「さて、どうしようか」
こんもりと紅い山を築く目の前のリンゴに、郁は緩く腕を組んで息を吐いた。


大都会東京では、ご近所付き合いが希薄だの言われてはいるが、居宅が官舎となるとまた話は違ってくる。官舎自体が一つのコミュニティーとなっているので、全くの人付き合いなしに生活することは出来ない。
民間のマンションとは違って、世帯主たる居住者は全員同職場の人間であるし、官舎周りの草取りは原則全員参加である(参加しない場合は出不足金が発生する)し、掃除当番も定期的に回ってくる。子供がいれば私立に行かない限りその子は同じ学校となるし、子供会や学校行事では必然的に顔を合わせることとなる。また、命を張る現場職員の世帯の集まりということもあってか、連帯感をもって、支え合うという雰囲気が根付いているというのもある。
これが人事畑を中心とした幹部宿舎ともなればまた違った雰囲気があるのかもしれないが、夫の階級を基にした妻間の上下関係というものは―――もしかしたら知らないところではあるのかもしれないが―――少なくとも郁は感じたことがない。それは堂上家が入る官舎が特殊部隊世帯が多く入っているせいもあるかもしれないが。
周りから見ればエリート部署と言われる特殊部隊ではあるが、構成員たちはそれを鼻にかけるようなタイプではなく、また出世意欲剥き出しというわけでもなく、どちらかというとアットホームな和気藹々とした雰囲気だ。むしろアットホーム過ぎて少々ハメを外しすぎている感もあるくらいの気安さだ。



官舎は既婚者用の施設ではあるが、既婚隊員全員がそこに入れるわけではなく、入居者数に限りがある以上優先順位が存在する。武蔵野第一図書館および関東図書基地で勤務する隊員の一番人気である職場に併設された官舎は緊急招集に備えるため、特殊部隊員次いで防衛部員からというのが入居の不文律となっている。
そう多くはないとは言え、広域行政を敷く図書隊には全国規模の転勤が伴うが、特殊部隊所属ともなると適正人員の確保が容易ではないこともあり、その陣営を簡単に動かすことはできない。業務指導で地方に長期出張や出向という形で一時的に関東図書基地を離れることはあるが、原則として転勤コースからは外れることとなる。そのため、官舎の長期入居者は特殊部隊世帯の率が高くなるのはある意味仕方がないと言えた。
そして、職場のアットホームな雰囲気はそのまま官舎にも適用される。
もともと特殊部隊の弟分として可愛がられていた堂上は先輩隊員の奥様方からは「年下の可愛い男の子」として認識されていたし、特殊部隊内で愛すべき娘っ子として不動の地位を築いている郁は、戦闘時は勇ましく凛々しい戦士ではあるが、平時は純粋素直な乙女であり見た目以上に若く、というよりも幼く見える言動からか官舎内でも我が家の大きな娘として可愛がられている。やんちゃが多い特殊部隊隊員の妻を務める女性は世話好きのチャキチャキの姐御肌や肝っ玉母ちゃんというような女性が多いのも理由の一つかもしれない。
堂上家の入る棟の元締め、もとい、管理代表者を務めるのが特殊部隊の古参でもある進藤の妻であるところも大きいだろう。彼女もまた切り盛り上手の面倒見のいい姐御肌の女性であり―――なにせあの、永遠の5歳児のような進藤を御している猛者だ―――入居時からなにくれと目を掛けてくれている。
入居祝いの際には、何せあのおしゃべり好きで、嫁さん大好きを公言して憚らない進藤だから、家に帰ればその日の出来事を面白おかしく妻に話しているのだろう、「堂上さんにはウチの宿六が散々迷惑を掛けているようですみません」ときたものだ。自分の夫を「宿六」なんて表現する女性を郁は初めて見た。ちょっとした衝撃を受けたのも事実だ。郁にとっての妻像は、夫の一歩後ろに控え、夫を立てるという古風で奥ゆかしい妻の鑑である母の姿が一番強い。堂上の母との初対面時もあれはあれで衝撃と言えば衝撃だったが、あれは「妻」というよりもその天然ぶりに対する驚きの方が大きかったので別物だろう。
「ウチの人含めて困ってることがあったらなんでも言ってちょうだいね」
にっこりとそう言う姿はどことなく郁の親友であるところの柴崎を思い起こさせた。
普段夫の言動に振り回されっぱなしの郁としては少々羨ましいと思う姿であるが、その夫である堂上としては無自覚状態の妻にそれでなくとも弱いのだから「惚れた弱み」という奴を自覚されると分が悪いのであまりそういう強さは持って欲しくないというのが本音である。冗談のような軽口の口上であっても離縁を出されたら全面降伏するしかない。いや、嘘泣きでも涙の一滴でも見せられたらもう即ごめんなさいだ。


そんな感じで入居時からスムーズな近所付き合いに溶け込めた堂上夫妻は入居年数も10年を越え官舎内でも古株になりつつある現在においても可愛がられている。
その結果のリンゴの山だ。
秋の行楽シーズンでフルーツ狩りは往年の人気を見せている。この時期が旬のフルーツの一つであるリンゴの産地である長野県は東京からもほど近く手頃な価格のバスツアーが組まれる人気スポットの一つだ。休日にそうしたレジャーを楽しんだ家族からお土産にと幾つか貰い、「農家をやってる親戚から旬ものだからって箱いっぱい貰ったの」とお裾わけを受け、そうこうしている内に立派な山と相成った。
一軒一軒持ってくる数は数個ずつでも数が重なると結構な量となる。リンゴは嫌いではないし、夫婦揃って身体が資本の戦闘職種で一般に比すれば食べる方であるし、食べ盛りの息子もいる。
しかし、リンゴばかり食べれるほど好物と言うわけでもなく、一日食べる量にも限度がある。一日一人一個も食べれば充分だ。
果物の中でも比較的日持ちがするものではあるが、それだって無期限ではないし、日が経てば経つほど水分が抜け食感は悪くなるし、味も落ちる。





「やっぱり残りは加工するのが無難かな」
とはいえ郁の技量で出来るものとなると、せいぜいがジャムか焼きリンゴといったものだ。
さて、どうしようか。と思ったところで、そう言えば冷凍庫にパイシートが残っていたはずだと思いだした。
フィリングを作ってしまえばアップルパイがすぐにできる。なんて素敵なデザート!
此処に居るのがパイ生地すら手作りしてしまう夫ならタルト・タタンやシブーストなんかを嫌味ったらしく作ってしまうのだろうけど。
堂上にしてみればそれはイヤミでも何でもなくただただ偏に妻の喜ぶ顔が見たいが故の技術向上であるが、行きすぎた愛情は時として理解を得られにくい。
「いや違うし。アップルパイが食べたいから作るだけだし!」
妥協じゃない!と女としてそこは主張しておく。誰も聞いちゃいないのだが。



―――よし!と郁は意気込んで籠の中から三つほどリンゴを選び取る。
貰ったものから食べていたので、今のところ見た目に傷んだものはないようだ。
果物ナイフを皮に宛がい、リンゴを回せばスルスルと皮が剥けていく。
郁が初めてリンゴを剥いたのは、堂上が入院していた時だ。見舞いのフルーツ籠から気合い十分に取り出し、見よう見真似のイメージで果敢にチャレンジしたら、見事にいびつな上、皮も剥き終わっていない血染めのリンゴが出来上がった。心身ともに痛い思い出だ。
あれから10数年経った今はそんなヘマはしない。
普段、猪突猛進で大胆な行動を取る郁だが、その行動力に反して案外と、と言うのは失礼だが、手先は器用な方だ。
女の子らしさというものにコンプレックスを持ち、また母親に対する反発心から台所に立つことがなかったため、初めての皮剥きは不慣れ故にみっともない失敗をしたが、以後の特訓でおおよそそれは克服し、また妻となり母となり日常的に包丁を扱うようになればあとはこっちのものだ。
カッターナイフなんかを使う工作なんかも得意だもの!任せて!
料理と工作を同じ土俵で考えているあたりが夫や息子が不安視しているところではあるのだが、そんなこと郁の知ったことではない。
そんなノリで包丁の扱いもあっという間に体得し、リンゴの皮剥きくらいお茶の子さいさいだ。クルンと一本に繋がった皮を持ち上げて、郁は満足げに笑う。ところどころうっすら剥き残りの赤いラインが残っていたり、若干のガタつきが見られるがそこはご愛嬌だ。
剥き終わったリンゴは塩水につけ、残りのリンゴも手早く皮を剥く。剥き終わったら、8等分にして芯を取り除いて5ミリほどの銀杏切りにし、耐熱ボウルに移す。その中にバター、砂糖、シナモンパウダーを入れ、ラップを掛けてレンジで5分ほど加熱する。一度取り出し、全体を混ぜて馴染ませた後、今度はラップを掛けずにある程度水分が飛ぶまで加熱する。最後に香り付けにラム酒を軽く振ってフィリングは完成だ。
「ん。上出来!」
味見に一つまみ摘んだ郁はその出来にニッコリと笑う。
ふんわりとバターが香り、シナモンの風味がリンゴ本来の酸味と甘さをしっかりと引き出したフィリングに仕上がっている。シャッキリとしたリンゴの食感も残っていて、いい感じに仕上がった。
「あとは、パイ生地、と」
とは言え、パイ生地自体は既に出来上がっているので、施す作業はあまりない。用意したパイシート二枚のうち一枚にフォークでプスプスと軽く穴を開ける。もう一枚は包丁で切れ目を入れる。
クッキングシートを敷いた鉄板の上にパイシートを乗せ、汁気を切りながらアップルフィリングをたっぷり乗せる。
切り込みをいれたパイシートを伸ばしながら上に置き、フォークの背を使って縁取りを作る様にパイシート同士をくっつけていく。
あとは艶出しに溶いた卵黄を刷毛で塗り、200度のオーブンで約30分焼いたら完成だ。





甘く香ばしい匂いが漂い始め、焼き上がりを知らせるタイマーが鳴ったところで息子が帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえり」
「めっちゃイイ匂い!」
バタバタと帰ってきた息子に郁は笑いながら答える。
「ナイスタイミング!ちょうどアップルパイが焼けたところよ」
「やり!」
「手洗いうがいをしてらっしゃい」
りょーかい!と元気よく駆けていく息子に、そう言えば、と郁は思い返す。

―――あたしが学校から帰ると、いつもお母さんの手作りのおやつが用意してあったな。

昔ながらのお嬢さんお嬢さんしていた母親だったからか、子どもの為にとスナック菓子を常備することはなく、子どもの頃のおやつと言えば母親の手作りだった。何が食べたいと言えば次の日にはそれがきちんとした形となって実現した。
プリン、ドーナツ、みたらし団子、カップケーキ、スイートポテト、蒸しパン、ババロア、パウンドケーキ、マフィン、クッキー、大学芋、エトセトラエトセトラ何でもござれ。
勿論母にも作れないものはあるのだろうが、少なくとも子供の郁がリクエストして叶わなかったものはなかったような気がする。
「女の子らしさを押し付ける母親」は苦手だったが、「料理上手な母親」は子供心に密かな自慢だった。―――気がする。
当時それを素直に認めることは出来なかったけれど。何か一つを認めたら、母の全てを認めて受け入れなきゃいけない気がしたから。
―――大学芋とか、中華屋さんとか総菜コーナーで売ってるものよりお母さんが作った方が飴がカリカリしてて美味しかったんだよね。
そういう記憶があるから、レパートリーが少ないながらもこうして時々お菓子を作ろうという気になるのかもしれない。
―――まだまだ全然、あの頃のお母さんには追い付いていないけれど。



「―――母さん?」
息子の声に意識が還る。
「ああ。ごめんね。お茶淹れるからちょっと待ってて。
 有馬もカモミールティーでいい?」
「いいよ。あ、ハチミツ欲しい」
「分かった」
親の嗜好というのは子供に存外影響を与える。両親が好んでハーブティーを飲んでいるためか、息子の有馬もハーブティーの類は抵抗なく飲める。好きな人のものは好きになりたい理論が多大に働く堂上家はコーヒーよりも紅茶党だ。
そしてその大本である郁の元を辿れば、―――これもお母さんの影響だよね、と郁は思う。
郁がハーブティーを飲み慣れていたのは、やはり母親の影響だ。
手作りジャムとスコーンに紅茶、なんて言うイングリシュアフタヌーンティーを思わせるおやつタイムは笠原家ではけっして珍しくなかった。自分ではなかなか認められないが、乙女的思考を持つ郁はそんなおやつはちょっとしたトキメキをもたらすものでもあった。
ああ、そうだ。母親との記憶はけっして嫌なものだけでなかった。
溝が埋まった今だから、それが分かる。素直に認め、受け入れられる。
そういう母親との交流は確かに「シアワセ」だった。
切り分けたアップルパイとティーポットを運びながら郁は思う。



―――ウチもそうやって「シアワセ」な時間をいっぱい作っていこう。




「熱いから気を付けてね」
「うん。いただきます!」
ハクハクと頬張り「ウマイ!」と相好を崩す息子の姿に「ならよかった」と郁も笑い、出来たてのアップルパイを頬張る。
「母さん!お替り!」
もー、パイくず一杯付けて、と口元に付いたものを人差し指で拭いながら「夕食前だからダメ」と言って笑う。
「―――って言いたいとこだけど。あたしも食べたいし。お母さんと半分こ、これでいい?」
勿論有馬に否やはなく、やり!と指を鳴らす。
切り分けたものをもう半分。ハイどうぞ、と郁が差し出せば有馬が身を乗り出してパクリ!と食い付く。


「随分楽しそうなことしてるな」
「あ、おかえりなさい、篤さん。どうしたの?早かったね」
「ああ。踊りまくって、埒があかなくなったからな。論点だけ挙げて、後日文書で回答する形で切り上げてきた」
「それは、お疲れさまでした」
苦笑して、郁は夫を労う。
全体会議に堂上が顔を出すようになってもう10年ほどになるか。当初は特殊部隊代表である玄田やその代理である緒方に付きそう副官としての参加であり、そこで何かを発言したところで「若造が何を言い出すか」と軽んじられることが多かった。けれど、経験と実績を積み貫禄を増し、隊長および副隊長の代理として正式に参加する今では場を仕切ることができるほどだ。
もっとも、玄田が退役し、緒方が隊長にあがり、その空いたポストを進藤が埋めることとなった現状において、進藤が隊長代理で出てくるよりも堂上の方がマシだということもあるのだろう。
なぜそんな進藤が特殊部隊副隊長なんていう役職に就いているかというと、単にそこしか適当なポストがなかったのだ。
いくら実弾の使用がなくなったとはいえ狙撃手であることに拘りを持つ進藤は身動きのとれない班長や副班長より、遊軍である平隊員を選んできた。けれど、本人がいくら気にしないと言ったところで、進藤は今や隊長となった緒方の同期である実績と経験を合わせ持つ特殊部隊の古参であり、順当に昇進を重ね現在二監の階級を持つためエリート部隊内である特殊部隊でも上から数えた方が早い立場にある。そんな人間をいつまでも平に留めておくのは他の班員もやりにくいだろうし、外聞もよろしくない。
そういう理由から緒方が隊長に上がったと同時に進藤もまた副隊長の役に就任したのだった。
班に縛られない副隊長であれば、今までと変わらない動きができるし、実戦の場では現場指揮官とはなるが、もともと俯瞰する場所に陣する進藤にとって状況把握は苦ではない。
そして緒方が副隊長を務めていた時と違い、隊長が真面目であれば余計な雑務が回ってくることも少ない。回ってきたときには今まで通り何らかの理由をつけて堂上に回すだけだ。
もっとも、次代の隊長と目されているのは堂上であるので、そうして隊長および副隊長の代理として正式な任務を請け負うことは業務の引継の意味合いに加え周りにも顔を売ることができるため、全く余計な仕事というわけではなく、敢えて回している部分も多少なりともあるにはある。とは言え釈然としない部分もあるのも事実だ。
まぁそこは長年染み着いた特殊部隊生活でいろいろ諦めている堂上である。




「そんなことより郁。俺にも一口くれ」
あ、と口を開く夫にアップルパイを差し出すことはなく郁はピシャリと言う。
「手洗いうがいが先です」
「少しくらいいいだろ」
「それじゃ意味ないし」
有馬にもできることがなんでできないの。
わざとらしくため息を付く郁に堂上は「わかったよ」とやや拗ねた顔で洗面台に向かう。
「もう。どんだけお腹空いてるのよ」
夫の後ろ姿に苦笑を零す母親の姿に「―――いや、違うと思う」と正しく堂上の息子である有馬は思う。
アレは別にお腹がすき過ぎて、というからではないだろう。



「有馬、お父さんが戻ってきたらお茶淹れてあげてね」
「母さんは?」
残りの半分をサラっと自分の胃に収めた郁は夫の分のアップルパイを皿に取り分けて立ち上がる。
「篤さんがあんだけアップルパイ欲しがるくらいだもん。きっとすごくお腹がすいてるんだよ。だったら早くお夕飯の準備しなきゃでしょ」
―――いや、だからアレはそういうことじゃないと思うんだけど。
という正しい有馬の読みが郁に分かるはずもなく、名残惜しげもなく郁はさっさとキッチンに入る。
そしてそれと入れ違いに堂上が戻ってくる。惜しい!




「―――郁は?」
取り分けられたアップルパイのみを残して姿を消した妻に堂上は明らかにガッカリした表情を見せた。
その表情に有馬が内心「ほらね」と苦笑する。
「父さんがめーーーーーーーっちゃくちゃ腹が減ってるだろうからって、夕飯の準備しに行った」
「―――そんなん後でいいのに」
単に郁に「アーン」をしてもらいたかった堂上は残念そうに、けれど郁が用意したアップルパイを無碍にできるわけもなく、息子の前に腰かける。
「―――お前の茶、貰うぞ」
「あ、新しいの淹れるって。もうぬるいよそれ」
ティーポットを揺らす息子に、「いい。それはお前が飲め。俺はこっちでいい」と堂上は了承を待たず目の前のティーカップに手を伸ばし取り上げる。そしてさっさと飲み干す。
「―――父さん」
「なんだ」
「―――どんだけ母さんが淹れたお茶が飲みたいの」
「ほっとけ!」




















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