落ち着いて考えようよ。
 確かに俺の父さんは、身長は165センチで成人男性の平均身長を下回る。それだけを見れば「小柄」な男性だ。
 だが、しかし。だがしかし、だ!
 思い出してほしい。母さん。
 貴女の旦那は、関東図書隊特殊部隊の次期隊長と噂されている、超戦闘職種です。
 小柄ではあるが、うちの父さんは華奢とは程遠い身体つきをしている。鍛え上げられた身体にはいい筋肉が全身を覆う。言ってしまえば肉付きの良い身体だ。
 肩幅もあり胸板もしっかりすていて、伸びる腕や脚もミッチリとした筋肉が付いている。ミシミシミシミシムッチムチだ。
 顔つきだってどちらかというと男臭い顔をしている。女顔ではないのは確かだ。


 
「篤さんは可愛いよ?」
「かわっ・・・!」
 母さんの言葉に父さんがミシリと固まる。

 確かに、俺の父さんは可愛い。しかし、中身が、だ。見た目ではない。
 俺の父さんが女装の似合う身体をしているかというと―――断言しよう、似合わない!
 気付いて!母さん!
 俺の腹筋が今日もまた鍛われてます!!


「ねぇ、ダメ?」

 下から、覗きこまれるように見上げられて父さんがグっと息を詰める。ウン。超破壊的に可愛い。ちょっと離れた所から見てる俺だってかなりの衝撃だ。


「―――俺が似合うわけないだろ?つか、女装が似合っても普通の男は嬉しくないぞ」
 優しく、優しく。諭すようにやんわりと拒否をしてみせる父さんに母さんは「そんなことないよ!」とグっと両手を握って力説する。
「だって!篤さん可愛いもん!だから似合うって!絶対篤さんが世界で一番女装が似合うって!」
 ―――貴女のその自信はどこから。
 父さんも母さんに対してかなり盲目だが、母さんだって父さんに関してはかなり盲目だ。
 バカっぷるめ!―――好き!!  

 下から覗き込みながら、プラプラと握った手を振りながら「ねーねー」とおねだりする母さん―――天使!なにあの可愛さ!
 時代が時代ならA級戦犯並みの可愛さだ!俺の母さんマジ萌え殺人者!

「ねー、一回!一回だけでいいからさ!お願い!」
「するか!」


 ジンワリ、と母さんの顔が歪んでいく。
 それに父さんがハっとする。


「―――あたしのお願いは、何でも叶えてやるって言ってくれたのに」
「・・・いや、それは・・・その」
「ウソ、だったの?」
「いや、そんなことはない!」

 真っ直ぐな心根な母さんは嘘をついたり、つかれたりするのが苦手だ。それが近しい人ならなおさら、だ。
 母さんの悲しげな様子に父さんが怯む。

「俺に出来ることなら何だって叶えてやる!」

 かつて母さんの機嫌を向上させる口上は「なんでも一つ言うこときく」だったが、年々というか日に日にというか、刻々と母さんに対して甘くなる父さんは最終的にいつでもどこでも母さんの願いを叶えると言うようになった。
 だからと言って母さんがどこでもいつでも我侭全開になることはない。遠慮深くて慎ましやかな女性なのだ。まさに天使。
 だからこそ、父さんもいじらしく思って母さんの甘やかしに拍車が掛るのだろうけど。
 母さん。母さん。父さんの思ってるオネダリはそれではない。それではないよ。
 何故、珍しい本気のオネダリが女装なんだ、母さん。父さんが望んだ結果じゃないよ、それ。
 流石に父さんが可哀想だけれども。


「有馬だって、お父さん可愛いと思うでしょ?!」
「うん」
「おいこら有馬!お前父親を売る気か!」
「そんなわけないじゃん」
 父さんが可愛いか可愛くないかと言えば、可愛いと思うのは嘘じゃない。
 俺は母さんの前では嘘はつかないと決めているのだ。
「俺に嘘言えっていうの、父さんは」
 母さんの前で?
 そんな思いを込めてみれば、父さんは押し黙った。
 それはそうだ。何せ我が家、というか俺と父さんの間には絶対に破ることのできない家訓がある。

 堂上家男家訓その一 母さんに対して誠実であれ!!

 世界で一番母さんを悲しませたくないと思っているだろう父さんが、それを破れるはずもなく、弱弱しく白旗を降った。



「―――・・・一回だけだぞ?」
「ほんと?!やった!篤さん大好きー!!」
 わーいと子供の様に跳ねるようにして抱きつく母さんは可愛い。
 しかし、父さんの心境は―――ああ、母さんに喜んでもらえて幸せなんですね。抱きつかれて嬉しいんですね。
 すごい勢いでテンションあがってました。流石父さん。
 やべ。草原やべぇ。サバンナ見える。
 ああ!もうマジなんでウチの両親こんな可愛いの?!




「ねぇねぇ!これなら篤さんでもいけるんじゃない?」
 
 「ちょっと待ってて!」と元気よくリビングを飛び出してクローゼットを漁っていた母さんがパタパタと戻ってきた。これこれ、と広げて見せるのは紺地に白い水玉の柄が入ったシフォン地の柔らかく広がるスカートだった。
「これならウエスト部分がゴムだから篤さんでも入るんじゃないかな!」
 キラッキラとした笑顔でスカートを差し出す母さんに、父さんがタジっと僅かに身を仰け反らせる。
 はい!とスカートを押し付けられて躊躇う父さんに、母さんが「どうしたの?」と首を傾げる。
 ―――最愛の妻に女装をお願いされて、躊躇わない男はいないと思います、母さん。


「もー。えいっ!」
「えい!じゃないわ!!」
 痺れを切らして、父さんのスウェットパンツのウエスト部に手を掛けてズリ下ろそうとする母さんの手を、父さんが慌てて掴んで止める。―――母さん、恐ろしい子!子じゃないけど。
 ―――どんだけ父さんの女装が見たいの母さん!
 もう、父さんの女装に向かって母さんが一直線過ぎて止まりません。


「着替えるから、お前ちょっとあっち行ってろ!」

 普段は可能な限りベッタリ、出来ることなら目の中に入れて歩きたいくらい母さんの傍にいる父さんも、流石に女装するところに一緒にいたくはなかったらしい。
 珍しく父さんが母さんを追い出した。もっとも追い出された母さんはウキウキと「はーい」と楽しげな様子で出て行った。



「―――父さんガンバ!」
「―――郁のお願いだからな・・・郁のお願いだからな・・・」
 己を奮い立たせるように息込む父さんはマジ愛妻家の鑑だと思う。






「う、わぁ・・・」

 スウェットパンツを脱いで、母さんのスカートを履く父さん。
 正確には履こうと果敢にも試みた父さん。
 ―――履けてません。
 そう。確かに母さんが用意したスカートのウエスト部分はゴム素材でゆとりのあるデザインではあった。
 が、元々がモデル体形の母さんのウエスト、に限らず母さんの身体の線はかなり細い。性差もあるだろうが、筋肉が付きにくい体質である母さんは一見して戦闘職種には見えない身体つきをしている。
 父さんと母さんの腰回りは一回り、いや二回り三回りくらいの違いがある。
 母さんサイズの服が父さんに入るはずもないのだ。

 ようやっとその惨状に気付いた母さんがむぅと小さく口を尖らせる。
 対する父さんはほっと安堵の様子を見せた。

「な、郁。分かったろ?俺には無理だって」
「うん」
 しかし、ここで終わらないのが俺の母さんだ。
「ちゃんと篤さんのサイズにあった服用意するね!」
「―――なっ!」

 俺の母さんは信念を貫ける意志の強い女性なのだ!


「だって、まだ篤さんの女装姿見てない!」





「―――有馬、郁の買い物、付いて行ってやれ・・・」
 いそいそと出かける準備をする母さん。ガックリと項垂れたまま父さんが俺に命じた。
 流石に、自分のスカートを買いに行く気力はなかったらしい。それでも母さんを一人で買い物に行かせるのは嫌だったらしい。俺の父さん超過保護。言われなくても付いて行くっての!



 母さんが父さんにと選んだのは紺の事務系のスカートだ。
 可愛さはいらん。シンプルなので頼む。
 そう懇願した父さんに母さんは笑顔で頷いた。
 「働くお姉さん系だね!うんうん。お仕事してる篤さんカッコいいもんね!分かった!」
 一体何が分かったと言うのか。使命感に燃える顔で母さんは頷いた。


 その結果。
 白いワイシャツに、紺のスカートというオフィススタイルの父さんが出来たわけだが。
 もう、スカートがピッチピチだ。きっちりかっちりとした紺の事務系スカートはタイトスカートで、そこから筋肉質の筋張った太い脚が伸びているのは、まぁある意味で、凶器だろう。



「―――満足、か?」
 憮然とした顔で問う父さんに、母さんは腕を組んだまま首を傾げた。
 母さん。もう諦めよう。無理だ。無理だって。ウチの父さんに女装は無理なんだって!
 それでも、諦めるということを知らないのがウチの母さんだ。
 うん、と頷き「大丈夫!」と言った。

「化粧すれば雰囲気変わるよね!大丈夫!ちゃんと柴崎にも連絡したから!!」


「―――おいッ!!」

 母さん。母さん。なんで魔女!なんでここで魔女召喚!!

「おまっ・・・!ふざけんな!」
「なんでよ!」
「ここで柴崎とか意味分からんだろうが!」
「えー?だってあたし人に化粧施せるほど得意じゃないし!」
 ギチギチと手を取り合って、取っ組み合いを始めて言い争う父さんと母さん。
 ベタ甘もデフォルトな二人だが、戦闘職種の二人は肉体言語のやり取りも割としょっちゅうなのだ。
 溺愛する嫁に投げっぱなしジャーマンする旦那も、あっさり受け身を取ってすぐさま上段回し蹴りに転じる嫁も早々いないだろう。
 そんなアグレッシブな二人も可愛い。によによ。
 している間に「ピンポーン」と玄関のチャイムが鳴った。
 ハッとする父さんに母さんの華麗な足払いが決まった。
「もー!篤さん往生際がわるーい!!」
「ちょ!郁っ!」
 ステーンと転んだ父さんに母さんが馬乗りになる。
「おい!バカ!どけっ!!」
「やー!です!
 有馬、柴崎呼んできて!」
「開けんな有馬!」

「だいじょーぶでーす。開いてました。あ、お邪魔します」

 あは、と降る軽やかな魔女の声。

「あ、柴崎いらっしゃーい」
「お招きいただきどーもです」
「招いてないわ!勝手に入ってくんな!帰れ!」
「うふふ。素敵な格好ですね、堂上教官」
 それはスカートを履いた格好か。それとも嫁に馬乗りになられている格好か。
 

「お任せ下さい。笠原の要望はあたしがきっちり聞いて差し上げますから」
「郁の願いを叶えるのは俺だ!」
 父さん。父さん。ズレてる。ズレてる。
 ニコリ、と魔女が笑った。
「じゃあ、ちょぉっと大人しくしていてくださいね」
 バっとルージュにチーク、シャドウやブラシを指に挟んだ魔女が笑んだ。
「は?!おまっ!ちょっ!ふざけんな!郁っ!」
「はいはーい。奥さん大好き堂上教官はご協力ねがいまーす」
「うっせ!郁っ!どけ!」
「もー!いい加減観念してよ篤さん。
 有馬!ちょっと篤さんの腕押さえてて!」
「有馬!」
「―――ごめん父さん」


 我が家には―――俺と父さんの間には絶対に破ることのできない家訓がある。

 堂上家男家訓その一 母さんの言うことは絶対!!




 そうして出来あがった父さんを見て、母さんが言った。


「―――篤さんはいつもの篤さんが一番可愛いね!」


 ―――今までの攻防は何だったのか。

 ガクリと項垂れる父さん。いや、うん、でも女装が似合うって喜ばれるのも、どうかと思うよ、うん。


「―――満足、か?」

 父さんの言葉に母さんが頷くよりも先に、魔女が口を開いた。

「ねえ笠原。折角だから、有馬にも女装させない?有馬なら、あんたの服入るんじゃない?」

 ―――魔女ー!!お前は黙れ!!

 パっと目を輝かせた母さんが俺を見る。
 タラリ、と冷たい汗が背中を流れる。
 マズイマズイマズイマズイ。

「有馬!有馬!お願い!」
「や、あの・・・母さん?落ち着こ、ね」
「一回だけ!ね?」
 顔の前で手を合わせて、ちょこんと小首を傾げて上目遣いでお願いされる。
 助けを求めるようにチラリ、と父さんを見ると笑っていた。


「母さんのお願いは絶対、だろ?」

 
 そんなわけで、父さんが履き損ねた母さんのスカートを履き、魔女に化粧を施された俺なわけだが。




「キャー!有馬カッコイイ!いる!いる!こんなモデルさん!!」
「はー。自分の腕が我ながら恐ろしいわ」

 半眼になる俺に、キャッキャと喜ぶ母さんに、自画自賛の魔女に。―――恨めしい視線を送る父さん。
 ―――待って!父さん!俺が褒められてるのは女装姿です!普通、男が女装似合うって言われても嬉しくないよ!父さんだってそう言ってたのに!!


 たとえ女装姿であれ、自分以外の人間が母さんに褒められるのは気に食わなかったようです。














「―――お前、女装似合いそうだよな」
「―――ねぇ、堂上。それケンカ売ってる?」

 いらんこと言いがアイデンティティの父さんがうっかり羨ましげに魔王に向かってそんなことを言って、関東図書基地特殊部隊事務室にツンドラ地帯を誕生させたのは、翌日の事だった。












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