待ってくれこれはそうだ例えば悪夢だったというオチはないのかそういうのは漫画とか小説とか目だけから入ってきて直接身体には影響しない、そういう類いのものの中だけに存在するものなのか、だとしたら今、たった今俺はそちらの世界に行けないのだろうか。対して読まない紙にまで縋るということは即ちそういう状況であるということだ。出来るなら紙でもどこでも、この背中を汚す泥のように水気を含んだ土に吸い込まれてもいい。そうだ、それでいい。
「ねえ俺、今南が考えてること、当てられる、絶対」
「…絶対、っていうのは易々と使っていいもんじゃない」
「けちだなあ、南は絶対だよ、絶対」
「わけわかんねえよ」
「だろうねえ」
 違う、今のは千石が言った絶対に対して返したものだ、この状況はわけがわからないで済ませる程簡単なものではないしそれは俺が許さない。千石を、ではなく、俺が俺を、ということだ。肩を押している千石の手の平に力が入ると、肩の下の泥がぐちゃ、と音を立てる。白い制服が、考えを巡らせばまた目の前の千石の薄い色をした目が、ぎらりと。夏の日差しは目に痛そうだ、これも見透かして考えていることを当てられると言うのなら、気持ち悪い。
 そもそもどうしてこんなところで寝転がる必要があるのかと問われれば返す答えなど無い。千石が強要してきたからだ、それしかない。至極間抜けな回答でもしないよりはマシだろう、答えが無いものは処理出来ないから嫌いだ。
「許可取ってやることでもないのかなあ」
「…何言ってんだお前」
「え、外でするよ、って言った方が親切かなって」
「誰にだ」
「南以外に言ってもいいの?」
 思考を飛ばそうと努力しているうちに千石の手は制服の前をすっかり開けていて抵抗を諦めたわけじゃない脳内では必死に、相手にそう言ってやる必要は微塵も無いのでくだらない会話にうっかり付き合ってしまった。声帯だけは無事なままなのか、それ以外は気の触れたような様子でしかない千石を見据える。
「抵抗してくれないと、承諾だってことにするよ」
「勝手だな」
「まあね」
 千石の手が触れた制服は、うつ伏せにもなっていないのに泥だらけだ。ああ、もう、せめて自分の制服で拭ってからにしてくれ。
「千石、」
「なあに」
「もういいから」
「…早くしろって?」
「ああ」
 ぐちゃ、髪も腕も背中も腰も脚もなにもかもが泥にまみれて、それより最悪なのはもう既に最初に、下は剥がれているという事実だ。ぐちゃ、という音が泥の所為だけでないのはとうに知っている。本当なら声に出して言うべきだ、最悪だ、と。
「えー、なにそれ萎える」
「じゃあやめろ、今すぐ」
「やだ、すぐするから待って」
 待って、と言われて待てるものか、ここが学校でなければ、ちがう、そういうことじゃない。大体こういう、背中にべったり泥が付いて真上に千石がいるという、状況になるまでに互いに引っ掻き傷すらないということがまず。あると言えば、千石が焦って俺の腹に付けた痣ぐらいか。それも明日には消える。
 すぐするから、ってもんでもない。そう言って慣らさずに突っ込むようなやつでもない。幸か不幸か、といったら断然不幸だろ。ただ、
「…ん、」
「ごめんね、そりゃここまですれば声は出るよね」
「ふ、はッ…」
「もうちょっと、ね、みなみ、みなみ」
 学校という場所が悪いのか、放課後加えて練習後という時間帯が悪いのか、この時間なのに真っ昼間みたいな太陽即ちこの季節が悪いのか、昨日降ったスコールのような雨、焦げるような日差しの中残ったような日陰の下の泥、そうされる以前から汗を流させる気温、目の前で蕩けたような顔をする千石、それとも俺。なにが悪いんだろうか、なにも悪くないならいっそそれでいい。
 結局泥にも土にも受け入れてもらえなかった俺は勝手に動く身体を千石で固定するしかなくて、悪夢でないことも、いやそもそも悪夢とは悪い夢と書くのであってそれならば。ちらつく太陽を目に刺したまま、ああ空が青い、と、それだけを。




20050706



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