「ねー!おとーさーん!!さんぽいこー!ゆー、さんぽいきたい!」
天井の方から有馬の声がした。
文章を追っていた視線を、彼に向けた。
大人にとっては窮屈なロフトの狭さも、子どもにはちょうど良いサイズだ。普通の部屋よりも低い天井が、まるで洞穴のようで子どもの遊び心を刺激したらしく、その空間を見つけるなり有馬はそこを秘密基地と定めた。家の中に居る時はロフトに入り浸っている。
手すり枠から顔を出す息子は今すぐにでも飛び出して行きそうな、好奇心いっぱいの目をしている。
本を閉じ大きな窓に視線を移す。
ジリジリとした夏の日差しを注ぐ空には、青空の中雄大に裾を広げる入道雲が見えた。
「途中で、雨が降るかも知れないぞ」
無駄だとは思うが言ってみる。
「それでもい〜から、い〜く〜のっ!」
母親そっくりの喜怒哀楽のはっきりとした彼はちょっとした暴君だ。
しかし東京にいる時は、仕事仕事であまり構ってやれない負い目もあって、ここに来てからはついつい甘やかしてしまう自分がいた。
「途中で雨が降ってきてもおんぶも抱っこしないぞ」
「ゆーひとりで歩けるもん!」
有馬が唇を尖らせて言った。その表情が、郁の拗ねたときの表情によく似ていたので笑ってしまった。








折りたたみ傘と有馬のレインコートをスーパーのレジ袋に入れた。
リュックやポーチに入れることも考えたが、有馬の拾った訳の分からない「宝物」を入れるのにもちょうどいい。
少し遅い昼寝をしている郁に、メモを残して別荘を後にした。
別荘、といっても勿論持ち別荘ではなく、郁の親戚が所有しているものでいつでも好きに使っていいと、合鍵が笠原家に置かれているのだ。
緑の森に埋もれて立つ別荘は郁も家族旅行に利用していたらしく
「おにぃたちと朝から林の中でかぶと虫取りしたり、夜はビニールシート敷いた上に寝っ転がって天体観察とかしてたんだ〜。
 家の裏には小さな小川が流れててね、ちょっと先に河原に下りれる石段があるの。
 そこで水遊びしながらスイカとかきゅうりとかトマトなんかの夏野菜冷やして食べてたんだ〜」
懐かしいなぁと懐古に耽る郁の姿に、幼き頃の郁が過ごした場所を見たいという思いもあって、義両親に話を通してもらい夏季休暇の連休を利用して遊びにきたのだった。



郁の言っていた小川は泳げるほどの大きな川ではないかわりに、水が清くつめたくて、飲んでもよさそうに思えるほど澄んだものでだった。川床は岩や小石で、ところどころに深みをつくり、岸辺には柳が垂れ浅瀬にはこまかい砂で、芹や藻などの水草がはえて、小さな魚が泳いでいて、と美しい風景を彩っていた。
その小川は有馬も気に入ったようで、浅い瀬にはいって、美しい小石をひろったり、水草の間の小魚をや石影に潜むサワガニをつかまえたり、いつまでも飽きずに遊んでいた。
普段、分刻みで行動していることを思うと、なんとも贅沢な時間だった。




有馬に誘われるまま小川に沿って歩く。
河原に下りた有馬は靴が濡れるのも構わずスニーカーのままバシャバシャと入っていく。
「おとーさんも!」
小川の中腹で手招きしする有馬に苦笑し、スニーカーを脱いで冷たい水の中に入る。
有馬と二人してバシャバシャと水音を立てて遊んでいると、後で軽トラックの止まる音がした。
プップと小さなクラクションが鳴る。
振り返ると窓から顔を覗かせた、人の好さそうな地元のおじさんが有馬に声をかけた。
「坊や、トウモロコシは好きかい?」
「うん、大好き!」
「いっぱいあるから坊やにやるよ、ほら」
こいこい、と手招きされる。
チラっと視線を向ける有馬に笑って頷いてやると、有馬はニパっと笑って声の主のほうに駆けて行った。
「もぎたてだから旨いぞ」
そう言って、日焼けした大きな手で有馬に立派なトウモロコシを4、5本持たせてくれた。
俺もそばまで行ってお礼を言った。
「おや、お父さんがいいもの持ってるじゃないか」
俺の持っていたレジ袋を指しておじさんが笑った。
「だったら、そっちのも好きなだけ持って行きな」
おじさんが後の荷台を指差した。そこには黄色のカゴいっぱいに真っ赤に熟したトマトが載っていた。
「いいんですか」
「ああ。どうせ出荷できん規格外だ。余った分は処分するだけだしな。好きにもってくといい」
「じゃ、お言葉に甘えて。頂きます」
レジ袋の中の傘とレインコートを脇に抱えると、真っ赤なトマトを6個入れた。
「わ〜、おいしそう!」
袋を覗き込んだ有馬が大きな声で言った。
おじさんはその声に満足そうな笑みを浮かべると、「じゃあな」とトラックをゆっくりと前進させた。
「おじちゃん、ありがと〜!!」
ブンブンと手を振りながら言った有馬の声は、きっとおじさんにも届いたことだろう。窓からヒラヒラとよく焼けた腕が振られた。





空は晴れていたが遠くから遠雷が響いた。
「もうすぐ雨が降りだしそうだな。帰ろうか」
有馬の手にしていたトウモロコシを受け取ると、トマトを傷つけないように袋に入れた。
小川に戻ってスニーカーを履いて、有馬と手を繋いで石段を登る。




別荘に向かって歩きだして暫くすると。向こうから雷がやってきた。
「篤さん!もー!雨降りそうなんだから傘くらい持ってきなよ〜。
 わー!もう靴グッショグショじゃない!水遊びするなら長靴履かせてよね!」
そう言って、俺を睨みつける郁の足元もスニーカーだった。
「すまんすまん。まさかそのまま駆けこむとは思わなくてな」
「もー。有馬の行動パターンくらい見越しててよー」
明日までに乾くかな、とふぅっと溜息をついた郁の瞳が、すぐに輝いた。
「わっ!立派なトウモロコシ。どうしたのこれ?」
郁が目ざとく袋からのぞくトウモロコシを見つけた。
「さっき、おじちゃんにもらったのー!」
有馬が得意満面で郁に告げた。
「おじちゃん?」
郁が怪訝そうな顔をした。
「通りがかった農家の人に、頂いたんだよ」
俺の説明に納得がいったのか、郁は笑顔で有馬の話の続きを聞いている。
「それじゃあ、今日の夜はお庭でバーベキューして焼きトウモロコシ作ろうか」
「やったー!」
「トマトはお風呂あがってから食べようね」
「つめたいの!」
「うん。よぉっく冷やしておこうね」




ゴロゴロゴロ・・・・・・・・
また、雷が鳴った。さっきよりも音が近づいていた。空もかなり暗くなってきていた。
途中で降り出してもいいようにと郁は、暑いからと嫌がる有馬にレインコートとレインパンツと長靴を履かせた。
「あつい〜、あるきにくい〜、やだ〜」
ブツブツ言いながら歩いている有馬の頭に雨が当たった。
「あ、あめだ〜!!」
さっきまでのブツブツはどこへ行ったのか、有馬ははしゃぎだした。
「有馬!帽子!!濡れるでしょ!」
フードを被せる前に駆け出した有馬に向かって郁が大声で叫んだ。


ポツポツと振りだした雨に取りだした傘を広げて気が付いた。
「郁、お前自分の傘は?」
「へっ?・・・・・・あ!忘れた!」
有馬のスニーカーの汚れは気にし、雨具も完璧にそろえてきたくせに自分が濡れることまで考えが及ばなかったらしい。
母親としてしっかりしているように見えてきても、まだまだ自分のことになると抜けている所があるのがいくつになっても可愛いと思う。
郁は、きょろきょろとあたりを見回すと「あ」と何かを見つけたのか、サトイモ畑のほうへと駆けていった。そして大きな葉っぱを傘代わりにして戻ってきた。
「じゃーんコロポックル!」
「―――あれは蕗じゃなかったか?」
「だっけ?」
あれ?と大きな緑の葉っぱを持ったままクテンと首を傾げる郁は、相変わらず少女めいて可愛い。



「ゆーまー。帰るよ〜」
呼びかける郁の格好に気が付いた有馬がズルイズルイと騒ぎ始めた。
「有馬にやったらどうだ?」
「はいはい。おかーさんは濡れて帰りますよ」
「ばか。お前はこっちだ」
俺は郁に傘を預けると、空いた手で彼女の腰を引き寄せた。
一瞬だけ驚いた顔をしてみた郁は、すぐに笑って身体を寄せた。



郁から葉っぱの傘をもらった有馬が、楽しそうに水溜りを蹴散らしながら走っていく。



「こら有馬!走らないの!滑って転んじゃうぞ〜。転んだら、痛いよ〜」
子どもの頃、さんざんそうやって遊んだであろう郁が、母親の顔で注意するのが何だか可笑しかった。




















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